1932(昭和7)年12月、国立ハンセン病療養所として長島愛生園に続いて2番目に群馬県草津町に、草津温泉の湯之沢地区にあった「癩村」の人々を収容する目的で栗生楽泉園が開設された。
湯之沢地区は患者が旅館業を主として「自立自活」して生活しているため、楽泉園への収容はなかなか進まなかった。そのため、楽泉園当局は園内に「自由療養地」を設置して、湯之沢の患者が家屋を移築することや、無料外来診療を認めるという特例まで設けて収容を進めた。結果として1937(昭和12)年までに339名の患者を収容している。だが、実際は湯之沢の患者数はそれほどには減っていない。
前回までの「本妙寺事件」(本妙寺集落)との決定的な違いは、湯之沢地区では患者が旅館や商店などを経営し、湯治に訪れる全国からのハンセン病患者を受け入れて生計を立てながら、一つの集落として「自治」を行っていたことである。また、湯之沢を開拓して集落をつくってきた歴史も古い。湯之沢集落(部落)の「前史」については、栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』に詳しい。ここでは、解散(消滅)の経緯について触れておく。(「湯之沢集落の歴史」については別項にて論じてみたい)
上記引用文に続けて藤野氏は、当時の新聞各社の報道や湯之沢の区長の談話を転載して、県当局の「誠意」により移転は「円満解決」であったことを紹介しながら、それは「つくられた『美談』」であって真実ではないと、当時の湯之沢の代表であった田中宏(『風雪の紋』では代表者名は「久造」となっているが、同一人物かは未確認)さんの証言から述べている。
藤野氏は「たしかに、本妙寺の集落のように、警察官を動員した強制収容とならなかったのは、湯之沢の住民が『移転』=消滅に結果的に同意したからであり、もし最終的に同意しなかったら、やはり本妙寺の場合と同様の結果となっていただろう」と述べている。
私も同感である。「無らい県運動」の大きな壁であった本妙寺集落そして湯之沢地区の解消によって、光田ら絶対隔離主義者の野望は完遂に向かって更に全国規模で加速していくことになる。
では、実際にどのような「切り崩し」があったのか。『風雪の紋』に次のような記述がある。
「剛と柔」の懐柔策だったのだろう。ただ、三上千代の活動は純真に患者のことを思ってであったと推察できる。彼女のキリスト教信仰に基づく「救癩」活動は、彼女についての文献や資料を読むかぎり、その献身的な姿に感動を禁じ得ない。その三上がなぜ光田の走狗のような役割を果たすに至ったのか。『風雪の紋』に「三上千代と鈴蘭園」という小項目に従って、三上の湯之沢での活動を辿ってみたい。
大正13年(1924年)に服部けさとともに聖バルナバ医院を去る。この理由を武田徹氏は次のように述べている。
光田健輔の影響を強く受け、思想的に相当に感化されていることが明らかである。だが、リーと決別したのは、リーに対する不平や不満によるものが大きかった。激務に加えて、心臓弁膜症の持病を抱える服部に対する気遣いのなさ、信仰上の相違による対立、外国人に対する日本人としてのプライドを傷つけるリーの態度など、そして決定的には新たに雇う医師との待遇(給金など)面での格差が引き金となったのである。
三上は服部とともに、湯之沢と上町の境、滝下口に土地付きの家を買収し、そこに「鈴蘭医院」の看板をあげた。しかし、その後1ヵ月も立たないうちに、服部けさが急に容態が悪化し、多くの患者に見守られながら息を引き取った。
親友服部を亡くし失意のどん底にあった三上にたいし、全生病院長光田健輔は、慰めといたわりの情をこめた「全生病院看護婦を命ず」の辞令をあたえ、三上もこれを受けて再び同院の看護婦に戻った。しかし、服部との草津に新しい療養所を開設するという夢を忘れることができず、服部の墓参に草津を訪れた足で滝尻原に向かい、湿地を掘って湧き水が出ることを確認し、光田に相談して許可を得て、草津にて活動を開始する。
その後、光田を通して若いキリスト教徒たち(のちのMTL)や賀川豊彦、服部の母校の女医会や修養団体希望社の後藤静香など多くの人々からの後援を得ることができたが、それでも経営は苦しく、各方面に小口の募金を訴えながら苦境を切り抜けていった。それを私費で助けたのが光田健輔であった。
何より彼女を失意に落としたのは、勧誘した入園者の減少であった。その最大の要因は、鈴蘭園には温泉が引かれていなかったことである。湯畑より2㎞も離れた鈴蘭園に温泉を導引するには莫大な費用を要した。
藤倉電線社長松本留吉がバルナバ医院新築に10万円を寄付したことを知った三上は、さすがに意気消沈し、全生病院医官林文雄や光田健輔に心情を吐露した手紙を送った。光田はそんな三上を放っておけず、彼女を伴って渋沢栄一の私邸に相談に出かけた。
翌6(1931)年、三上は鈴蘭園の東にあたる栗生の地に楽生園の工事が始まると、鈴蘭園の設備を国に寄付し、楽泉園看護婦長就任への要請も断って、老母とともに宮城県名取郡秋生村に「秋生鈴蘭園」設立をめざして向かった。
光田が三上に寄付した「1000円」を現在の貨幣価値に単純に換算はできないが、大正9年の総理大臣の月給が1000円であることから推定して、200~500万円くらいではなかったかと思われる。光田が職員や患者にお金を渡したり、いろいろと私費での支援をおこなっていることはエピソードとして有名である。
このようなエピソードなどから光田健輔の人情味溢れる人柄を推測して、彼が強引に推進した絶対隔離政策についても、患者のためを思ってのことと推察して正当化する人間も多い。確かに光田のハンセン病患者への温情や親身な接し方は、当時の世情を考えれば、献身的な奉仕とも受け取ることはできる。また、ハンセン病対策に尽力する人々、たとえば三上千代や小川正子、宮崎松記や林文雄ら医官への心遣いなどは温かい人間味さえ感じられる。
ただ、やはり一方で、そこには<パターナリズム>を強く感じずにはいられない。自分に忠実な者、意に沿う者には限りなく尽力するが、反する者には容赦ない対応をする。まさに<両義性>である。