武田氏の考察は、なぜ戦後も「絶対隔離政策」に対して非難の声が上がらなかったのか、について重要な視点を提示している。
戦後においても「絶対隔離」が継続し、「無らい県運動」によってハンセン病患者が療養所ヘと送り込まれた最大の要因は、療養所に入らなければ「プロミン治療」を受けることができなかったからである。
1941年、アメリカでハンセン病に大きな効果を発揮するプロミンが開発され、1943年にはその効果が認められた。1947年以降、日本でもプロミンの画期的な効果が発表され、ハンセン病は「完治する病」となった。
なぜ光田がここまで「絶対隔離」に固執したのか。長年にわたって築き上げてきた第一人者としての権威が崩れることを恐れたからなのか。医学の進歩や新しい治療薬の出現に逆行するかのような光田ら絶対隔離論者の対応はなぜなのか。
光田健輔たち絶対隔離主義者が夢想した「大家族主義」に基づく療養所というユートピアが「主観的な夢」でしかない以上、それは「脆い」ものであった。そのユートピアを実現するという「目的論的な構図」のために、意に反する者たちは「排除」されてきた。懲戒検束権という「暴力」の正当化により、「特別病室」や「ライ刑務所」が設置され、実動された。
なぜ光田たちは自らの行為を省みることがなかったのか。なぜ多くのキリスト教の信徒でもあった医師が「強制収容」「断種・堕胎」「特別病室」「ライ刑務所」を是認したのか。なぜ日本MTLは光田らを盲信したのか。武田氏の考察が彼らの盲従を解明している。
自説に固執し、他説を批判するのではなく、他者その人を非難する人間もいる。