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ハンセン病と明治の文芸(2) 福沢諭吉

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』に、福沢諭吉のハンセン病観の変遷が取り上げられていて、実に興味深い。

…まず福沢諭吉の癩に対する認識の移り変わりを考えてみたい。全て抄出だが、1872年の『童蒙教草』には、先祖の病を子孫に遺し伝えるのが(癩病のような)遺伝病であり、その元を探ると、その人の父母か、あるいは先祖に不心得があって、それが病毒を醸し、これが子孫に伝わるのだから、罪は先人にあるとしている。1881年の『時事小言』によると、癩のような遺伝毒は、その侵入を五世にわたって守り抜けば跡を絶つという。1896年の『福翁百話』では、都下の住人は土煙の立つ中で生活しているが、その中にはいろいろな不潔物が混ざっており、梅毒癩病人の痰唾もあるとしている。らい菌の存在を知っていたのだろう。それが1899年の『女大学評論新女大学』になると、次のように変わる。

<女の七去>の一つ<癩病などの悪しき病あれば去る>というのは、荒唐無稽の戯れ言であって、癩病は伝染病であり本人の罪ではない。不幸な悪疾にかかったことを理由に離縁するとは何ごとか。人情があればまずは手厚く看病し、たとえ全快はしなくとも軽快を祈るのが人間の道である。「孝婦伝」などには夫の悪疾を看病して称賛された女の話が多い。

このように福沢が、遺伝病から伝染病へと癩病観を変えたのは、たぶん北里柴三郎から得た知識によるものと思われる。コッホのもとで学んだ北里が、1892年に帰国し内務省衛生局に復帰したときに、局長後藤新平は大日本私立衛生会副会頭長与専斎とはかり、福沢の助力を得て同年度のうちに伝染病研究所を設立し、北里を所長に据えている。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

成田は「福沢の癩についての病観の変わり身の素早さ」と言いながら、『小夜子』を書いた菊池幽芳を「癩を伝染病と知りながら遺伝病にこだわる頑迷さ」と批判している。ハンセン病に関する医学的解明が不十分な時期にあって、古来からの「業病」「天刑病」や遺伝病であると信じる者も多く、俗説も多々流布していた。小説の題材としては伝染病より遺伝病の方がおもしろいストーリーが描けるのもわかるが、繰り返しになるが、読者に与える影響は考えていない。それに対して、福沢は啓蒙思想家だけあって、知的好奇心や知識欲もあり、「時事」に関して広く見聞を求め、多くのことを論じている。ハンセン病に関しても、以前の主張を顧みず、何より最新の知識を元にして所感を述べている点において評価してもよいと私は思っている。


ハンセン病といえば光田健輔であるが、光田以前では北里柴三郎がいる。福沢にも影響を与えた、細菌学的予防医学の始祖とされる北里柴三郎はハンセン病をどのように認識していたのだろうか。

北里は第二回国際癩会議(1909年、ベルゲン)に出席したが、その帰朝談として、ノルウェーの癩対策は敬服に値するとし、わが国もこれにならえば癩はいずれ減衰すると主張している。

…北里の癩に就いての所説は、伝染性はかなり強烈なものであって、その故に危険な疾患ということだが、この根拠ともなると、らい菌の人体もしくは動物接種といった、今からすると妄説を誤信していたに過ぎない。そればかりか、できたはずのない癩菌の培養を、結核菌を培養した際の発育と比較してみたり、伝染病研究所や慰廃園において癩患者を診療していたにもかかわらず、粗雑としかいいようのない臨床所見を記載しているあたりは、癩自体に対する研究意欲がそれ程でもなかったことをうかがわせる。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

時代の制約があるとしても、成田が引用している北里の論文や講演録を読むかぎり、成田が言うように「北里の論説は、そのときどきの新しい知見によったにしても、認識不足か、錯誤か、恫喝かよくわからないところがある」と私も思う。しかし、当時の衛生学・細菌学の権威である北里の影響力は大きかったと想像できる。福沢も北里の説を鵜呑みにしていたのだろう。

余談になるが、北里柴三郎(1853年~1931年)と光田健輔(1876年~1964年)は年齢的にも重なる時期がある。ただ、23歳の差は大きい。

…何よりも北里の自負心の強さは相当なもので、内務省衛生局での同僚だった後藤新平に対して、最高学府を出た自分が後藤の配下になるのは不当だと長与(専斎)を困惑させたという。その北里が、私学済生学舎卒の細菌学(衛生学)に疎い光田に注意を払うよしもなく、光田が癩の絶対隔離をいかに揚言しても、結核をさしおいて容認はしなかったろう。これもあれも推測でしかないが、北里没年(1931年)の数年前あたりまでは、山根(1925年没)の政治的な後ろ盾もかいなく、癩対策は光田の望むようには進まなかっただろう。癩予防協会の設立の気運が高まりはじめた1929年頃よりようやく、光田の時代に入ったといえるかもしれない。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

現代において、人々の「情報」「知識」「啓発」に大きな影響力をもつものはマスメディアであり、特にTVやインターネットが主力である。これに対して、明治から昭和初期までは新聞や雑誌、小説であった。そして人から人への「聞き伝え」「言い伝え」である。それが今のSNSなどである。聞き知った「情報」が、たとえ「噂話」の類いであっても、人の口を経ることで尾鰭が付き、誇張され、偏見や錯誤が加わって、真しやかに語られ伝えられていく。それが、現在ではSNSなどインターネットを媒介に、「情報」が真偽も不確かなままに,ダイレクトに「発信」されていく。新聞や雑誌のように他者による編集や校正なしに、誰もが世界中に「発信」することができる。

現代の「誹謗中傷」問題は、明治の昔も根源は同じ、<無責任な発信>である。出版部数を増やすため、閲覧数やフォロワーを増やすため、読者が興味や関心を持つような「ネタ(題材)」を選び、刺激的(過激的)な文章を書く。一方的な正義感や一時的な感情に任せて、真偽の根拠も曖昧なまま、思い込みによって非難したり、断定したりする。自らの文章による「影響」など考えもしない。傷つく人間のことなど眼中にはない。

…<人間は人間>は<同じ人間>と言い換えてもよく、<同じ>とは美醜、優劣、強弱、老若男女その他の較差を廃した状態をいう。しかし逆に人間であればこそ、これらの較差にこだわる持ち前の弱い性状をあからさまにしかねない。それを完全に捨て去ることを望むわけではないが、ただときには、相手を何かと比較して侮りおとしめる自らをかえりみて、<加害意識や差別意識>を自覚しなくしては、<共感>も<思いやり>も、こころの中に決して生まれてこない。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

成田の大著の「おわりに」の一文である。差別や偏見の本質を言い当てている。今や全ての人間が「井戸端会議」の発言のように好き勝手なことをネット上で語ることができる。その発言に踊らされ、より過激な表現となって発信されていく。

今一度、知らなかったことに対しては慎重にその事実の真偽を見定め、正義感や正当性が偏ってはいないか、その人物の発信を鵜呑みにしてよいのか、何より自らの発言に責任を負う覚悟はあるのかを自らに問うべきである。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。