ハンセン病と明治の文芸(2) 福沢諭吉
成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』に、福沢諭吉のハンセン病観の変遷が取り上げられていて、実に興味深い。
成田は「福沢の癩についての病観の変わり身の素早さ」と言いながら、『小夜子』を書いた菊池幽芳を「癩を伝染病と知りながら遺伝病にこだわる頑迷さ」と批判している。ハンセン病に関する医学的解明が不十分な時期にあって、古来からの「業病」「天刑病」や遺伝病であると信じる者も多く、俗説も多々流布していた。小説の題材としては伝染病より遺伝病の方がおもしろいストーリーが描けるのもわかるが、繰り返しになるが、読者に与える影響は考えていない。それに対して、福沢は啓蒙思想家だけあって、知的好奇心や知識欲もあり、「時事」に関して広く見聞を求め、多くのことを論じている。ハンセン病に関しても、以前の主張を顧みず、何より最新の知識を元にして所感を述べている点において評価してもよいと私は思っている。
ハンセン病といえば光田健輔であるが、光田以前では北里柴三郎がいる。福沢にも影響を与えた、細菌学的予防医学の始祖とされる北里柴三郎はハンセン病をどのように認識していたのだろうか。
北里は第二回国際癩会議(1909年、ベルゲン)に出席したが、その帰朝談として、ノルウェーの癩対策は敬服に値するとし、わが国もこれにならえば癩はいずれ減衰すると主張している。
時代の制約があるとしても、成田が引用している北里の論文や講演録を読むかぎり、成田が言うように「北里の論説は、そのときどきの新しい知見によったにしても、認識不足か、錯誤か、恫喝かよくわからないところがある」と私も思う。しかし、当時の衛生学・細菌学の権威である北里の影響力は大きかったと想像できる。福沢も北里の説を鵜呑みにしていたのだろう。
余談になるが、北里柴三郎(1853年~1931年)と光田健輔(1876年~1964年)は年齢的にも重なる時期がある。ただ、23歳の差は大きい。
現代において、人々の「情報」「知識」「啓発」に大きな影響力をもつものはマスメディアであり、特にTVやインターネットが主力である。これに対して、明治から昭和初期までは新聞や雑誌、小説であった。そして人から人への「聞き伝え」「言い伝え」である。それが今のSNSなどである。聞き知った「情報」が、たとえ「噂話」の類いであっても、人の口を経ることで尾鰭が付き、誇張され、偏見や錯誤が加わって、真しやかに語られ伝えられていく。それが、現在ではSNSなどインターネットを媒介に、「情報」が真偽も不確かなままに,ダイレクトに「発信」されていく。新聞や雑誌のように他者による編集や校正なしに、誰もが世界中に「発信」することができる。
現代の「誹謗中傷」問題は、明治の昔も根源は同じ、<無責任な発信>である。出版部数を増やすため、閲覧数やフォロワーを増やすため、読者が興味や関心を持つような「ネタ(題材)」を選び、刺激的(過激的)な文章を書く。一方的な正義感や一時的な感情に任せて、真偽の根拠も曖昧なまま、思い込みによって非難したり、断定したりする。自らの文章による「影響」など考えもしない。傷つく人間のことなど眼中にはない。
成田の大著の「おわりに」の一文である。差別や偏見の本質を言い当てている。今や全ての人間が「井戸端会議」の発言のように好き勝手なことをネット上で語ることができる。その発言に踊らされ、より過激な表現となって発信されていく。
今一度、知らなかったことに対しては慎重にその事実の真偽を見定め、正義感や正当性が偏ってはいないか、その人物の発信を鵜呑みにしてよいのか、何より自らの発言に責任を負う覚悟はあるのかを自らに問うべきである。