光田健輔論(68) 「らい予防法」の背景(5)
私は前回、内田守『光田健輔』の付録、「光田先生と日本のらい」と題した聖成稔が書いた一文を取り上げ、「らい予防」に深く関係し、患者や全患協に対して強硬姿勢で説得した当時の聖城の発言と比較し、彼の欺瞞について言及した。
実は、「らい予防法」が成立後の8月9~13日、厚生省と全患協の陳情団との会合が開かれている。その席上での聖城の発言があるが、厚生省官僚(結核予防課長)としての当時の認識と主張が明確にわかる。
その前に、あらためて「付録」から引用した聖城の考えを再掲しておく。
18年後の聖城の認識と主張である。次に、会談の席上の発言を藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』より引用する。読み比べれば、一目瞭然である。これを18年も経ったのだから、医療の進歩によって認識も変わるだろうと、楽観的に受けとめたくはない。
藤野は「厚生省の認識」とするが、その前提となっているのは光田健輔の考えそのものである。つまり聖城の認識も厚生省の認識も光田の言葉をそのまま鵜呑みにしているだけである。
もし聖城が諸外国のハンセン病治療の実情や国際的動向を注視していたら、どうであっただろうか。しかし、長年のハンセン病対策の功労者であり、ハンセン病医療の第一人者としての権威である光田健輔の言説に従わざるを得なかったのかもしれない。この硬直化したハンセン病医療と厚生省官僚の世界が、結局は患者の希望を打ちこわし、「らい予防法」という巨大な壁を造って患者を隔離し続けたのである。
「付録」の中で聖成稔はしきりに「社会復帰」を奨励している。その聖城は、「らい予防法」成立に深く関係した一人として「将来百発百中癒る特効薬でも出来れば予防法も変わって来ると思う。今は新薬が出来ていてもこれで完全には癒らない」と患者に対して仕方がないのだから諦めて隔離生活を送れと。18年後には「新薬の発見、使用により大きな効果が上がり、それまで不治の病とされたものが治る病気になったのである。…無菌状態となり、従って周囲の人々に感染の危険が無くなった多くの人々は、療養所の門を出て社会復帰をして行った。」と書く。
18年前も後も「新薬」は「プロミン」である。(より改良はされたり、複数の薬が発明されているが)。「プロミン」治療によって「外来治療」も可能になるはずだった。隔離の必要性もなく社会復帰も十分に可能であった。
にもかかわず、「この新薬が発見される前に病状が悪化し、失明そのた種々の後遺症をもっている人々も多くその上高齢になっているので、社会復帰の望みのない人もかなりの数に上がっている」状況を生み出したのは誰のせいか。「らい予防法」を作った光田健輔ら療養所長と厚生省官僚である。聖成稔もその一人である。彼にはその自覚がないらしい。だから、こんな白々しい文章を書き、光田健輔を賛美できるのだ。「付録」の前半は光田への賛辞である。
聖城は「光田先生と日本のらい」(「付録」)の終り近く、次のような一節を書いている。
聖城がこの文章を書いたのは1971(昭和46)年である。「らい予防法」が廃止されたのは1996(平成8)年3月27日である。当時の聖城は厚生省を退職して、藤楓協会理事長に天下っている。聖城のこの一文(「社会復帰を促進する方策」)は、「らい予防法」とは真逆であるが、彼は「らい予防法」廃止に向けて何か行ったのだろうか、何もしていない。無責任に成立させた「らい予防法」を、無責任に放置(放任)していただけである。聖城と同じく、多くの療養所長も医官も、厚生省官僚も、かつての自分たちの言動を、都合よく忘却の彼方に押しやって平然としている。
聖城はきっとこう言うだろう。「あの当時は仕方がなかった」と。この言葉にどれほどうんざりした気持ちになってきたことだろうか。
私が光田健輔や聖成稔を批判すると、死者に鞭打つのかという声が聞こえてくる。私としても、それは決して本意ではない。だが、わかってほしいのは、彼らの言動がまちがった結果を生んだ要因を見極めること、それも歴史的にどの時代、どの時期、何がなぜまちがっていたのか、そのターニングポイントを明らかにすることで「教訓」を残すことができる。
その対極にある考えが<時代的正当性>である。あの時代から、あの状況だから、仕方がなかった。それで終りにしてはいけない。今、光田健輔の功績や患者に対する慈愛を称賛する再評価の動きがある。だが、それを根拠に絶対隔離や断種・堕胎、特別病室などの蛮行を<時代的正当性>によって免罪しようとするのはまちがっている。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。