<特別病室事件>再考(4)
私が大事にしている『栗生楽泉園入所者証言集』は、谺雄二さんにいただいたものだ。
「特別病室」(重監房)について調べていたとき、沢田五郎さんの『とがなくてしす』、高田孝さんの『日本のアウシュヴィッツ』を手に入れて読み込み、どうしても谺さんと話がしたくて、栗生楽泉園に電話をかけた。谺さんの体調を気遣いもせず長話をしてしまった。その折りに『栗生楽泉園入所者証言集』の話が出て、活用してくれるならと送っていただいた。「会いに行きます」と約束しながら年月だけが流れ、ついには谺さんの訃報を聞くことになってしまった。
今でも悔いが残り続けている。昨夏、ようやく栗生楽泉園そして「特別病室(重監房)」を訪ねることができた。私がハンセン病問題、重監房問題を追究するのは、谺さんとの約束を果たすためである。
沢田五郎さんの『とがなくてしす』に、「鈴木義夫」(園名)という青年の「特別病室」での獄死の顛末が書かれている。読むたびに、凄惨きわめた重監房への疑問と悔恨が胸に迫ってくる。
冤罪としか思えない鈴木がなぜ「特別病室」に入れられたかを追究する沢田さんの文章を追いながら、「特別病室」とは何であったかを考えてみたい。
『とがなくてしす』には、表題の「とがなくてしす」「特別病室はなぜ造られたか」「昭和十七年暴動未遂事件」「中村利登治のこと」「特別病室は殺人罪に問えなかったのか」の5篇が収められている。これらは沢田さんの貴重な証言である。
高田孝さんの『日本のアウシュヴィッツ』は、谺雄二さんが療友高田孝さんより聞き取った証言をまとめた小冊子である。(『栗生楽泉園入所者証言集』に「重監房は日本のアウシュヴィッツ」と題して再録されている)
また、栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』に「特別病室」設置と経緯や「加島正利」など関係職員についての記述がある。
そして、福岡安則の小論『裁判抜きの「重監房」』がある。
https://core.ac.uk/download/pdf/199686125.pdf
福岡は「鈴木義夫」の実弟の存在を知り、全生園に面会に行き、聞き取りを行っている。福岡は『栗生楽泉園入所者証言集』の編者でもあり、多くの患者さんから聞き取りを行っている。福岡の小論では、証言から「鈴木義夫」の足跡を辿りながら「特別病室」の隠されてきた実状と問題を明らかにしている。
これら沢田さんや高田さんの貴重な著書、今は亡き入所者(療友)の執念あるいは怨念でもある「証言」、福岡の小論などを参考にしながら、「特別病室(重監房)」の実際をまとめておきたい。
なぜ沢田さんや高田さん、谺さんが「特別病室」にこだわり続けたのか。それは、単に「特別病室」の凄惨を極めた実態を広く世に知らせたい、あるいは苛烈な重監房の中で「獄死」した療友の無念を晴らしたいだけではない。人間の非情さ、権威や権力の恐ろしさを知ることで、「病」への正しい対応や他者に対して「人間」を「人間」として敬う精神の大切さを訴えたかったのではないだろうか。
ハンセン病問題における差別や偏見の実相を知るほどに、長年関わってきた部落問題との酷似を痛感する。人は「ちがう」(同じになりたくない:異化)と認識する(したい)「他者の存在」に対しては非情なまでに「排除」「排斥」をしても平気である。私がライフワークとしている「明六一揆」(解放令反対一揆)では、周辺住民が一方的に部落を襲撃し、18人もの部落民を惨殺している。意に染まない、従わない、それだけの理由で残虐な行為に及ぶ。彼らには「同じ人間」という意識はない。他者性の欠如した感性では、人は人を殺すことさえ平気なのだ。「明六一揆」において、河原に引き立てた部落民に殺害の号令を発した鈴木七郎治や小林久米蔵の姿と「特別病室」を実質的に管理したという加島正利分館長の姿が重なる。彼らにとって<目的>を遂行するための<手段>は正当化されるのだ。さらに、「悪いのはその人間」であり、処刑も処罰(懲戒)も受けて当然だという正当化しかない。
沢田五郎は鈴木義夫の無実,冤罪を信じていた。それは、当時の入所者のリーダーであった藤原時雄から次のような話を聞いたからである。
当時の望学校の校長(楽生園児童患者のための教育施設:患者が教師)は,入所前に教員の経験を持つ藤原時雄氏であった。この人は五日会(患者自治会の前身)の会長でもあったから,新たな収監者があったか死者が出たさいのことだろう,特別病室へ行く用事があって中へ入っていったところ,ある房の食事差し入れ口から目だけを出した人間が,「藤原先生ではないですか」と言ったとのことである。驚いてその顔を見ると,鈴木義夫だった。「なんだ,鈴木君じゃないか。なんでこんなところにいる」と尋ねると,「女の人を殺したということになっている」と言う。「なっているといったって君,なんでそんなことした」と重ねて聞くと,「しませんよ。夜,町を歩いていたら(自転車に乗っていたともいう),非常線が張られていて捕まって,お前がやったんだろうってここへ送られてきたんですよ」と言ったというのである。
藤原氏はさっそく分館長として恐れられていた加島正利に会い,あれはどういうことかとたずねたところ,「なんにも知らない。ただ,殺人嫌疑ということで送致されてきた。殺人嫌疑となればあそこへ入れておくほかはないので,入れておくだけだ」と答えたという。
(沢田五郎『とがなくてしす』)
これが加島正利である。彼は実際に「特別病室」に入ったことはあるのだろうか。最初の頃は様子見に一度や二度は入ったかもしれないが、食事運びや屍体の運び出しも患者に任せていたというから、まず入ってはいないだろう。高飛車に命じるだけである。「特別病室」がどれほど苛酷な場所かすら実際にはわかっていなかったし、わかろうともしなかったのではないか。
佐藤は1941年6月15日から11月14日まで153日間「特別病室」に入れられていた。「特別病室」は1938年12月24日に竣工している。翌年の秋に収監者を初めて見たという証言があるから、実際に運用されたのは1939年からだろう。佐藤が収監され、石井氏が会いに来たのは、「特別病室」が運用されて2年は過ぎている。相当にひどい状態になっていることは想像できる。死者も何人も出たことだろう。壁には血で書かれた怨嗟の落書きがあっただろう。
石井氏は患者が収監されていた房(部屋)には通されていない。最初の扉の先にある、名前だけの「医務室」(治療室)で面会したのだろう。患者の房はさらに扉を抜けて通路の先にある。それでも幾重にも高いコンクリートの塀で閉ざされ、電球がないため曇った日には昼夜の区別さえつかないほどに暗く、湿気に覆われた「特別病室」はさぞかし無気味であっただろう。通常の感覚であれば、石井氏のように「ひどい」と思うだろうが、加島や医官、まして園長の古見はまったく気にもしなかったのだろう。たぶん、知らなかったのだろうし、知ろうともしなかったのだろう。患者を「人間」と認識する感性(思いやる心)が壊れていたのだろう。
沢田五郎は,鈴木義夫が濡れ衣を着せられた事件についても、さまざまな伝手を頼って調査の協力をお願いしている。そして、新日本歌人協会の代表幹事碓田のぼる氏から有力な情報を得ている。
それは、この事件を指すのであろう『神奈川新聞』(昭和19年5月27日付)の「風呂帰へりの娘 路上で刺殺さる」の記事で、沢田はこのコピーを『とがなくてしす』に載せている。福岡は小論に「小田原の〇〇〇〇氏長女会社事務員〇〇さん(17)は25日午後8時ごろお風呂の帰る途中自宅附近通行中何者かに左胸部を鋭利な刃物で突刺され病院に収容手当を加へたが約10分位の後死亡した」と引用している。
しかし、容疑者または犯人が逮捕されたという記事はなく、鈴木義夫が嫌疑をかけられて逮捕された事件であるかは確実ではないと沢田も書いている。
沢田五郎は,別の入所者からの証言も得ている。
また、この人は、鈴木が「特別病室」から出されて入浴させてもらっているとき、短い言葉を交わしたことがあると言い、その時に聞いた鈴木の言葉を沢田は次のように書いている。
「噂」とは、本来は良い意味で使われる、「尊」を「口」にする、つまり人を尊敬して語ることだと書いたのは三浦綾子だった。もしそうであれば、いつから「悪口」「陰口」が多くなってしまったのだろうか。
誰しもが「然もありなん」「そうだろうな~」と納得するような「筋書き(ストーリー)」ができあがる。少し考えれば、おかしい点や辻褄が合わない部分もあるのだが、ハンセン病患者であるがゆえに起こりうるかもしれないと誰もが考えてしまう。そして口から口へと伝わる過程で尾鰭が付き、脚色もされて虚構が事実化されていく。そして人々はそれが真実だと思い込んでいく。冤罪が生まれる要因の一つである。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。