光田健輔論(50) 変革か呪縛か(5)
「特別病室(重監房)事件」は、ハンセン病患者による犯罪への新たな対応が求められる契機となった一方で、入所者による新たな自治会組織がつくられていく端緒となった。
入所者自治会が活動を活発化する始まりとなったのは多摩全生園で結成された「プロミン獲得推進委員会」である。国家による「絶対隔離」政策は、ハンセン病が「不治」であり、「ライ菌」を死滅させることができないという「感染予防」を根拠としていた。しかし、プロミンによってハンセン病が治癒するとなれば、絶対隔離の根拠はなくなる。治癒すれば療養所を退所できるからである。
だが、そうはならなかった。むしろ、厚生省はプロミンを利用して「無癩県運動」を再開する。厚生省はプロミンを一括買い上げし、各療養所に配付したのである。これによって、プロミン治療は療養所でなければ受けられなくしたのである。換言すれば、プロミン治療が受けたければ、療養所に入所しなければいけないようにしたことで、ハンセン病患者自らが入所しやすくすると同時に説得しやすくもしたのである。実に巧妙な手法である。
戦後、各療養所で再建された患者自治会は、全国組織の結成へと動いていく。各療養所の自治会については、それぞれの療養所の「自治会史」に詳しい。
なぜ絶対隔離は強化されたのか。なぜ「癩予防法」を改悪した「らい予防法」が成立したのか。この疑問に、藤野は次のように述べている。
つまり、これまでは懲戒検束権によって各療養所の「監禁室(監房)」及び栗生楽泉園の「特別病室(重監房)」の存在で入所者の不満を抑圧して従わせてきた療養所当局にとって、それに代わるものとして「癩刑務所」の開設が必要であった。光田は「草津カンゴク事件などは司法当局が癩患者で犯罪を犯した者の刑務所を建てないから起こったことで、このことは救癩史四十年にわたっての懸案で司法当局の猛省を促したい」(『時事新報』)と、責任転嫁としか思えない強弁をしている。
当初、「癩刑務所」の設置を求める厚生省と、療養所ヘの収容を求める法務府の対立があったが、療養所内に「代用監獄」を設けるという法務府の妥協案に厚生省が同意するに至った。一方では、国立癩療養所長会議は菊池恵楓園に「癩刑務所」を付置することが合意されている。この状況を一変させる事件が起こる。
1950年1月16日深夜から17日未明にかけて、栗生楽泉園で、入所者同士の対立から殺人事件が起こった。被害者は園内で暴力的なグループで、それに反発したグループが起こした3名の殺害であった。しかも、被害者の一人が韓国・朝鮮人であり、殺害に関与した被疑者14名も韓国・朝鮮人入所者の文化団体である協親会の会員であった。
栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』第3章に「一・一六事件」と題して、この事件が詳細に記述されている。事件のあらましを簡略に記しておく。
東京より警察の護送車で、中岡哲男(朝鮮人)と多原利夫(奄美出身)の2名が栗生楽泉園に送致されてきたことが発端である。両名は“浅草のダニ”と呼ばれる、暴力によるゆすり・たかりで暮らす乱暴者(ヤクザ擬いのならず者)であり、ハンセン病を発症して全生園に収容されるが脱走し、浅草に舞い戻って同じ暮しをしていたところを再び逮捕され、栗生楽泉園に送致されてきた。早々に、彼らは同病者に乱暴を働くようになる。
そんな彼らに目を付けたのが、当時、在日朝鮮・韓国人で組織されていた「協親会」内部で対立していた一方の側である宮田守や大屋一郎たちである。彼らの暴力を利用しようとしたのである。さらに多原の仲間(兄弟分)の大和博が入所してきた。3人は同じ舎の同胞八木次郎と共に、対立していた側の保利の部屋に乱入し暴力沙汰を起こす。矢島園長と自治会(総和会)幹部が相談し、彼らを送り返すことを決めて勧告する。転院の条件として支度金や洋服・靴を支給することで折り合いが付いたが、一向に転院しない。さらに支度金などを要求してきた。それを条件に彼らが応じたところで、事件が起こる。
仲間内で送別会を開いていたとき、大屋が中岡に「保利、井伊、上村等を殺してから出て行って呉れ」と言って中岡にドスを投げた。席を立った中岡は協親会事務所を襲い、暴れた。万一に備えていた一方の幹部は逆に中岡を抑え込み、さらに仲間に招集をかけて逆襲に出た。結果、中岡・多原・大屋の3名が殺害された。
事件の顛末をみれば、乱暴者による犯罪行為・迷惑行為、朝鮮・韓国人で組織された「協親会」内部の対立から生じた抗争事件ということになる。明らかに警察による逮捕・司法による裁判となるべき事案である。しかし、ハンセン病患者による事件であり、療養所内での事件である。この特殊な環境が問題を複雑にしている。
この事件は、療養所内の治安維持という名目により「懲戒検束権」と「癩刑務所」の必要性を正当化するのに十分であった。事実、職員のみならず入所者も容認している。
光田健輔は「だから言っただろう、重監房は必要だったのだ」と自らが推進してきた政策の正当性や自らが要望した「懲戒検束権」の必要性を確信したことだろう。そして、その確信がより強硬な絶対隔離へと提言となって「三園長証言」に帰結したと考えている。
1953年3月10日、熊本刑務所菊池医療刑務支所として「癩刑務所」は開庁される。