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ハンセン病担当官の苦悩と喜び(6)

もし高村さんが何も語らず何も書き残していなければ、高村さんのような県職員(ハンセン病担当官)の尽力も歴史に埋没していたことだろう。そして、私のように入所者の視点からのみで判断していたことだろう。実際に機械的・事務的に、患者を人間扱いせず、まるで社会の汚物のように特別列車に押し込め、「伝染患者輸送中」の張り紙をして、療養所に搬送していたり、近所の目も気にせず家中を消毒して回ったりすることで、社会の差別や偏見を助長した係官は多い。そのことで、患者はどれほど心を傷め、自らの存在によって家族を苦しめてしまったことを後悔しただろう。冷酷な仕打ちを、法律と職務の名によって正当化してきた医師や係官も多い。

高村さんの証言から多くのことを学ぶことができた。死を選ぶしかないほどに家族を追い込む社会の偏見、「らい予防法」がどれほど理不尽な法律であるか、家族の幸せと将来を閉ざしてしまう社会の差別、それらが社会の実態であることを教えてくれた。
一方で、差別や偏見を克服する展望も示してくれている。

この患者が県の招待する里帰り一行に加わることになった。忘れることの出来ない故郷の土を踏むことが出来るので、生まれ育った我が家に近づくことは許されずとも、両親や弟に生あるうちに是非一度会いたいという。肉親恋しさの念をどうしても断ち切ることが出来なくなった。この切々たる患者の心が私に伝えられてきた。
私は何とかこの患者の心に応えたいと思い、夕刻の暗くなるのを待って密かに家族を訪れた。幸い父親のみが在宅していて、不意の私が来意を告げると、最初は驚きと共に迷惑の色がありありと見えた。そして発病の当時あれ程受けた周囲の冷たい目が今はすっかい忘れられてきていることを綿々と訴えられて、目に涙を浮かべられた。
しかし、我が息子は好んでこの病気になったわけではなく、不憫の情が一度に蘇ったようで、我が家への立ち寄りだけは風波を起こすことになると、言葉に詰まった。
(中略)
実弟は家業を継ぎ結婚したが、まだ子供は生まれていない。両親は勿論のこと、実弟も妻に兄の入所の事実を厳に隠している。入所中の兄は当然に弟の結婚を知らない。何しろ十数年越しの音信不通である。
里帰り当日となり、私が一行を案内して宿舎に入ると、予めフロントに伝えてあったので、面会人が来ていると連絡があった。…
部屋には父親のみと思っていた私はびっくりした。面識はなかったが、一目でそれと解る母親と、実の弟と今まで隠し続けた妻がいる。
親子兄弟と抱き合って涙を流す患者に、弟の妻は義兄となる患者の手を握り、長い間のいろいろの思いが込み上げての涙を流す。私が過日の里帰りを告げに訪れた夜更け、父親と母親、そして弟の三人が面会についての相談をひそひそと話し合うのを、弟の妻は隣室で内密に耳にしていたのだった。面会のその日、他の理由を作り自宅を出ようとする両親と夫の前に立ちはだかり、この妻は「私は結婚して間もなく、夫の兄の入所のことを聞き知ったが、今日まで黙ってきた」「病気のことなど何も恐ろしくない」「今の今、あまりにも水臭い」と迫り、私にとっては義理の兄さんである。是非私も初めての兄さんに会いたいと、同行してきたのである。
文字にすれば短い表現に過ぎないが、入所の兄の現実を隠し続けなければならなかった両親、そしてこの事実を知りながらも、知らぬ顔を続けた弟の妻の心。夫々がこの病気の故に、偏見の故に心の葛藤に悩み抜いた。それはそれは長い年月であったのだ。

高村忠雄「元県担当職員の記憶」『三重県のハンセン病問題、その資料と証言』

差別や偏見は人間が生みだすものである。そして差別や偏見を克服するのも人間である。よく言われる言葉であるが、ではどうすればよいのだろうか。
ある人は「正しい知識」を得れば、という。しかし、「知識」だけで差別や偏見は消えるのだろうか。確かに、部落の起源や部落に関する「知識」は随分と修正もされてきた。歴史認識のまちがいも正されてきた。それに伴い、学校教育の場でも、社会啓発の場でも、部落の歴史や部落問題について「正しい知識」が伝えられてきた。だが、部落問題など何十年と、それこそ世代が入れ替わるほどの歳月が過ぎ去っても、未だに部落差別はネット上を彷徨い、部落を忌避する風潮は根強い。

私は「弟の妻の心」こそが差別や偏見を克服する道だと確信する。「心」とは、他者を同じ人間として思いやることである。「人権意識」とは感性であり、感受性だと私は思っている。つまり、自分の中にある差別や偏見を見つめ、自分の感性が人として誇りうるものであるかどうかを問い続けることだ。そのために感性の栄養となる「正しい知識」も必要であろう。他者との心通わせる交流も必要であろう。

かつて教え子は私に言った。「差別はまちがっているとかではなく、おかしいことだと思います」と。

もちろん、まちがった知識は改めなければならない。正しい知識を得ることは必要である。ハンセン病は、長く「遺伝病」と伝えられてきた、「感染力の強い恐ろしい伝染病」と思わされてきた。今は薬により完治する病気である。このまちがった知識によるハンセン病への認識は改めなければならない。そのために教育があり、社会啓発があるのだ。

高村さんは、昭和30年代前半にこの取り組みを始めていた。

「らい」という病気を正しく理解していただき、併せて療養所の実情も知っていただくため、思いついたのが、衣料品の提供者を呼びかけることだった。昭和三十年の前半頃は、入所者の衣類はまだまだ充分とは言えなかった。
私は療養所入所者の代表と話し合い、先ず県庁の職員に不使用となっている、新しい衣料品の提供と呼びかけた。私の目的は、ただ単に衣料品を提供して欲しいというのではなく、この病気への誤った社会観念の是正にあった。私は趣意書の作成に苦労した。衣料品のみを求めるものではなく、医学的知識の普及啓発を目的とするため、医師である課長や本病の専門医師にも加筆を願った。
先ず、この病気が間違って伝えられてきた遺伝病ではないこと、現在発病者は激減していること、そして治療によって完治する病気となったことなどを詳しく書いたもので、一枚の趣意書の末尾に数行だけ、衣料品の提供を呼び掛けるものだった。

高村忠雄「元県担当職員の記憶」『三重県のハンセン病問題、その資料と証言』

高村さんの元には「庁内各課の特に女性職員からは、新品同様の衣類が続々と」届いたという。それ以上に、高村さんを喜ばせたのは「一様に今まで思ってきた病気でないことが、よく解った」と言ってくれたことだった。
さらに、「県の民生部から災害援助用に保管している沢山の毛布」を「保管年数更新のため」無償提供されたことや、「陸上自衛隊からも新品の肌着が寄せられ、同隊の医官(医師)から療養所見学の希望があり」高村さんが案内したという。

昭和30年代前半は、1955年から60年頃だろうから、光田健輔が退官(1957年3月)して後だろうが、それでも光田の影響は強かった。ただ2代目園長の高島重孝になって軽快退所や園内の環境も随分と改善されたというが、「らい予防法」は生きており、隔離政策も継続されていた。

ハンセン病に対する当時の社会認識は、光田らが喧伝した「感染力の強い、恐ろしい伝染病」というまちがった知識が深く浸透しており、それにさまざまな迷妄の尾鰭がつき、偏見は助長されたままであった。それに対して、新しい知識に基づく社会啓発など行われてもいなかった。

高村さんの英断と実践力には驚嘆する他ない。この「証言」以外にも多くの実績があるのだろう。高村さんに救われたハンセン病患者、入所者、家族や親族は相当数になるだろう。これだけの実践ができたのは、何より目の前の患者さんに真摯に誠実に向き合った彼の人間性であろう。
彼の存在そのものが差別や偏見を克服する展望であると私は確信する。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。