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光田健輔論(69) 「らい予防法」の背景(6)

これより『全患協運動史』に従って、患者の「闘争の動向」を、時系列で簡単に追ってみたい。

こうして、1953年3月、厚生省が作成した「らい予防法案」が第十五回国会に提出される。わずか1ヵ月ほどで、厚生省は改正法案を作成したことになる。そこには、患者を診察した医師の届け出が義務付けられ、監禁はないものの謹慎・戒告の懲戒規定も明記され、明確な退所規定は記されていなかった。そして、都道府県知事は、患者に療養所への入所を勧奨しても応じない場合は、入所を命じることができると、強制隔離についても明記されていた。それまでの「癩予防法」を継承し、さらに隔離の方法を、勧奨と強制との二段階で示した法案である。
しかし、衆議院厚生委員会で法案の審議を開始した3月14日、国家がいわゆる「バカヤロー解散」となったため、法案は審議未了となってしまう。全癩患協に対する長谷川保の言によれば、「衆院では厚生委員会の賛成で早く通し、参院で出来るだけ修正するという了解を得、本会ギを開こうとするところで流れた」という。与野党間で、法案修正の了解が得られていたのである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

全患協は審議未了を受けて、翌15日、本部常任委員会および各支部代表、多磨支部委員会の合同会議を開き、今後の方針として「ハンセン氏病法案」の線を確認、運動を継続すること、政府案に対して各支部毎に徹底的に検討し、強力に抗議、論駁していくこと、などを決議した上で同日付で全国のすべての患者へ向けたメッセージを発表した。

日本らい学会開催の地元となった菊池では、4月9日斎藤療養所課長と予防課島崎事務官を公会堂に迎えて。二時間にわたる質疑を行ったが、本省側は席上「草案はすでに各界より承認を受け、前国会においても衆院の審議は終わり、参院の予備審査も終了している。だから厚生省としては、再検討しこれを改正する予定はない」し「今日のらい予防対策としては、隔離収容よりほかにない。そのため患者の収容に当たって、その意を患者に意識させるため罰則を設けた」と発言、…

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

厚生省の頑なな姿勢に対して、所長会議や全医労、職員組合および政党への支援(連帯)を依頼するとともに、署名や抗議文などの文書活動では覚束ないと、作業ストやデモ行進などの実力行使に方針を転換した。もちろん、その間、改正促進委員会を中心に本部は日夜討議を重ね、各支部でも患者の総意をまとめながら議論を重ねている。

5月16日松岡支部が患者大会を開き、作業拒否の決議文を阿部園長に手渡し、24日には菊池支部で患者他会の後に園内でデモ行進が行われた。
6月3日、厚生省から聖城予防、斎藤療養所の両課長が多摩全生園に来園し、本部や促進委員会、各支部代表と会見したが、悲観的な見解しか得られなかった(「改正しようという誠意は感じられなかった」)。厚生省の意向は決まっていたのだ。彼らはただ「説得」することだけの来園であった。

16日、厚労省は、作業を拒否している患者には慰労金を支払うなと各園に通知してきた。同日、星塚は患者大会を開き、28日からのストを決定し、翌17日には栗生で6人がハンストに入った。さらに陳情団9人を全生園に派遣し、ハンストに入る者も増えていった。
19日には、松丘で大会後に150人が作業ストに突入し、長島、大島でも翌20日に決起大会を開き、27日、30日からそれぞれストにはいることを決定した。駿河は23日、総決起大会を開いて、25日からの作業拒否を通告した。これにより、ほぼすべての支部の連帯による闘争態勢が完成した。

全患協が国会への直接陳情を行うため、林園長にバス使用の許可を要求すると、厚生省は陳情のためのバス使用を禁止し、使わせたらバスを取り上げると圧力をかけてきた。
7月1日、患者はバス使用に代わり電車を使用して国会へと向かった。国会に入った陳情団は全医労などの支援と共産党の河上貫一代議士の斡旋により格闘代議士17人と会見し、要望を訴えた。

第一次陳情にこたえ、2日に小島委員長ら衆院厚生委員5人が来園したが挨拶の域を出ず、本部は第二次陳情団派遣を決定、林園長に栗生と多磨のバス使用を交渉した。同園長は折れ「私の責任に於て許可」、3日午前9時45分園長に引率されて54人、入園者の盛大な見送りのなかを出発した。
衆院厚生委の法案審議がはじまり、与党は強行通過の気配を見せていた。しかし、患者に議員は面会しないとの議院運営委員会の申し合せと、園長に引率された紐つき陳情のため行動を制約され、6人の議員にしか陳情できなかった。衆院の閉門時間が迫る頃、警務部や厚生省の退去命令を拒否して、参院第三通用門前に座り込んだ。厚生省および林園長と押し問答二時間、雨が降りはじめていた。委員も、病弱者と女性だけは帰そうとしたが、やはり全員で頑張ることになり、林園長は7時に帰っていった。
夕刻から多磨を出発した応援隊の1、2、4班が9時半頃から着きはじめ、午前零時半までに13の班が続々到着、合流して陳情団の士気を高めていった。

この朝、各支部におけるハンスト者の合計は88人に達し、松丘の6人は重態におちいっている、と報道され、150人の陳情団たちは涙を押さえることができなかった。

しかし、新しい予防法、「らい予防法」は、7月4日午後3時、自由、改進の両党が賛成、左右社会党が反対で衆院厚生委員会を通過、本会議に緊急上程され、委員長報告の通り討議もなく、左派社会党は流会戦術をとったが起立多数で衆議院を通過した。この間約3分であった。


無修正で衆院を通った政府案は、即日参院に回付された。参院でも自由、改進が数を頼んで7日か8日には強行採決させる方針であることを知った全患協は、各方面に強行に働きかける一方で、厚生省に乗り込み、参院厚生委員会と面会させるとの約束の履行を要求した。

8日、参議院厚生委員会で話し合いがもたれ、慎重審議、公聴会、らい小委員会設置、参考人招致などについて約束を取りつけ、国会から引き上げた。

17日頃にはらい小委員会の審議が完了し、21日に参考人を呼び、23、24日に大臣が出席するのを最後に、原案が通過する日程が迫っていた。

参院厚生委員会との話し合いにより座り込みを解いたが、参考人にしても形式的に意見を聞くだけであり、全患協は第三次陳情を決定し、22日に第三次「日帰り陳情」を決行した。

全国で合計1418人が作業ストを行っていたが、通過即日全支部で抗議大会を開き、三日間にわたって最大限のストに入ることになっていた。三度び多磨を訪ねた村田(正太)により「社会の同情を失う事は今後の状態に支障をきたす」から「紳士的に堅実な運動を」と勧告されたが、全患協は28日早朝、小島委員長(衆院社労委)ほかへの寝込みを襲う自宅陳情を決行、驚愕させた。

29日、山下義信、藤原道子両議員が来訪、「審議未了は困難だが、付帯条件で問題を今後に約束させたい」と語り、一つの方向が示唆された。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

30日、第四次陳情団が国会に向かい、議員面会所に入った。菊池、栗生、駿河、松丘などから続々と集結し、約133人が座り込んだ。
31日、多磨から350人が正門を突破、所沢街道を国会に向けて歩き始めた。国会までは約32㎞、隊列の後尾を不自由者が乗ったリアカーが続いた。途中、武装警官に行く手を阻まれ、にらみ合いは6時間にも及んだ。

その時、冷酷に立ち塞がる警官たちのなかから、「心掛けが悪いからそんな病気になるのだ」という言葉がかえってきた。ものを理解する能力によって人間の価値が決まるなら、こいつらは屑ばかりだ。「そういう奴がいるから俺たちは引き退らないのだ」「いった奴を引きずりだせ」――権力政治がさしむけた鉄壁の隊列に患者たちはからだも砕けよと突進し、警官たちの胸をつかみ、力いっぱい叫んだ。…

聖城予防課長が厚生省の「一人も一歩も都内に入れるな」との方針をもって現場に来たのはそのすぐあとだった。警官の挑発に憤激し、どこまで続いているとも知れない長蛇の列を見て、彼は一人も一歩も都内に入れないことはできないとさとった。結局、近隣の結核療養所など、国立施設からバス五台を借りて国会へ行き、座り込みを激励して帰るということになった。

大竹章『らいからの解放』

8月1日、「らい予防法案」は9項目について「近き将来本法の改正を期する」という付帯決議を付して参議院厚生委員会で可決された。
3日、座り込み陳情団総勢160人は参院から厚生省に移動した。

厚生省陳情団は、…祝田橋通りに面して四張りのテントをはり、100ないし160人が整然と座り込みを続けていた。新しいらい予防法は8月6日参議院本会議に上程され、藤原道子、加藤しずえ両議員が福祉の貧困、法案の反動性、座り込み患者にお茶一杯出そうとしない厚生省の冷淡さをこきおろしたが、賛成は自由、改進、緑風で過半数、反対は両社、労農、共産の各党で原案通過、これに対して、九項目の付帯決議は、全会一致で賛成、成立した。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

次に、藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』を参考にしながら、厚生省や政府、政党や議員などの動きを時系列で概観しておきたい。患者の動きとの対比で見ていくと、どこにターニングポイントがあったかがよくわかる。

こうした全患協の指揮による患者の集団行動に対して、厚生省は「癩予防法」の第三条を発動して抑え込もうとした。第三条とは、ハンセン病患者を国立ハンセン病療養所に入所させることができる「強制隔離」の条項である。

第三條 行政官廰ハ癩豫防止必要ト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ從ヒ癩患者ニシテ病毒傳播ノ虞アルモノヲ國立癩療養所又ハ第四條ノ規定ニ依リ設置スル療養所ニ入所セシムベシ
必要ノ場合ニ於テハ行政官廳ハ命令ノ定ムル所ニ従ヒ前項患者ノ同伴者又ハ同居者ニ對シテモ一時相當ノ救護ヲ爲スベシ
前二項ノ場合ニ於テ行政官廳ハ必要ト認ムルトキハ市町村長又ハ之ニ準ズベキ者ヲシテ癩患者及其ノ同伴者又ハ同居者ヲ一時救護セシムルコトヲヲ得
前項ノ規定ニ依リ市町村長又ハ之ニ準ズベキ者ニ於テ一時救護ヲ爲ス場合ニ要スル費用ハ必要アルトキハ市町村又ハ之ニ準ズベキモノニ於テ繰替支辨スベシ

「癩予防法」第三条

6月25日、厚生省は東京都衛生局に電話で、全生園からのデモ行進に際して、第三条を発動するように申し出をし、さらに事務官2名を派遣している。しかし、都は確答を避けた。
7月3日、全患協の国会裏での座り込みが始まると、翌4日、都衛生局で都幹部職員と厚生省公衆衛生局長山口正義、結核予防課長聖成稔が会合をもった。席上、厚生省は再度、第三条の発動を要請した。これに対して、都衛生局は「患者が一般都民ではないので都で直に取扱ふべきでない」との見解を示している。つまり、国立療養所に入所している患者は国の管理下にあるので発動できないという対応であった。
7月13日、参議院厚生委員会は、与謝野に参考人として出席を求め、第三条の発動に関して意見を交わしている。
7月29日に全患協が国会裏座り込みを再開したことを受けて、厚生省は繰り返し要請を行っている。結局、第三の発動は行われなかったが、都側も警察と協議するなど準備を進めていた。
だが、この第三条が、「らい予防法」に強制隔離条項が明記される遠因にもなったことはまちがいないだろう。

7月29日以降に再開された全患協の抗議行動は、「らい予防法案」を審議していた参議院厚生委員会全体の態度を硬化させることとなる。…全生園入所者の都心に向けたデモ行進が開始された7月31日、左派社会党の湯山勇は、これらの抗議行動を「我々に対する患者の不信行為」と断じ、高野一夫(自由党・吉田派)は、抗議行動を「恫喝」ととらえ、「我我がまるでああいう恫喝戦術の中に閉ぢ込められて審議しなければならないという実態が遺憾に堪えない」と述べた。また、全患協に情報を流しているのではないかと疑われた山下義信(右派社会党)は、その疑いを晴らすため、全患協の陳情団に対して「諸君は一応我々を信頼して説得に応じて下がっておりながら、再びここに現れて来るとは何事であるかということを語勢激しくその点を難詰をいたしたのであります。そういう行動をする以上には、最早や我々として一片の同情の余地がないということは、はっきりとその際申上げた」と弁明、左派社会党の藤原道子も、同じく陳情団に対して「諸君の病気は伝染病である。そして悲しいかな世間の人から非常に恐れられておる病気である。普通の労働組合のデモとか何とかということとは違うのだ」「これであなたがたとの間の交渉は切れたというふうに解釈してもらいたい」と告げたことを明らかにした。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

はたして全患協の戦略がまちがっていたのだろうか。光田が予告したように「患者たちが政治的に動くことは、かえって社会のひんしゅくを買うだけ」だったのか。

私は必ずしもそうは思わない。全患協の運動方針は直接行動だけではなく、広く社会に知らしめる啓発活動、そして他の組織と連帯することであった。彼らは自分たちの実情や要望をビラにして道行く人々に配り、理解と支援を求めている。また、他組織の組合との協力関係を構築すべく連帯を呼びかけている。

これまでも、「可哀想だ」と同情する人たちはたくさんいたが、そのためにハンセン氏病患者の地位が非常によくなった、という例はなく、この「人間復帰」のたたかいにとって本当に必要なものは、より人間的な社会をめざす立場からの連帯であり、それ以外のものではなかった。

…全医労は「患者の人権を尊重し、科学的予防治療を裏付けとしたらい政策を患者家族の生活保障を含めた社会保障の一環として確立し、併せて療養所を治療を目的とした本来の姿に改めさせるため患者との間に根本的に意見の一致を見て患者の闘争を支持する」と声明、すでに日患同盟とともに全患協を強力に支援していた。
その全医労の肝入りで文化人、労組、学生、婦人団体、一般有識者――具体的には昨夏の阿部知二、平林たい子、詩人の大江満雄、自由人権協会海野晋吉などを発起人に全医労、総評などが発起団体になって「らい患者の人権を守る会」が結成されようとしていた。
また、全国400万労働者を結集する総評は7月8日、第四回定期大会の第一日に「らい患者の人権擁護の闘いを支援する決議」を満場一致で採択…やがて厚生省に対する長期の、記録的な座り込みに発展していくが、全患協はそのとき、敵の牙城ともいうべき厚生省内の職組「全厚生」の全面的な支援を受けて闘いを進めたのであった。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

「癩予防法」改正反対闘争に関係する書物や資料を読むかぎり、彼らの「闘争」は、時間の限られた中で、本部や促進委員会、支部長会で討議を繰り返し重ね、あらゆる情報を収集し、十分に戦術を検討した上で実行している。しかし、残念ながら、彼らには「陳情」「抗議」「要求」という術しかなかった。それらを強く意識表示するための行動は、労働運動の戦術である「ストライキ」「デモ行進」しかなかった。だが、左派社会党の藤原道子が言うように、彼らには労働組合とちがって、労働三法のような法的根拠がなかった。しかも、「国家権力」に対抗する唯一の「力」である<世論>がまだ十分高まってはいなかった。

では、何が問題だったのだろうか。私は最初から政府および厚生省は「癩予防法」を改正する考えはなく、特に「強制収容(隔離)」「懲戒検束権」については削除する気はなかったと思っている。さらに言えば、患者が作成した改正案など受け入れたくはなかったと思っている。それは彼らのプライドであり、光田健輔への配慮(忖度)があったと考えている。そして何よりも厚生省が正当化の根拠としていたのが、<社会防衛論>であり、憲法に定められている人権を唯一制限できる<公共の福祉>であった。

全患協に協力的であった左右社会党の翻意を、藤野は「…隔離政策を前提にして、その隔離の方法の緩和や隔離した後の患者の処遇の改善を求めていたに過ぎない。そこに一貫するのは『公共の福祉』のためには隔離も已むなしとする認識であった。」と述べている。7月4日の厚生委員会の席上でも、長谷川保は「癩が伝染でありまする以上、これに対しまして予防あるいは取締りの措置が講ぜられ、最後的段階におきましては強制収容、強制検診あるいは消毒等がなされなければならないことは認むるにやぶさかではありません」と、以前の全患協に賛同していた考えから大きく後退している。

また、全患協のデモ行進や座り込みに対しての山下義信や藤原道子の発言は、感情的な自己正当化(自己保身)に思える。なぜなら、上記の厚生委員会の席上で、高野一夫より患者側に情報を漏らして煽動しているのではないかと疑われたと判断したからである。
それは、藤原の発言の続きで明らかになる。

すべての法案審議に当たっては、すべての階級の人たちは陳情に来るけれども、あなたがたは陳情することも許されてない、だから今日は報告に来てやったのだということを言ってあるにもかかわらず、今日やって来たということは我々は法案審議上非常に支障を来す。再びこういうことをしないように私は強く要望する。これであなた方との間の交渉は切れたというふうに解釈してもらいたい。きびしい昨日は叱言を申しまして、以来昨晩おそくここの小委員会を帰りまするときに私の秘書があそこに座り込みをしているのだから一つ何とか言って慰めてやらないかと言いましたけれども、私は患者にもうここまで来たらばお前たちとの交渉は切れたんだ、残念だけれども、行動を共にするわけには行かないからと言って断って来た以上、私は行くわけにはいかないと言って私はそのまま帰ったわけでありまして、どうぞ我々と連絡があったかのごときは、どうぞその点御理解を願いたいと思います。

藤野豊『「いのち」の近代史』

藤野は「藤原も、自らの潔白を主張するために、患者の行動を激しく罵倒している。…社会運動史上、輝かしい経験をもつ女性である…この藤原の発言には、驚きを禁じ得なかった」と述べて社会党の裏切りを非難している。
私は、藤原の発言の背後に、彼らがハンセン病患者を同情と憐れみでしか見ていないことが明らかである。患者の前では慰めのきれいごとを言っても、本心は見下しているのだ。助けてやろうと思っていたのに、我々の顔に泥を塗るような行動をして、とくらいにしか思っていなかったのだろう。

「癩予防法」改正を阻止できなかった理由は、政府や厚生省に対して同等の権限(立場)で、同じ土俵(国会審議の場)で闘うことができる人間たちが、実は「味方」ではなかったことである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。