光田健輔論(69) 「らい予防法」の背景(6)
これより『全患協運動史』に従って、患者の「闘争の動向」を、時系列で簡単に追ってみたい。
全患協は審議未了を受けて、翌15日、本部常任委員会および各支部代表、多磨支部委員会の合同会議を開き、今後の方針として「ハンセン氏病法案」の線を確認、運動を継続すること、政府案に対して各支部毎に徹底的に検討し、強力に抗議、論駁していくこと、などを決議した上で同日付で全国のすべての患者へ向けたメッセージを発表した。
厚生省の頑なな姿勢に対して、所長会議や全医労、職員組合および政党への支援(連帯)を依頼するとともに、署名や抗議文などの文書活動では覚束ないと、作業ストやデモ行進などの実力行使に方針を転換した。もちろん、その間、改正促進委員会を中心に本部は日夜討議を重ね、各支部でも患者の総意をまとめながら議論を重ねている。
5月16日松岡支部が患者大会を開き、作業拒否の決議文を阿部園長に手渡し、24日には菊池支部で患者他会の後に園内でデモ行進が行われた。
6月3日、厚生省から聖城予防、斎藤療養所の両課長が多摩全生園に来園し、本部や促進委員会、各支部代表と会見したが、悲観的な見解しか得られなかった(「改正しようという誠意は感じられなかった」)。厚生省の意向は決まっていたのだ。彼らはただ「説得」することだけの来園であった。
16日、厚労省は、作業を拒否している患者には慰労金を支払うなと各園に通知してきた。同日、星塚は患者大会を開き、28日からのストを決定し、翌17日には栗生で6人がハンストに入った。さらに陳情団9人を全生園に派遣し、ハンストに入る者も増えていった。
19日には、松丘で大会後に150人が作業ストに突入し、長島、大島でも翌20日に決起大会を開き、27日、30日からそれぞれストにはいることを決定した。駿河は23日、総決起大会を開いて、25日からの作業拒否を通告した。これにより、ほぼすべての支部の連帯による闘争態勢が完成した。
全患協が国会への直接陳情を行うため、林園長にバス使用の許可を要求すると、厚生省は陳情のためのバス使用を禁止し、使わせたらバスを取り上げると圧力をかけてきた。
7月1日、患者はバス使用に代わり電車を使用して国会へと向かった。国会に入った陳情団は全医労などの支援と共産党の河上貫一代議士の斡旋により格闘代議士17人と会見し、要望を訴えた。
第一次陳情にこたえ、2日に小島委員長ら衆院厚生委員5人が来園したが挨拶の域を出ず、本部は第二次陳情団派遣を決定、林園長に栗生と多磨のバス使用を交渉した。同園長は折れ「私の責任に於て許可」、3日午前9時45分園長に引率されて54人、入園者の盛大な見送りのなかを出発した。
衆院厚生委の法案審議がはじまり、与党は強行通過の気配を見せていた。しかし、患者に議員は面会しないとの議院運営委員会の申し合せと、園長に引率された紐つき陳情のため行動を制約され、6人の議員にしか陳情できなかった。衆院の閉門時間が迫る頃、警務部や厚生省の退去命令を拒否して、参院第三通用門前に座り込んだ。厚生省および林園長と押し問答二時間、雨が降りはじめていた。委員も、病弱者と女性だけは帰そうとしたが、やはり全員で頑張ることになり、林園長は7時に帰っていった。
夕刻から多磨を出発した応援隊の1、2、4班が9時半頃から着きはじめ、午前零時半までに13の班が続々到着、合流して陳情団の士気を高めていった。
この朝、各支部におけるハンスト者の合計は88人に達し、松丘の6人は重態におちいっている、と報道され、150人の陳情団たちは涙を押さえることができなかった。
しかし、新しい予防法、「らい予防法」は、7月4日午後3時、自由、改進の両党が賛成、左右社会党が反対で衆院厚生委員会を通過、本会議に緊急上程され、委員長報告の通り討議もなく、左派社会党は流会戦術をとったが起立多数で衆議院を通過した。この間約3分であった。
無修正で衆院を通った政府案は、即日参院に回付された。参院でも自由、改進が数を頼んで7日か8日には強行採決させる方針であることを知った全患協は、各方面に強行に働きかける一方で、厚生省に乗り込み、参院厚生委員会と面会させるとの約束の履行を要求した。
8日、参議院厚生委員会で話し合いがもたれ、慎重審議、公聴会、らい小委員会設置、参考人招致などについて約束を取りつけ、国会から引き上げた。
17日頃にはらい小委員会の審議が完了し、21日に参考人を呼び、23、24日に大臣が出席するのを最後に、原案が通過する日程が迫っていた。
参院厚生委員会との話し合いにより座り込みを解いたが、参考人にしても形式的に意見を聞くだけであり、全患協は第三次陳情を決定し、22日に第三次「日帰り陳情」を決行した。
全国で合計1418人が作業ストを行っていたが、通過即日全支部で抗議大会を開き、三日間にわたって最大限のストに入ることになっていた。三度び多磨を訪ねた村田(正太)により「社会の同情を失う事は今後の状態に支障をきたす」から「紳士的に堅実な運動を」と勧告されたが、全患協は28日早朝、小島委員長(衆院社労委)ほかへの寝込みを襲う自宅陳情を決行、驚愕させた。
30日、第四次陳情団が国会に向かい、議員面会所に入った。菊池、栗生、駿河、松丘などから続々と集結し、約133人が座り込んだ。
31日、多磨から350人が正門を突破、所沢街道を国会に向けて歩き始めた。国会までは約32㎞、隊列の後尾を不自由者が乗ったリアカーが続いた。途中、武装警官に行く手を阻まれ、にらみ合いは6時間にも及んだ。
8月1日、「らい予防法案」は9項目について「近き将来本法の改正を期する」という付帯決議を付して参議院厚生委員会で可決された。
3日、座り込み陳情団総勢160人は参院から厚生省に移動した。
次に、藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』を参考にしながら、厚生省や政府、政党や議員などの動きを時系列で概観しておきたい。患者の動きとの対比で見ていくと、どこにターニングポイントがあったかがよくわかる。
こうした全患協の指揮による患者の集団行動に対して、厚生省は「癩予防法」の第三条を発動して抑え込もうとした。第三条とは、ハンセン病患者を国立ハンセン病療養所に入所させることができる「強制隔離」の条項である。
6月25日、厚生省は東京都衛生局に電話で、全生園からのデモ行進に際して、第三条を発動するように申し出をし、さらに事務官2名を派遣している。しかし、都は確答を避けた。
7月3日、全患協の国会裏での座り込みが始まると、翌4日、都衛生局で都幹部職員と厚生省公衆衛生局長山口正義、結核予防課長聖成稔が会合をもった。席上、厚生省は再度、第三条の発動を要請した。これに対して、都衛生局は「患者が一般都民ではないので都で直に取扱ふべきでない」との見解を示している。つまり、国立療養所に入所している患者は国の管理下にあるので発動できないという対応であった。
7月13日、参議院厚生委員会は、与謝野に参考人として出席を求め、第三条の発動に関して意見を交わしている。
7月29日に全患協が国会裏座り込みを再開したことを受けて、厚生省は繰り返し要請を行っている。結局、第三の発動は行われなかったが、都側も警察と協議するなど準備を進めていた。
だが、この第三条が、「らい予防法」に強制隔離条項が明記される遠因にもなったことはまちがいないだろう。
はたして全患協の戦略がまちがっていたのだろうか。光田が予告したように「患者たちが政治的に動くことは、かえって社会のひんしゅくを買うだけ」だったのか。
私は必ずしもそうは思わない。全患協の運動方針は直接行動だけではなく、広く社会に知らしめる啓発活動、そして他の組織と連帯することであった。彼らは自分たちの実情や要望をビラにして道行く人々に配り、理解と支援を求めている。また、他組織の組合との協力関係を構築すべく連帯を呼びかけている。
「癩予防法」改正反対闘争に関係する書物や資料を読むかぎり、彼らの「闘争」は、時間の限られた中で、本部や促進委員会、支部長会で討議を繰り返し重ね、あらゆる情報を収集し、十分に戦術を検討した上で実行している。しかし、残念ながら、彼らには「陳情」「抗議」「要求」という術しかなかった。それらを強く意識表示するための行動は、労働運動の戦術である「ストライキ」「デモ行進」しかなかった。だが、左派社会党の藤原道子が言うように、彼らには労働組合とちがって、労働三法のような法的根拠がなかった。しかも、「国家権力」に対抗する唯一の「力」である<世論>がまだ十分高まってはいなかった。
では、何が問題だったのだろうか。私は最初から政府および厚生省は「癩予防法」を改正する考えはなく、特に「強制収容(隔離)」「懲戒検束権」については削除する気はなかったと思っている。さらに言えば、患者が作成した改正案など受け入れたくはなかったと思っている。それは彼らのプライドであり、光田健輔への配慮(忖度)があったと考えている。そして何よりも厚生省が正当化の根拠としていたのが、<社会防衛論>であり、憲法に定められている人権を唯一制限できる<公共の福祉>であった。
全患協に協力的であった左右社会党の翻意を、藤野は「…隔離政策を前提にして、その隔離の方法の緩和や隔離した後の患者の処遇の改善を求めていたに過ぎない。そこに一貫するのは『公共の福祉』のためには隔離も已むなしとする認識であった。」と述べている。7月4日の厚生委員会の席上でも、長谷川保は「癩が伝染でありまする以上、これに対しまして予防あるいは取締りの措置が講ぜられ、最後的段階におきましては強制収容、強制検診あるいは消毒等がなされなければならないことは認むるにやぶさかではありません」と、以前の全患協に賛同していた考えから大きく後退している。
また、全患協のデモ行進や座り込みに対しての山下義信や藤原道子の発言は、感情的な自己正当化(自己保身)に思える。なぜなら、上記の厚生委員会の席上で、高野一夫より患者側に情報を漏らして煽動しているのではないかと疑われたと判断したからである。
それは、藤原の発言の続きで明らかになる。
藤野は「藤原も、自らの潔白を主張するために、患者の行動を激しく罵倒している。…社会運動史上、輝かしい経験をもつ女性である…この藤原の発言には、驚きを禁じ得なかった」と述べて社会党の裏切りを非難している。
私は、藤原の発言の背後に、彼らがハンセン病患者を同情と憐れみでしか見ていないことが明らかである。患者の前では慰めのきれいごとを言っても、本心は見下しているのだ。助けてやろうと思っていたのに、我々の顔に泥を塗るような行動をして、とくらいにしか思っていなかったのだろう。
「癩予防法」改正を阻止できなかった理由は、政府や厚生省に対して同等の権限(立場)で、同じ土俵(国会審議の場)で闘うことができる人間たちが、実は「味方」ではなかったことである。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。