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部落史ノート(16) 「賤民とは何か」(2)

従来の部落史像、特に「近世政治起源説」では、<きびしい差別を受け、貧しく、人のいやがる賤しい仕事をさせられた>とされてきた。「職業起源説」ともいえるものであった。このマイナスイメージを払拭するために、職能や文化芸能の素晴らしい仕事を紹介してきた。私は、この手法に違和感をもってきた。数学ではあるまいが、プラス+マイナスでゼロになるはずもない。
<人のいやがる賤しい仕事>について、菅孝行氏は疑問を呈する。

だが、こういう理解の仕方の中に罠はないか。もし、それらの仕事が、本当に賤しく、ひとがいやがるものばかりであるとしたら、そしていやがるという感情が、歴史性をこえた人間性ともいうべきものにもとづけられているのだとしたら、そういう仕事に従事してきた人々は、たしかに気の毒ではあるかも知れないが、忌みきらわれ差別されるそれなりの必然性があったのではないか、という考え方を裏付けてしまうことになるのではないか。また逆に、人のいやがる仕事を担う、ということは、別の考え方からすれば、ひとに尊敬されるべきことであって、それをすることが賤しまれる理由だというのは、あまり上等な説明というわけにはゆかない。
況して、芸能賤民とか、民間唱導宗教の遊行者の場合など、いやな仕事という定義はあてはまらない。現実に彼らの仕事が苦しいとか汚いとかつらいとかいうこととはかかわりなしに何かふつうとちがった賤しむべきもの、排除すべきものであるかということをあらかじめきめてしまう社会意識の枠組が先にあって、それに該当する対象が排斥される、というほうが事実にちかい。

「賤民」は多種多様な職業(仕事)に従事してきた。職業差が理由で差別(賤視)されたとすれば、そのように決めつけられた職業が相当数あったということになる。

では、人のいやがる仕事であっても、社会に必要な(役に立つ)仕事だから、権力者によって強制的に命じられた(させられた)のだろうか。確かに昔、そのような職業起源説によって部落の起源(差別の理由)が授業で展開された一時期があった。よく考えれば矛盾だらけではあるが、斃牛馬処理や刑吏(処刑役)などの仕事は望んで就きたい仕事ではないと生徒も思うだろうと説明しやすかった。しかし、そのような「職業観」はまちがっているし、その価値観は「現代」のものであって「過去」のものではない。そして、「人のいやがる仕事をしていたのだから差別されても仕方がない」という<差別肯定論>に陥る。

実際、トイレ掃除をしている級友に向かって「穢多・非人」とバカにした生徒がいたそうだ。理由は「人のいやがる仕事」をしていたからと答えた。問うべきは、職業に<貴賤・浄穢>の価値観を付与する考えであり、そもそも<貴賤・浄穢>などという価値観それ自体が否定されるべきものなのだ。

要するに賤民は、良民とちがった生活様式をもち、汚く、いかがわしく、おそろしい存在たらしめられていた。それは事実にちがいない。しかし、だから彼らは差別されたというのは本末転倒である。「だから」という語でつながれるべき因果関係は、賤民身分の職業や存在様式と、差別という歴史的社会的事実との間には存在しない。差別された階層の存在様式は、むしろ差別の結果というべきであって、決して差別の原因ではないのである。

「人のいやがる仕事」は結果であって原因(理由)ではない。新たな原因(理由)となったかもしれないが、原初においては理由ではない。何より職業によって差別すること自体がまちがっているし、決して「それを理由に差別を受けても仕方がない」などと正当化できることではない。


次に「賤民とは何か」を考察してみたいが、今までも沖浦和光氏と菅孝行氏の対談をもとにまとめてきたので、ここでは「賤民史」の視点から簡潔に整理しながら、私が疑問と感じる部分を述べておきたい。

菅氏は「賤」の原初形態を「日本が範とした中国の、唐代身分制の流れ」に求め、「すべての被支配階級を、良と賤とに二分する良賤制」にあるとする。つまり、「賤(民)とは古代の農耕中心社会における周辺的存在」であり、「農業という基幹産業に従事する民以外」の存在であった。
と同時に、彼らは「ことごとく、何らかの意味で、非日常世界あるいは異世界との通路に立つ仕事にかかわっている」存在でもあったと考える。

皮革や竹をはじめとするさまざまな細工人は、古代社会では、生産者というよりはむしろ不思議のわざを操る魔術、呪術の徒である。…他界、異世界、不可思議の世界に通ずる宗教者に近かったと考えられる。
祝事や占いにかかわる人々もまた、上級の支配層(その頂点は天皇)以外はことごとく賤民であった。…神的世界に通じる彼らの仕事は、宗教的、あるいは呪術的であると同時に芸能的である。

…この仕事にかかわる者は、異世界の他者として聖視されるか賤視されるかのいずれかでなければならない。儀式をとりしきる権力者は聖視の対象となり、それに従属する階層は賤視の対象となる。
従って流浪者は、農民でなく、おほみたからでなく、公民でなく、「非人」であった。それが宗教的遊行者であれ、芸能の徒であれ、生産社会としての基準からみて、彼らは周辺的であったことには何のかわりもなかった。

賤民は、政治的な身分制度によって良民と区分される以前に、社会的存在として、良民に対する異物にほかならなかった。異物は、排外される。しかし、一方的に賤視されるとはかぎらない。他者を遠ざけるまなざしは、同時に他者を畏敬し憧憬するまなざしでもある。

以上、本項で菅氏が古代賤民の特質を述べている部分を抜き出してみた。

要するに、農耕中心社会から逸脱している人々であり、彼らは特殊な能力を持つがゆえに非日常世界(異世界)との媒介者を務めることができたため、畏怖(尊敬)の対象であると同時に賤視の対象でもあった。ここで「仕事」という表現(言葉)を使えば、先の職業起源説と誤解されることになるが、「仕事」というよりも神事的・呪術的な役割(職能)といった方が実態に近いかもしれない。自分たちとは異なる存在と認識していたのだ。

あらためて考えてみるべきは、現代の価値観・認識からこの当時を考察することのむずかしさである。科学的知識も乏しく、自然現象に対する畏怖の念も強く、居住地や生活範囲も狭く、他者との交流関係も限定的である。また呪術的な世界観や神秘的な宗教観が支配的であり、強権的な政治支配体制によって人々は統制されていた。このような時代における<賤視観><卑賤観>と現代の<差別観>を同等に判断してもよいのだろうか。つまり、我々が<差別>と認識している実態を当時の人々はそのようには意識していなかったのではないだろうか。むしろ「当然のこと」「普通のこと」と思っていたと考えられる。つまり、今の我々が「差別」と認識することを彼らは普通のことと認識していた。

この、聖視-憧憬と、排外-賤視の入りまじった、対他意識を、上下関係の差別へと転位させるのには、いくつかの因子の介在がなくてはならなかった。それがないかぎり、制度としての「賤」の持つ意味は、社会的にはそれほど一方的決定的な差別を意味しなかった。
いくつかの因子とは、第一には、賤民制の政治的強化であり、第二には、賤民の地位の実体的下落(巫女の売春婦化・祝人の乞食化といった、実体の変化)による賤視の深化である。そして第三に、仏教思想の浸透による相対的貴賤観・良賤観から、絶対的浄穢観への社会観の変貌である。以上が相俟って、古代から近世へ、差別は、その構造実体を変化させつつ、より強固で苛烈な差別社会が形成されてゆくことになるのである。

この「因子」の指摘は、古代から近世にかけての歴史的転換(転位)の要因を端的に示している。つまり、菅氏の言う「因子」とは、「賤民史」において「賤民制」の成立から確立、「賤民」の選別と隔離、「賤民」への賤視の強化という歴史的過程の転換要因である。そして、この「因子」の「鍵」となるのが<ケガレ観(ケガレ意識)>である。

古代王権下で確立された制度は、決して、すべてを権力が下地のないところに一からつくりあげたものではなく、政治権力の確立以前から存在した被支配層の大多数を占める農耕定着民の生活体系や社会意識に依拠したものにほかならなかった。制度はつくられたものであったけれども、制度のもとになる社会意識-たとえば、農民が農民以外の者を意識する、憧憬と差別の入りまじった他者観とか、工芸、芸能、呪術といったものへの関係意識、生活空間の異なる場に住むよそ者とか、定着の場を持たない遊行者への意識とか、霊的世界、他界、黄泉といったものに対する感じ方や、生死感、血、汚物といったものに対する汚れの意識、等々-は制度に先立って存在したのである。いわばそれらは、民衆風俗の中に根をもっていた。

菅氏は、喜田貞吉の賤民史研究を評価して、次のように述べている。

…大胆に古代賤民史を解読することを通じて、「賤」とは本質的に何ら賤しむべきものであることを意味せず、賤民制とはただ、古代王権の政治的必要から多数派の民衆風俗に依拠してきめられた人為的制度にすぎないことを明らかにしている…。

ゆるやかで相対的であった「賤民制」(賤視観)が絶対化されるのは、仏教思想の影響であると喜田も明らかにしているが、実はこの点が長く放置されてきたことが部落差別を温存してきた理由でもあると私は考えている。政治史あるいは政治体制にばかり目が向いてきたが、神道、仏教の各宗派、キリスト教など宗教が日本の歴史や生活に果たしてきた「負の影響」こそ民衆意識の解明にとって必要であったと思っている。つまり、神道だけでなく、すべての宗教がもつ「絶対性」と「聖なる世界像」と対極に「賤なる世界像」を設定することが、民衆の中に「貴-賤」「聖-穢」の価値観と「浄穢思想」を定着させていったのだ。

…それはとくに獣を処理すること、食べることを不浄とする宗教思想が浸透したこと、浄・不浄観の神道にともなって、この思想が、従来は同じ人間のうちの貴賤関係であった身分差意識を、人と人でないものを区分し、互いに不可蝕とする浄穢の関係を根拠づけてゆくものに変質させたということであろう。

…権力の文化として定着した支配階級の仏教は、明らかに、そのような浄穢観の浸透に寄与し、中国的な、相対的貴賤の思想を、浄・不浄関係へとつくりかえてゆく思想的推進力となったのである。それは、原始仏教の思想や、その流れを、法然を介してうけついだ親鸞の平等思想や、むずかしい教学とは相対的に別個のところで形成されたとみられる、民間唱導宗教の系譜とは、真向から対立する質をもっている。前者は、位階制秩序の強化、絶対化を正当化するために寄与し、差別の深化、徹底化に貢献した。後者は、差別にあえぐものの絶望をすくい、魂の再生に寄与すると共に、差別からの解放の思想への通路をつけるはたらきをも担ってきた。

私自身が無神論者・無宗教者であるから特に宗教の負の部分に関して問題視するのかもしれないが、賤民だけでなくハンセン病患者を保護し救済してきた反面で、彼らが「差別」に加担してきた事実が許しがたい。何も古代や中世の話ではない。明治以後の近代になっても、戦後になってからも、キリスト教も含めて宗教が<魂の救済><来世の幸福>を説くだけで、隔離や差別に対して「慰め」以外の術を行わず、結局は容認した事実を忘れることはできない。

菅氏の論考を参照しながら「賤民」についてまとめてみた。菅氏の左翼思想・マルクス主義への傾斜と天皇制批判は別にしても、彼が「賤民史」として提起している「支配権力による賤民制の利用」と「民衆の社会意識に賤民思想が浸透する過程」、そして「因子」と表現する要因(影響)に関しては首肯できる。

古代賤民制の確立以後、賤民として区分された対象は大きく変動している。律令制初期に賤民とされたものの多くが公民化され、当初、賤民とされなかった者が、様々な理由から、賤民化されている。また、貴賤観それ自身も大きく変化した。この変化のすじ道をつけたものこそが、貴族の仏教の浄穢観であった。もちろん、思想はそのまま制度ではない。浄穢観を制度に結合し、差別の機能を、深め絶対化したのは、ひとつには政治権力の、統治のための強制であり、もうひとつは、それを受容していった被統治者の側の社会意識にほかならなかった。

この考察も納得がいく。誰と誰が、何と何が、などを詳細に検討することは学問的には意味があるだろうが、部落差別の系譜や要因を分析することにおいてはそれほど決定的な意味は持たない。むしろ大局的に理解することで、根拠(要因)の不確かさや理不尽さを知ることと、賤民が日本の歴史において果たした成果と役割を知ることの方が重要である。そして何よりも、賤民史を知ることで、自らの中にある<賤視観>や<浄穢観>を払拭していくことである。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。