見出し画像

<特別病室事件>再考(5)

「重監房」に収容された鈴村秀夫は,どうなったか。

…長く〔特別病室への〕食事運びをした〔入所者の〕佐川修氏の話によると,義夫は1945年の夏ごろからひどく錯乱してしまって,房内にあるはずもない電話をかけ,高声でしゃべったり笑ったり泣いたりしていたとのことだ。無理もない。空腹状態がしばらく続くと,それだけでも気が変になるといわれる中,あのような孤独地獄,闇地獄の中でまともな神経でいられるはずはなく,錯乱はむしろ救いであっただろう。彼は若かったがゆえに,一冬越せるはずはないといわれた特別病室で,1944年10月23日から46年1月4日まで生きつづけたのである。日数は444日間,厳寒の冬を1度越し,2度目の冬を半ばまでしのいだことになる。

沢田五郎『とがなくてしす』

「特別病室」の最長在監記録は「満八十山」であって533日間である。鈴木より90日長い。それにしても、冬は零下20度にもなるという極寒を、梅雨の時期の湿気によるカビ、真夏の猛暑をわずかな水分で、よく耐え忍んだと思えば、逆に哀れさがつのる。


あらためて「特別病室」の構造について、『とながくてしす』より引用する。

この特別病室があったのは、園の正門から西に入る道が八十メートルほど行って行き止まりになった先の、やや低地になったあたりである。…

建坪三十二・七五坪(約百八平方メートル)、二棟になっていて(一棟だが、迷路のように通路が入り組んでいたので二棟と思われたという説もある)、治療室と看守の控室と、罪を犯した患者を入れる房が八房。一房の広さは便所を含めて約四畳半、床は厚い板張りで、壁には、コンクリートがむき出しのところもあったが鉄板が張られており、高いところに一ヶ所明り取りの窓がある。この寸法は縦十三センチ・横七十五センチで、硝子戸が一枚はめられ、引き違いに動くようになっている。窓の外には鉄格子がある。食事を差し入れる窓は足元にあり、普通の便所の掃き出し窓より小さく、汁椀がやっとくぐれるくらいとなっている。

周囲には高さ約四メートルの鉄筋コンクリートの塀が巡らされ、内房も一房一房、同じ高さの塀で仕切られ、通路にも一房ごとに三尺(約1メートル四方)の扉がある。…

最初の扉をくぐってから一番近い房へ行くまでに四つの扉をくぐらねばならない…。収監者を出し入れする扉は三尺角で、太い木の格子、その内側に張られたのと同じ鉄板が打ちつけてあり、外側には鉄棒が何本かつけられている。
電気の配線はなされていたが電球は取りつけてなく、収監者には袷一枚と布団二枚が与えられただけで、火の気は与えられない。(入れられるときに着ていた下着はそのまま、六月から九月までは単、十月から袷で、帯はない。布団は敷一、掛ニだったとの説もあるが、いずれにせよちゃんと打ち直して再生した布団ではなく、ぼろ倉庫に収められていたものを与えたことには間違いない)。

明り取りの窓は高くて小さいゆえ,幾重にも高い塀で閉ざされた塀の中は暗く,曇った日には昼夜の区別さえつかなかったという。そして,誰かが掃除をしてくれるわけではなく,箒も雑巾もないから,湿気るにまかせ,冷えるにまかせるほかはなく,冬は吐く息が氷柱となって布団の襟に下がり,房内は霜がびっしりと降りた。

収監者には減食の刑も課せられているので,日に二回,薄い木の箱に入れた少量の飯が差し入れられるだけである。朝食は一般の給食と同じ時間に出され,汁がついている。ただし汁の実はなかったという。昼は一般の給食より少し早く,汁はなく,飯は朝の箱より五割方大きい箱に入れられていて,これ以後に食事はない。おかずは朝昼とも梅干一個だった

沢田五郎『とがなくてしす』

「特別病室」の構造を文章からイメージするのはむずかしい。『日本のアウシュヴィッツ』(高田孝)に「特別病室平面図」が掲載されているが、これもわかりにくい。私も、実際に草津の重監房資料館を訪ねて、実物大の患者房や立体模型、重監房跡地を見学して初めて理解することができた。
時代劇に登場する「牢屋」などまだましである。沢田も書いているように、「特別病室」は「干し殺し」のために造られたのだと実感した。


福岡安則は佐川修さんに直接会って聞き取りを行っている。佐川さんは鈴木義夫が死ぬ前日まで会っていたと証言している。

…鈴村っていう人は,頭が狂っちゃって。それで,もう死ぬ2、3日前から,「カラスが来た。カラスが迎えに来た」とかって。それで,「いつもご苦労さんだ。お礼だ」とかって,〔空になった弁当箱を〕出したら,固いウンコがね,載っかってンですよ。なぁーに,ろくに食ってないのに,よくこんな上等なのが出るなと思いながら,びっくりしちゃって。「ナンダァッ」つって,それ投げちゃって。それで,箱だけ持って〔帰って〕,分館へ〔行って,彼が精神に異常を来(きた)しているから,放っておけないのではないかと〕話したら,〔逆に〕「あしたは,もう,飯は,そいつはやらなくていい」つって,1日抜かして。次の日行ったら,昨日〔食事を〕抜かれたこともわかんないで,ケロッとして,「ご苦労さまです」つって。そうやっていたけど,その次の日には,死んじゃったな。

福岡安則『裁判抜きの「重監房」』

重監房資料館の再現された「患者房」の中に実際に入ってみた。数分いや数十秒も耐えられなかった。資料館の中に模造されたものだとわかっていても、恐怖が込み上げてきて震えだした。極限状況の中では身体よりも精神が破壊されてしまう。

死んだのは,ほとんど冬のあいだだった。おれは5,6人,〔遺体を〕出しに行った。板の間に,敷布団1枚に掛布団が1枚あるだけ。両手を上げ,干乾しだか凍死だか,干からびた蛙のように凍りついて死んでいる。寒いときは敷布団が下の板に凍りついちゃっている。だれも触りたくないよ。布団ごと持って行こう,と思うんだ。2,3人が中に入って,1人が敷布団の裾を持ち上げ,工事のときに捨ててある板きれを突っ込んで擦(こす)り,こじって剥がすんだけど,光がないところで掻くんだから,戸が閉まったらよけい暗くなるし,扉が閉まったら,そりゃあ絶望的な気分に襲われる。「閉めるな! 閉めるな!」って叫びながら,やっと氷を剥がす。苦しんで死ぬんだから,まっすぐばかりに死んではいない。90センチほどの出口からなかなか出せないこともあった。4人ぐらいでやっと通路に引っぱり出して,担架に乗っける。血管に力がないからみんな出血しちゃうんだろうなぁ。遺体は紫がかった黒っぽい色だった。前を1人,後ろを1人で担架を持ち,ほかの者は宿直室に転がっている死者の私物も持って,あの坂を下ってくるんだ。そして解剖室の前へ持って行く。9時か10時ごろ迎えに行って,連れてくるんだけれど,解剖室の扉が開いていれば,解剖室へ入れる。午後にならなければ医者は解剖しないから,たまに手違いで解剖室の扉が開いていないことがある。そのときは庭の土や雪の上に,担架ごと布団をかぶせて置いてくるんだよ。
園内で死んだ人はほとんど解剖された。入園するときの書類に「解剖していい」という欄があって,名前を書いてハンコを押させられていた。おれは5,6回行き,いろんな恰好で死んでいるのを見たよ。布団から這い出して死んでる人もいた。戸を開けたら,そこに頭があって,びっくりして跳び上がることもある。出口の戸に頭をおっつけて死んでいた。出たかったんだろうなぁ。

高田孝「重監房は日本のアウシュヴィッツ」『栗生楽泉園入所者証言集』

同様のことを沢田も書いている。

死ぬのは主に冬であるから、死体は凍りついているのである。そのため、布団ぐるみ運び出さなければならない場合が多かったが、その布団ががっち床に凍りついているので、かなてこでも用意してゆかないと引きはがせなかったというのだ。また、「この中で死んでいるはずだが」と言われて小窓から覗いてみるが、布団の中にそれらしい死体はない。周囲にもない。かわるがわる覗いてみるうち、あれではないかというものがあって、そこを見ると、片隅にうすぼんやりと白い塊がある。そこで扉を開け、勇を鼓して中に入り、よくよく見るとそれが死体で、うずくまったままそこでこときれ、びっしり霜をまとっていたというのである。まさに冷蔵庫の冷凍室の寒さである。

沢田五郎『とがなくてしす』

鈴木義夫の死体は世話係と望学校同窓会員によって運び出され、型どおりの検屍を受けた後、同窓会員の手で火葬されたという。髪は何ヶ月も刈ってもらってなく、肩まで伸び、手足の爪もひどく伸びていたという。哀れとしか言葉がない。佐川さんは鈴木が「特別病室」から出されて入浴させてもらい、髪を刈ってもらっているのを見たという。それから半年以上、錯乱していたからか、鈴木は出してもらっていないのではないだろうか。

楽泉園から離れた人目のつかない雑木林と熊笹に覆われた地に建てられたとしても、そこに「特別病室」があり、他園の患者が多かったというが、楽泉園の患者も入れられていた以上、古見園長や医官、看護師、職員も「特別病室」の存在を知らない者はいないだろう。そして、どのようなところであり、どれほど苛酷な環境下に置かれていたかはわかっていたはずである。だが、誰一人、患者以外は何の行動も起こしていない。

司法当局が、国民の誰かにある犯罪の嫌疑をかけて逮捕し、取調をして、起訴するにあたっては一件書類というものを必要とする。しかしながら、この特別病室収監者にはそういうものはなく、園長にゆだねられていた警察権で処断しているのである。ただし園長は判を押すだけで、実際にことを行う人は看護長・加島正利であった。他園の場合も似たようなもので、園長は「まぁいいでしょう」といった程度、そうでもなかった園長は大いに自分の意思を働かせて、不心得者を特別病室送りにしたのである。送りつけられたほうとしては、「逃走常習」とか「職員への反抗」とかいってもどの程度なのかよくわからないが、こちらの責任範囲ではないということで、気楽に入れておけただろうと思う。

沢田五郎『とがなくてしす』

沢田が述べていることは、今の我々には俄には信じがたいことだろう。救らいの思いを強く持ち、医者としてハンセン病患者の治療に真摯に向き合ってきたであろうと思われる園長あるいは医官が自らの患者を「特別病室」に入れ、病者である収監者の体調を気遣うこともなく放置する非道な対応を、よくもできたものだと私は思わずにはいられない。たとえ、加島正利が患者に対して絶対的な権力を振るっていたとしても、園長や医官にまでは及ばないはずである。私は古見園長や矢島良一医務課長の非人道的行為は許しがたい。

繰り返すが、過去のことを掘り返して何になるという声もあるが、ハンセン病問題に限定すべきではない。時代的正当性も関係ない。なぜなら、同様のことが現在も生まれているのだ。戦争下における残虐な行為、ネット上を闊歩する誹謗中傷、最近の闇バイトによる強盗事件など、もちろん差別や偏見も一向に解消されることはない。これらは根源において同質である。人間の本質に関わる問題なのだ。

いいなと思ったら応援しよう!

藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。