三上千代の足跡を辿って、あらためてハンセン病対策には多くのキリスト者が医師や看護婦、職員、あるいはMTLなどの支援団体として関わっていることを実感する。なぜキリスト者はハンセン病者の救済に関わったのだろうか。キリスト教の教義や使命感、いわゆる「救癩思想」が彼らを献身に向かわせたのはまちがいない。そして、彼らの献身がハンセン病者の精神的な慰めや治療・介護に大きく貢献したのも事実である。反面で、光田らが推進した絶対隔離政策にも積極的に加担したのも事実である。
三上について荒井氏は興味深い見解を述べている。
私は松本氏の「答え」に納得しきれない点もある。私はこの「矛盾」を<両義性>と解釈する。つまり、一方は「救われる側」である患者に対する「救う側」からの、上から下に向けた、同情や憐れみの情であり、他方は「民族の浄化」のために「癩絶滅」に尽力する使命感である。それゆえ、三上の中では「矛盾」ではないのだ。これは、光田健輔の考えでもある。その「光田イズム」が光田に影響を受けた者たちに受け継がれていったのだ。
荒井氏が、三上とも親交が深かった光田の直弟子である林文雄について述べている文章を抜粋して転載しておく。
この林の存在は、彼が自覚してなかろうとも、光田イズムをさらに増幅・強化して三上千代や小川正子などに伝える<触媒>の役割を担っていた。
鈴蘭園の運営が行き詰まり、焦燥に駆られた三上が全生病院医官(当時)であった林に送った手紙が『風雪の紋』(栗生楽泉園患者自治会編)に転載されているが、それを読めば、三上が光田と同じく、林文雄を信頼し尊敬していたことがよくわかる。
人は自らが深く心酔するほどに敬愛する人物に対しては、ほぼ無条件でその人物の思想や言動を受け入れる傾向が強い。誠実で純真な、そして使命感が強い人物ほどその傾向があるが、逆に信じ込むと一途に突き進み、周囲が見えなくなり、他者の言葉に耳を貸さない傾向がある。
<宗教の怖さ>とも深く関係する傾向である。教団や教祖への絶対的な帰依が引き起こす社会問題、たとえばオウム真理教、旧統一教会、宗教対立による戦争など数え上げれば切りがない。
「自他ともに認めるヒューマニストであり、熱心なキリスト者でもあった」林は、一方で、1939年『婦人公論』誌上の座談会に、光田とともに出席し、「我々には癩は面白くて仕様がない。光田先生の話を聴く解剖は自由に出来るし…患者に聞えると悪いが、さういふ立場から研究してみたい考へも非常にある。」と述べている。患者を「モルモット」のように考えている。
荒井氏は上記著書において、主として小川正子を通して<キリスト教者とハンセン病>の関係についてキリスト教的「救癩思想」の危うさについて考察していくが、小川の「精神的支柱」であった林文雄、恩師である光田健輔との関係についても分析している。
私は荒井氏の考察から、あらためて宗教の持つ教条主義(ドグマ)に陥った人間が権威や権力をもつ恐ろしさを痛感する。
小川正子に関しては別項にて考察したいと考えているが、林にせよ小川にせよ、三上と同じく無批判に光田健輔のハンセン病政策を受け継いで、光田の主唱する絶対隔離政策を広く世間に喧伝している。その背景にはキリスト教的救癩思想がある。光田を盲信し、彼の「絶対隔離政策」こそが「救癩」の唯一絶対の方法と信じ、そのために尽力することがキリスト者としての使命であると自己犠牲を厭わず邁進する。
その結果、小川は、1933年第6回日本癩学会で発表した「癩と妊娠」において、光田のワゼクトミー(断種手術)や中絶手術さえも正当化する。
ハンセン病療養所での胎児標本の存在は2005年、初めて明らかになった。熊本地裁判決(2001年)を受け、ハンセン病問題検証会議が、沖縄を除く全国6カ所の療養所と施設で計114体の胎児標本が存在すると公表した。標本の作製時期は1924~56年ごろであり、体長などから29体が妊娠8カ月を超えており、うち16体は36週以降に生まれたと推測された。検証会議は出産後に療養所職員らに殺害された可能性にも言及している。
私も、実際に長島愛生園において胎児や患者の手足・臓器の入ったガラス容器を見た。言葉を失ってしまい、暫し茫然自失の状態だった。
これを医学の進歩発達のため、研究のためという弁明が成立するとは思えない。3000体以上の解剖を自慢する光田健輔を「救癩の慈父」と呼ぶ感覚が、今も私には理解できない。彼らにはハンセン病患者は「人間」ではなく「モルモット」でしかなかったのだ。まして、彼らを「犠牲者」などと軽率に呼ぶ光田らを正当化する人々は、標本にされた胎児や手足を見ても、そう言えるのだろうか。
私が、なぜ今頃になって「光田健輔論」としてハンセン病史を書き始めているのか。それは荒井氏の次の一文に集約される。約30年前、「らい予防法」が廃止された年に書かれた本書の「結び」ではあるが、「国家賠償請求訴訟」の勝訴判決と検証会議の報告があったにもかかわらず、今も「救癩の偉人伝説」は続いている。
本論考において、廣川和花氏や吉崎一氏、近藤祐昭氏などを批判したが、彼らに共通するのが「判官贔屓」と言えば酷かもしれないが、「救癩」の功績や光田健輔の恩情的な態度を理由に、光田らの人権蹂躙を「仕方がなかった」「時代的正当性」に帰結させようとする擁護論である。それは決して見過ごせない欺瞞である。