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光田健輔論(30) 浄化と殲滅(11)

三上千代の足跡を辿って、あらためてハンセン病対策には多くのキリスト者が医師や看護婦、職員、あるいはMTLなどの支援団体として関わっていることを実感する。なぜキリスト者はハンセン病者の救済に関わったのだろうか。キリスト教の教義や使命感、いわゆる「救癩思想」が彼らを献身に向かわせたのはまちがいない。そして、彼らの献身がハンセン病者の精神的な慰めや治療・介護に大きく貢献したのも事実である。反面で、光田らが推進した絶対隔離政策にも積極的に加担したのも事実である。

…三上千代は四十年を越える「救癩」の仕事、ことに戦時下の沖縄の療養所に看護婦としてあって一人の犠牲者も出さなかったことが評価され、1957年ナイチンゲール賞を受賞したが、そもそもは「婦人伝道師」として出発した人である。1910年5月、東洋宣教会聖書学院を卒業して複音伝道館の伝道師となり、東京や伊豆、信州で伝道活動を始め、行く先々でハンセン病患者との出会いがあって、直接的救済の道「看護」へと転進した。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

三上について荒井氏は興味深い見解を述べている。

…1927年、ハンセン病の根絶を社会に訴えた「癩の根絶」という文章の冒頭で、次のように語っている。

…然し乍ら、茲に我らに、唯一の恥辱がのこされてあります。それは「癩病の一等国」といふ、有難くない名称でよばれて、列国から侮辱されておる事があります。それは恰も盛装した婦人の顔面に、夥しい汚物が塗りつけられてある様な浅間しさで、これが未開野蛮の国ならば、さまで目障りにならぬでありませうが、如何せん、文明国という盛装の手前、実に嘆かはしい面汚しではありませんか。…果たして此の病気が遺伝性のものであるとすれば、如何に焦慮しましても、我民族の浄化は望まれない訳でありますが、…癩病は一種の慢性伝染病である、…もう「癩絶滅」といふ問題は、前途を悲観すべきものでは無くなったのであります。即ち伝染病と同じく、隔離法を励行すればよい事になります。

一方で「ライはキリストなり」と言い、他方で「夥しい汚物」「面汚し」と語る三上の矛盾。しかも強いナショナリズムと共に、あえて「民族の浄化」という言葉を使い、自らその使命に燃えている。三上の真意はどこにあるのか。この疑問を解くために、1993年6月、私は全生園に入園者松本馨を訪ねた。…全生園々長が外の講演会で、「患者さんは私どもの宝です」と語ったのを受けて、松本は「このくらいのことを言わないと勲章はもらえないし、らい者の父にはなれない」と、言葉の裏面を鋭く突く。…彼に、私は三上の発言の真意も聞いてみた。答えは単純明快だった。「それは矛盾などというものではない。どういうことを言えば世間の人が感激するか知っているだけのことです」。一方で「患者は宝」と言いつつ、他方で「豚の餌を厚生省にもらいに行って来た」と言ってはばからない歴代の園長らの言葉の質。三上の発言もこれと同質のものであるということだろうか。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

私は松本氏の「答え」に納得しきれない点もある。私はこの「矛盾」を<両義性>と解釈する。つまり、一方は「救われる側」である患者に対する「救う側」からの、上から下に向けた、同情や憐れみの情であり、他方は「民族の浄化」のために「癩絶滅」に尽力する使命感である。それゆえ、三上の中では「矛盾」ではないのだ。これは、光田健輔の考えでもある。その「光田イズム」が光田に影響を受けた者たちに受け継がれていったのだ。

荒井氏が、三上とも親交が深かった光田の直弟子である林文雄について述べている文章を抜粋して転載しておく。

…星塚敬愛園々長林文雄がナチスの断種法に言及しながら、「癩と断種」と題する一文を『日本MTL』に載せた。…冒頭からいきなり、ハンセン病患者の断種は法的根拠によらずとも、「文明国」の体面上からいってなすべきものであるという主張を展開する。…医師として断種手術の容易さだけを強調し、安全性も、また何より患者の人権を全く顧慮していない。さらに続けて、「断種法が癩療養所に大正四年の昔から取入れられた」のは「世界どこの癩事業にも見ぬ光田先生の偉業の一つ」であり、「この卓見には早くから安部磯雄氏も敬意を表して居られた」と恩師光田をほめ讃えて、「一般の人々が癩に対する断種問題に正しき理解を持たれん事を希望する」と結ぶ。これがかつて「癩」に恋をしたといってはばからなかったキリスト者の言葉である。過ぎし日、全生病院で患者一人一人に注がれていた林の眼差しは、今、文明国の恥を取り除く使命にだけ注がれる。これは、キリスト教「救癩」事業を担った良心的キリスト者にしばしば見られる、「人間」から「使命」への視座の転換である。

林は光田の忠実な弟子であって、光田の隔離主義・断種主義をそのまま受け継ぎ、その実現のために不眠不休で働いた。

林は、療養所を単なる治療の場とは考えなかった。そうではなく「祖国をきよむる一大使命に生きる場所」として捉え、従って患者に対しても、「祖国を浄化するために選ばれてここに生活する同志」として新たな使命と責任を自覚させ、「ともすれば卑下しがちな彼らを励まし、誇りさえ持たせようとした」のであった。この姿勢は愛生園時代、敬愛園時代を通じて一貫していた。「文雄においては隔離主義は人道主義であり、医者としての良心の命令そのものであった」。この精神をそのまま受け継いだのが小川正子であった。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

この林の存在は、彼が自覚してなかろうとも、光田イズムをさらに増幅・強化して三上千代や小川正子などに伝える<触媒>の役割を担っていた。
鈴蘭園の運営が行き詰まり、焦燥に駆られた三上が全生病院医官(当時)であった林に送った手紙が『風雪の紋』(栗生楽泉園患者自治会編)に転載されているが、それを読めば、三上が光田と同じく、林文雄を信頼し尊敬していたことがよくわかる。

人は自らが深く心酔するほどに敬愛する人物に対しては、ほぼ無条件でその人物の思想や言動を受け入れる傾向が強い。誠実で純真な、そして使命感が強い人物ほどその傾向があるが、逆に信じ込むと一途に突き進み、周囲が見えなくなり、他者の言葉に耳を貸さない傾向がある。
<宗教の怖さ>とも深く関係する傾向である。教団や教祖への絶対的な帰依が引き起こす社会問題、たとえばオウム真理教、旧統一教会、宗教対立による戦争など数え上げれば切りがない。

「自他ともに認めるヒューマニストであり、熱心なキリスト者でもあった」林は、一方で、1939年『婦人公論』誌上の座談会に、光田とともに出席し、「我々には癩は面白くて仕様がない。光田先生の話を聴く解剖は自由に出来るし…患者に聞えると悪いが、さういふ立場から研究してみたい考へも非常にある。」と述べている。患者を「モルモット」のように考えている。

…林文雄が最初の「癩予防デー」を前にした1932年6月23日、ラジオで行った講演「癩を救う三ツの力」…の筆頭に「上皇室の恩恵」を挙げ、続いて第二の力は「癩療養所内の病者自身がこの問題の為に蹶起した事」、そして第三の力は「今ラヂオを通じて癩を見つめて居る諸君兄弟姉妹…最も憐れむべき最も救ひを要すべき癩者の為に手を延べ様とする諸君の力」であると言い、これら三つをもって「日本の癩は尽く救はれるであろう」と述べる。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

荒井氏は上記著書において、主として小川正子を通して<キリスト教者とハンセン病>の関係についてキリスト教的「救癩思想」の危うさについて考察していくが、小川の「精神的支柱」であった林文雄、恩師である光田健輔との関係についても分析している。
私は荒井氏の考察から、あらためて宗教の持つ教条主義(ドグマ)に陥った人間が権威や権力をもつ恐ろしさを痛感する。

…しかし、科学者としての小川に賭けていたもの、それは自らを客観化する視座、言い換えれば恩師光田を相対化する視座である。小川は光田に心酔するあまり、また「祖国浄化」の使命に燃えるあまり、醒めた目で「救癩」のあり方を根本的に見直すゆとりがない。

…それ以上に「癩」治療に関する絶対的信念、すなわち隔離以外に方法はないという信念が見え隠れする。この、自分(救癩側)にとって正しいことは、患者(被救癩側)にとっても幸福であると言う思い込み、これこそ、小笠原登を徹底的に癩学会で疎外・弾圧した光田健輔の態度の延長上にある小川の振舞いである。小川の科学者としての限界は、そのまま恩師光田健輔の科学者としての限界にほかならない。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

小川正子に関しては別項にて考察したいと考えているが、林にせよ小川にせよ、三上と同じく無批判に光田健輔のハンセン病政策を受け継いで、光田の主唱する絶対隔離政策を広く世間に喧伝している。その背景にはキリスト教的救癩思想がある。光田を盲信し、彼の「絶対隔離政策」こそが「救癩」の唯一絶対の方法と信じ、そのために尽力することがキリスト者としての使命であると自己犠牲を厭わず邁進する。
その結果、小川は、1933年第6回日本癩学会で発表した「癩と妊娠」において、光田のワゼクトミー(断種手術)や中絶手術さえも正当化する。

…松本馨の証言によれば、全生園には光田健輔の作った標本室があって、そこには「ガラス容器にアルコール漬けにされた結節ライの首、神経ライの首、混合ライの首と、型が一目でわかるようにそれぞれの特徴をもった首が展示してあった」という。さらに驚くのは「アルコール漬けにされた胎児の標本もあった」ということである。また、光田らによって患者の子孫を根絶するために推進されたワゼクトミーの被害事例とも言うべき、断種手術の失敗が原因で妊娠した子供を、出産と同時にあらかじめ用意しておいたガラス瓶の容器に入れて標本室に運び標本にしてしまったものさえある。「切断されたガラス容器の首や手足、頭部、腹部など、復原したら一体何人の人間が復原できるだろうか。恐らく世界のどこを探してもこれだけのライの標本はない」と証言する松本は、一貫して光田イズムを批判してきた急先鋒である。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

ハンセン病療養所での胎児標本の存在は2005年、初めて明らかになった。熊本地裁判決(2001年)を受け、ハンセン病問題検証会議が、沖縄を除く全国6カ所の療養所と施設で計114体の胎児標本が存在すると公表した。標本の作製時期は1924~56年ごろであり、体長などから29体が妊娠8カ月を超えており、うち16体は36週以降に生まれたと推測された。検証会議は出産後に療養所職員らに殺害された可能性にも言及している。

私も、実際に長島愛生園において胎児や患者の手足・臓器の入ったガラス容器を見た。言葉を失ってしまい、暫し茫然自失の状態だった。
これを医学の進歩発達のため、研究のためという弁明が成立するとは思えない。3000体以上の解剖を自慢する光田健輔を「救癩の慈父」と呼ぶ感覚が、今も私には理解できない。彼らにはハンセン病患者は「人間」ではなく「モルモット」でしかなかったのだ。まして、彼らを「犠牲者」などと軽率に呼ぶ光田らを正当化する人々は、標本にされた胎児や手足を見ても、そう言えるのだろうか。

今日よく、「あの時代ではしかたがなかった」、「隔離法しか有効な手段がなかった」という、時代的正当性を擁護する発言が聞かれるが、それは歴史の一面しか捉えていない。小笠原登のように、その時代にあっても患者の人権が見えていた人はいたし、圧力に屈せず強制隔離や断種に否を唱えていた人もいたのである。ただこの少数派の意見に、「強力な権威」が全く耳を貸さなかっただけである。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

私が、なぜ今頃になって「光田健輔論」としてハンセン病史を書き始めているのか。それは荒井氏の次の一文に集約される。約30年前、「らい予防法」が廃止された年に書かれた本書の「結び」ではあるが、「国家賠償請求訴訟」の勝訴判決と検証会議の報告があったにもかかわらず、今も「救癩の偉人伝説」は続いている。

最近気になっていることがある。かつて国策に殉じて隔離に奔走した一人の女医・小川正子を「救癩」者の視点からのみ「救癩の天使・聖医」と顕彰したように、今また第二の『小島の春』現象が形を変えて現われつつある。マスコミの神谷美恵子の取り上げ方もその一例で、これに関しては療養所入園者の間から、すでに抗議と失望の声が上がっている。「患者」は相変わらず「救癩」者の偉業を引き立てるための素材にすぎない。差別語にはことさら神経を使いながらも、旧態依然の「救癩」観を引きずったままである。

荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

本論考において、廣川和花氏や吉崎一氏、近藤祐昭氏などを批判したが、彼らに共通するのが「判官贔屓」と言えば酷かもしれないが、「救癩」の功績や光田健輔の恩情的な態度を理由に、光田らの人権蹂躙を「仕方がなかった」「時代的正当性」に帰結させようとする擁護論である。それは決して見過ごせない欺瞞である。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。