「明六一揆」論(6):小林久米蔵(2)
失意のうちに帰宅していた久米蔵の胸中はいかなるものだっただろうか。顔役としてのプライドを深く傷つけられ,時代の変化を身にしみて感じていたことだろう。
だが,久米蔵の心を引き戻すことがおきる。鈴木良太郎が一揆勢のもとから帰ってきたのだ。そして,久米蔵に,一揆勢の増大と事態の深刻さを告げる。
鈴木良太郎儀,随行先よりまかり帰り,押し寄候党民共,津川原村より詫書差し出さず候はば,たちまち押し入り候趣につき,互ひに村役人に替はり説諭に参るべく様申談これある間,先に申し入れ候儀は自分一己のはからいにつき,尚また,鈴木良太郎・香山哲治郎同道まかり越し,同村杉原重平・山本孫十郎ならび死亡杉原長蔵に面会,詫書差し入れの儀,引き合ひ及び候へども,前書光五郎・森太郎より相答へ候通り承服致さず候間,心憎く存じ,隣村下津川原村に屯集の党民共へ対し,従前身分を相守り候様の書き付け差し出し難き旨,強情に申し張り候に付き,この上は勝手次第に乱入致す可しと相喚はり,煽動致し置き,自宅取り片付け方に立ち帰り候
(鈴木良太郎が一揆勢のところから戻ってきて,一揆側の態度が津川原村から詫書を差し出さなければ直ちに押し込む様子だから,村役人に替わって説得に行こうと求めるので,先ほどの申し入れは自分の一存であったから,今度は鈴木良太郎・香山哲治郎と一緒に行きました。津川村の杉村重平・山本孫十郎・死んだ杉原長蔵に会いました。そこで,詫書差し入れの件を持ち出しましたが,(前書の)光五郎・森太郎が答えた通り,承服できませんというので,心憎く思い,下津川原村に集まっている一揆勢に対して,従来の身分を守るという証書を差し出すのは難しいと強情に言い張るから,こうなった以上は勝手に乱入しろと叫び,煽動しておいて,自分の家の片付けに帰りました。)
鈴木良太郎は,「詫書」を出さなければ,津川原村に直ちに押し込むという一揆勢の様子を久米蔵に伝え,村役人に代わって説得に行くことを求める。久米蔵は,先ほどの申し入れは自分の一存だから,もう一度説得しようと,鈴木良太郎と香山哲治郎を伴って津川原村に行く。津川原村も人を代えて杉村重平・山本孫十郎・杉原長蔵が対応する。
再度,久米蔵は「詫書」を差し入れるよう説得するが,前回同様に拒絶される。このことを久米蔵は「心憎く」思い,斡旋の余地もないと腹を立て,一揆勢に対して「勝手次第に乱入致す可し」と「煽動」する。そして,自分の家に片付けに帰る。類焼や巻き添えにならないための片付けと思われる。
自分勝手な言い分だが,久米蔵が津川原村の人々をどう見ているかを考えれば,当時の身分意識がわかる。久米蔵は,自分よりも「下」に見ているだけではなく,「焼き討ち」「襲撃」を「煽動」さえしていることからも,隣村でありながらも自分たちとは「異なる」という意識が強い。
久米蔵が「心憎い」と思ったのは,せっかく助けてやろうと思ったのに,二度までも強情に断ったことへの怒りと自分の面子をつぶされたからである。「もうどうなってもしらないぞ」という気持ちからの「煽動」であった。
跡にて,凶徒共猶予なく乱入,人家所々へ火を放ち,ついに村内残らず焼燬に至り候。付ては,前もってしばしば説諭に及び候儀を聞き入れず候より右次第に立ち至り,かつは,自分とり計らひも相貫かず,かたがた憤懣まかりあり候
翌二十九日,右村方の者,近傍山谷に潜匿致しおる者どもを捕縛し,加茂川原へ引き出し,殺害に及ぶ形勢にて,党民ども頗る奔走まかりある趣き承り候より,兼ねて悪ましき者共を,殺すべき期に望み候はば,自分指揮に及び,鬱憤を晴らす可きと存じつき,右加茂川河岸火葬場へ出向き候
(その後,一揆勢は直ちに乱入して,あちこちに火を放ったので,隣村は全部焼かれてしまいました。(自分は)前もって説諭してきたが,聞いてもらえず,このような事態に至った。自分の努力が無駄となり,憤懣が強くありました。
翌29日,村の者(一揆勢)は近くの山や谷に身を潜めている(津川原村の)者を捕まえて縛り上げ,加茂河原に引き出して,殺そうという勢いで走り回っているという様子が聞こえてきたので,以前から腹立たしく思っていた(津川原村の)者を殺す時期に際して,自分が指揮をして鬱憤を晴らすことができると考えて,加茂川河岸にある火葬場に出かけました。)
久米蔵の一言が引き金となり,一揆勢は怒濤のように津川原村に襲いかかった。暴徒と化した一揆勢はより過激な行動へと向かう。「奴は敵である。敵は殺せ」という戦争の論理があらゆる残虐な行為でさえも正当化する。
久米蔵は,燃えさかる津川原村をどのような気持ちで眺めていただろうか。
「自分とり計らひも相貫かず,かたがた憤懣まかりあり候」という自白は,彼の正直な気持ちであったと思う。彼もまた一揆勢と同じく部落民への「鬱憤」があった。それは,「兼ねて悪ましき者共」という言葉に表されている。解放令以後の津川原村の「増長」が,彼には許せなかったのである。
そして,彼は「兼ねて悪ましき者共」を殺すことができる機会が来たと思い,自らが「指揮」をしようと河原まで出かけていく。
隣村であり,自分たちの村に従属する枝村である津川原村の人々,顔見知りの者の殺害を指揮するとは,どのような心情だろうか。
旧穢多婦女子七,八名引き据えこれあり,自分目的に致し候者どもは居り合はさざるにより,護送致し候党民どもに対し,この場の進退は自分に相任すべきよう,呼ばはり候ところ,右人名を記し請け取るべき旨,相答え候につき,傍らに居り合はせ候,行重村山口徳蔵へ申しつけ,記させ居るうち,およそ参拾名ばかり相成り候末,
(部落民の女子たちが引き据えられていましたが,自分が目当てにしていた者はいなかったので,護送していた一揆の者たちに対して,この場の処置は自分に任せよと(大声で)呼びかけました。すると,一揆勢は,(捕らえた者たちの)名前を記入せよと言いますので,居合わせた行重村の山口徳蔵に申し付けて記入させていると,およそ30名ばかりになりました。)
現場に着いた久米蔵の目に,捕まって引き据えられてきた津川原村の女子たちは見えたが,自分が殺したいと思う者はいない。
久米蔵は,顔役である自分に「この場の処置」を任せよと言う。
一揆勢は,捕まえた者の名前を明らかにするよう求め,久米蔵は「行重村山口徳蔵」に記入させた。行重村は加茂谷にあるため,津川原村の者たちを見知っていたと考えられる。また,久米蔵が見分して確認したことを書き記したとも考えられる。