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光田健輔論(80) 栄光の光と影(2)

小川正子や神谷美恵子だけでなく、光田健輔を慕う弟子は多い。医師だけでなく、看護師や職員、外部機関に関係する人たちなど職種や所属を問わず幅広い。彼らが光田との思い出を感慨深く綴っている文章を読むと、確かに光田健輔は人を惹き付ける魅力をもった人物であることがわかる。それは、彼らが光田を形容する言葉や、光田とのエピソードの証言などによく表れている。
しかし、それは「諸刃の剣」でもある。前回、神谷美恵子を例に少し述べたが、光田への信望が厚ければ、それだけ“洗脳”されてしまうのだ。

…もし光田先生がおられなかったら、日本の癩者は決して今日のような光明は与えられなかったでしょう。日本の癩者にとって光田先生は神のような人であり、先生ほど癩をよく知っておられる方はないと私は思います。

昭和11年夏に起こった愛生園騒動、それは入園者の一部の者が園長に対して全面的な信頼が出来ず、自分だけに都合よくしたいエゴイストの人びとが他の多くの入園者を煽動し、または強制して暴動を起こしたものでした。偉大な慈父と親しみ尊敬している園長をして、さぞや残念がらせ断腸の思いをさせたことでしょう。そのようなむごい忘恩の仕わざが許されていいでしょうか。園長はまるで聖書にみる使徒の生涯のように、精神的にも肉体的にも苦難を受けられたのでした。でも救癩の聖業にますます熱意を傾けられたのです。尊いというより外に言葉を存じません。私はこういう師を得て、なんと忝けないことかと存じております。

名和千嘉「癩の神様」『光田健輔の思い出』

名和千嘉は大正13年、岡山高女を卒業し、東京女子医専に入学する。同級生に小川正子、林富美子がいる。昭和4年に卒業後、東京本所の賛育会病院に三か年、母校の内科医局に二年勤務し、淡路島の福良に十年間開業。昭和19年7月に、長島愛生園に就任する。

『光田健輔の思い出』は1974(昭和49)年、光田の死去して10年後の発刊である。神谷美恵子の「序文」の日付が昭和48年6月12日となっているから、名和の一文はそれより以前に執筆されたと思われるが、多くの寄稿者の「思い出の記」を集めて編集したとあることから、少なくとも光田の死後である。
名和が長島に勤務したのは「長島事件」から8年後である。つまり、名和は直接に「長島事件」を知らない。事件の顛末など、光田などからの伝聞を真に受けているのだろう。この一文だけでも名和がどれほど光田に心酔していたかがよくわかる。

「長島事件」発生当初、光田は「大阪朝日新聞」の記者に次のように語っている。

どこままでも愛に立脚してゐる建前で、平素から自由を認め弾圧などは一切してゐないのです、患者の大部分のものはよく愛生の精神を知ってゐてくれてゐるが、最近患者数の膨脹でたまたま少数不逞の徒が混じり彼らのわがまゝから起ったことである、

『大阪朝日新聞』、8月15日

光田の回想録『回春病室』では「…政党的な戦術を受けていた患者の指導があって」と左翼思想の患者による煽動と書き、『愛生園日記』では「…警察が手を焼いていたギャングのような金比羅さんのライ部落の住人たちを入園させたこと」と遠因にして、患者が決起した本当の原因をすり替えている。光田による「家族主義」の名の下での定員超過による衣食住の悪化であり、隔離政策への反発であったことを認めようとはしない。

…光田と愛生園当局はこの事件の背後にある隔離の現実への患者の不満を見ようとはせず、ただ事件の全責任を患者の側に押しつけ、患者への弾圧強化をのみ今後の教訓としたのである。
こうした認識は現在でもまだ通用している。…吉川弘文館の「人物叢書」のなかに『光田健輔』が入っている。刊行は1971(昭和46)年、著者は光田門下でやはりハンセン病医療に従事した内田守であり、内田は長島事件当時、愛生園に勤務していて、事件を体験している。…長島事件についての記述も極めて客観性を欠いたものとなっている。…そして「1000人以上いる患者の中には無学な者もおり、あるいは共産主義的な者もいないではなかった」と、暗にそうした患者が事件を起こしたとほのめかす。さらに「患者からの要求は、ほとんど園当局の要求でもあって」などと述べ、事件の結果としての「精神的な美風の損失」を嘆いている。
内田が描きたかったのは、患者の無謀な行為にも関わらず、献身的に努力する光田の姿である。光田はこれほどハンセン病患者のために尽くしているのに、それを理解できない左翼思想にかぶれた患者や、無学な患者が勝手なことをした、内田はそう言いたいのだろう。1971(昭和46)年当時、すでに光田が推進した絶対的隔離政策の誤りは明らかになっている。その時点においてもまだこうした光田像、そして長島事件像が通用していたというのは驚くべきである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

名和も内田も、光田の「言い分」そのままの記述である。光田という偉大な師の呪縛から抜け出ることができないのだ。あるいは「長島事件」そのものを客観的に考察する気が無いのだろう。つまり、患者の治療は行うが、患者を苦しめている元凶であるハンセン病政策については興味も関心もなく、関知することではないと思っていたのかもしれない。

このような無関心も問題ではあるが、誤った事実認識のままで発言・発表されると、それが拡散されてしまう。光田擁護の根拠ともなり得る。事件から何年も経って、このような誤認がさも真実であったかのように、事実、内田守の『光田健輔』においては「長島事件の真相」と題した項目で書かれているように、偽りが事実(真相)として人々に伝わり、年月が過ぎて「真実」化していくことが恐ろしい。
また、光田の言葉を鵜呑みにした医官や職員が感情的になって患者に接した事実があるが、これも「光田イズム」の反動である。権威・権力の高慢さは弱者の生殺与奪をもつ典型である。


同書には、名和千嘉の「思い出の記」がもう一編収録されている。

昭和三十三年七月一日。愛生園の中央の目ぬきの地に、光田先生の胸像ができて除幕式が行われた。…その除幕式において、光田先生は普段とは打って変わって、好々爺どころか、おそろしいほどの意気込みで獅々吼されたのだった。胸像の前には来賓、職員、入園者と二重三重に集まっている。その群衆を前にしてである。
はじめ先生は入園者の方を向いて、こんなことを言われた。「私は皆さんに対して大変わるいことをして来たようです。私は皆さんをこゝへ無理に連れて来たようでした。そして、ここからは出さない。皆さんがいう強制の入園をさせ続けたようでした。」聞いていた人々は一瞬ハット息を呑んだようでしたが、次に出た言葉はさらに意表をついたものでした。
「近頃は何も分からないで社会復帰、社会復帰と猫も杓子もお題目のように言っているが、私はこれに絶対に賛成するわけにはいかない。もし皆さんがどうしても愛生園を出て社会復帰するというのならば、先ず私を倒して私の骸の上を乗りこえて行け!」。と、あたりの空気をゆり動かすような大声で怒鳴った。満場はざわめいた。
…M氏が、腕を拱いて唸るように言った言葉を私は聞いてしまった。
「ふーむ、なんだかおっかない雰囲気になったな。しかし愛生園はこれから変わって行くだろうなあ」。
光田先生のお気持ちも、M氏のつぶやきも、私には何故かわかるような気がした。一徹の信念も逆らいきれぬ、時の流れの音をざわめきの彼方に私の耳は捉えていて、たゞ無性に目頭があつくなるのであった。

名和千嘉「胸像除幕式での一喝」『光田健輔の思い出』

同じ人物の書いた「思い出の記」である。名和の光田に対する敬愛の気持ちは揺るぐことはないが、もはや光田の時代は終わったと痛感したのだ。それは光田も感じていたのではないだろうか。
だが、それでも「遅い。遅すぎた」と思わざるを得ない。

「一徹の信念」は苔生した思想である「光田イズム」に他ならない。にもかかわらず、尚も絶対隔離に執着する光田を諭す者がいなかったことが、光田本人にとっても、日本のハンセン病医療にとっても取り返しのつかない悲劇を生んだ。いつしか光田は、本人が意図していなくとも、独裁者となっていた。もしくは「裸の王様」となっていた。名和の一文がその事実を明らかにしてしまった。奇しくも自ら滑稽なる老醜を晒してしまったのだ。
前年(1957年)に愛生園を退任した後は、ハンセン病医療の一線から退いて余生を送るべきであった。本人もそのつもりで後進に道を譲ったのだろうが、なお権威を振りかざして時代に逆行しようとする姿は見苦しくさえある。

先ほどの「長島事件」でも取り上げた内田守は、「胸像除幕式」に同席しており、著書『光田健輔』の中で、この光田の「一喝」を「この頃まだ病気が充分治っていないのに、無理に病院を出たいと云うものが居るようだが、そんな人は私の胸像を壊してから出ていって貰いたい」と書いている。名和とは幾分ニュアンスが柔らかくなっているし、愛生園が「病院」となり、「病気が充分治っていない」と読者が納得するだろう表現になっている。姑息さを感じる。
そして、「その時の感謝の挨拶が振っていた」と書いているが、「振っていた」とはどういう意味だろうか。続けて、「実に飽くまでも徹底しなければ承知の出来ない人であった」と評している。光田の傲慢さ、頑迷さを称賛しているのだろうのか。

名和や内田こそ、医師であり、「救らい」を志しているのなら、「時の流れ」に対応して、光田の誤ちを糾すべきではなかったのか。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。