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【75,260文字】能登半島地震で恥骨坐骨骨折。怪我はしない方が絶対に良い。

1年が経ち、いろんなことが変わった。被災者という言葉は使いたくなくてタイトルを変更しました。(2024/12/29)

【前置き】

私の身に起きたこと。長い長い独り言。
2024年1月1日の16時頃、私はここにいました。
写真左の植木側に頭、下半身は瓦屋根の下。
この写真を撮ってくれたのは妹かな。父かな。
何が起こっているかわからなかったけれど自分が見ていたものは覚えている。
それをここに置いていく。
楽しい話はない。緊急時に役立つ知識もここにはない。
憂いの篩のようにしんどい記憶を頭から引き出したいだけ。
出して泳がせれば何か変わるのかなという淡い期待。
自分で書き出した文量の多さに混乱する。脳内を走り回る言葉が多い。20,000字を超えたあたりからシンプルに、簡潔にということを諦めた。
何を書いているか自分でもよくわからなくなっているので、目を通す際は宇宙のように広い心を用意してください。
これ以上何かを書くことはないのでひとつの記事にしています。
いろんな場所で作品やキャラクター、アーティストの固有名詞が出てくる。そういったものに日々励まされて生きているオタクのひとり。


01.適切に処理を進めていきたい(前置きパート2)

脳から取り外してしまいたい記憶と忘れたくないぬくもり。
記憶を外付けハードディスクに移せたら楽になる部分もあるかもしれない。俯瞰して見ることができるかもしれない。大容量になったこの記憶は処理に時間がかかったとしても頭から消してしまった方が生きやすいかな。
でも、大切にしたいこともある。難しい、難しい。幸も不幸もきっかけは地震なのだ。怖かったから始まる。そして地震で失ったものはまだそのままだ。少しずつ前に進んでいる。そう思いたいが、家の全壊、車もダメになった。その他いろいろ、生活すべて。これからを思うと整理ができない。やっていくことがたくさんだ。同じ場所、同じ環境でこれまでの当たり前はできない。
12月31日と1月1日、新しい年を迎えるけれど、地続きの1日だ。昨日と今日、今日と明日。それに過ぎない。やっていくことは変わらない。そう思っていた。だが、現実は違う。大きな怪物によって噛み千切られたかのように昨日と今日が引き離された。2023年と2024年を繋ぎ止められない。縫い合わせようとしても向こうが見当たらない。片手に残る現実。途方に暮れる。
引き裂かれたこれまでと今。それでも今を生き続けてきた。
今が少しずつカタチを変えてきている。1月1日という、たくさんのものを失い残った片手より小さな端切れに足し加えてきた時間。均衡がとれたものではなく継ぎ接ぎだらけのものではあるが、それでもあの日から途切れることなく今日を迎えている。見栄えの良いものばかりではないため「よくやった」と誇れるカタチではないものの隙間がないことは安心する。捨てたいものはあるがそれは自分の意志で捨てたい。いつの間にか落としてしまったと後になって後悔するのは嫌だ。それがないよう昨日と今日をしっかりと縫い合わせなければ。

ひとつのことを中心にして広がっていくたくさんの感情。
嬉しいこと、嬉しくないこと。いるもの、いらないもの。
絶望の淵に立たされたと嘆く悲劇のヒロインにはなれない。結末はまだ迎えていない。終わったと感じた日から今日まで生きている。
私の推し「ハイキュー」木葉秋紀のプレースタイルイメージは「万花」だ。多くの花。たくさんの花。これを私はバレーボールに必要なすべてを種とし、腐らせることなく、水をやり、栄養を与え育んできたと解釈した。小さな花、大きな花、どれにも愛情を注ぎ、花を咲かせることができる世界で1番かっこいい人が木葉秋紀だと私は思っている。
木葉秋紀のプレースタイルイメージが「万花」と知るまでこの人の強さはどういう風に培ったものかとずっと気になっていた。「万花」と知ったとき、その美しさにひれ伏した。完結している作品だ。新しい情報を得られると思っていなかった。作品の主要人物ではないから、という理由もある。それなのに私の大好きな人はそこにいた。これまでもずっと好きだったけど、これからも彼への好きは止まることがないと悟った。ものすごい熱量の好きのアップデートである。
話を戻す。私を取り巻く環境は絶望だっただろう。立つことすらままならない自分。あの日から歩みを止めることなく、ずっと前向きに進んできたとは言えない。現に歩く練習を始めたのがもう2月という頃だった。1ヶ月、自分の足で踏み出す一歩は出せなかった。
動けない私、1月1日から止まったままの私。そんな私は与えられたぬくもりを種として受け取り、その種を育て上げ花を咲かせると誓うことでどうにかやってこれた。世界で1番かっこいい推しがバレーボールをするときに大切にしてきたことをバレーボールをしない私なりに大切にする方法がそれだった。受け取ったやさしさを自分なりに育てて花を咲かせる。私に向けられたあの笑顔が咲かせたい花の理想。
けれど、世話の仕方がわからなくなる。記憶を捨てることは難しいのにあたたかいと感じたあの心地よいぬくもりはどんどん遠くなっていく気がする。土の中で枯れてしまう。芽もまだ出ていない。あのやさしさを忘れてしまうことが怖い。喜びを大切にできた素直な心が少しずつ濁っていく感覚。もともとの気質の超ネガティブが喜びを消していく。大きな汚い感情で清らかな思い出を覆い尽くしてしまいそうだ。
何もかも変わってしまったと振り出しに戻る。土を踏み荒らしてしまうような乱暴な感情が暴れ出す。これからのことを考えると思考が急に働かなくなる。何かが警鐘を鳴らすようにうるさくなり脳内が渋滞を起こす。詰まるだけで動かない。焦り。何も進んでいない。顔だけあげたとして前は見えているのだろうか。視界が霞む。愛しい景色は思い出を振り返ることでしか辿れない。
何かを愛しいと思う気持ちと考えるのが嫌だから私ごとこのまま廃棄してくれないかと思う気持ちを行ったり来たりしている。
重心が暗い方だけに傾かないように、笑顔が咲くひだまりの場所へと顔を向ける。

02.最初の恐怖すら昨日のことのように覚えている(2022年6月の地震)

ここ数年大きな地震を何度も経験した。
2022年の震度6弱のときは母親と家にいた。
2階の自室にいてヘッドフォンで音楽を聞いていたときのこと。
聞こえてくるまわりの音がいつもと違うので慌ててヘッドフォンを外す。現状を把握しなければ。
震度5程度の地震は揺れると怖いけどまあそんなもんかで終わらせていたが、このときは違った。
ただの地震じゃない。
窓ガラスがガチャガチャと音を立てている。虫が入ってこないようにぴったりと隙間なく合わせてある網戸が大きくずれてクリアな外が見える。窓もどんどんずれて外と繋がっていく。窓、網戸という虫から家を守る境界が揺れの力で破壊される。
そんなことある?脳に疑問が浮かぶ。
横に揺れる力なのか?縦から圧力がかかっているのか?
縦の強い力に窓ガラスが屈したことを想像する。頭に過るのは窓ガラスが破損して飛び散る状況。幼少の頃に読んだ戦争を描いた漫画ではガラス片が身体中に刺さって苦しんでいるそんな描写あった。
それを思い出す。怖い。怪我をしたくない。
そんな思いから階段を駆け降りる。間に合え。
1階にいた母親も地震の大きさに驚き避難をしようとしていた。
合流して外に逃げ、家から少し距離をとって揺れが収まるのを待った。
この時点で地震の規模はわかっていない。
揺れが収まってから、家の中へと戻りテレビをつけて情報を待つ。
「震度6弱」を報じるアナウンサーの速報を聞きながら母親と顔を合わせる。「震度6弱」、ここで何が起きた?
大きな地震が起こるたびに津波を考える。
祖父母宅は絶対に津波が来るという場所にある。
津波はないと知れるまで足はガタガタと震えている。
祖父母は避難できるのか、命が間に合うことを祈るしかできない。
津波はないと知れてそこでひとつほっとできた。
そうして次の不安がやってくる。強い地震に備えるという習慣はどの程度の危機意識を持っていればいいのだろうか。私達はこれからどうすべきなのか。わからなかった。
もし、水道が止まったら、もし、電気が止まったら、いろんなことを考える必要がある。それでも今起きていることに向き合わなくてはならない。備えを考えるのは今じゃないだろう。
報道ではあまり大きな被害が出ていないようだとインタビューを受けている市長が映っていた気がする。
地震の後はいつもだいたいひとりになり、頼りない心が恐怖に屈して集中が続かない。
父は消防団に入っていて街の見回りに行く。母は祖父母宅で高齢になった祖父母をサポートする。
小心者で地震にびびり散らかす私は家の片付けをなんとなくする。
この地震でボイラーの水道管が破損してしまい、洗濯機がある場所がびしょびしょになった。浴室でお湯を出せないため、ながしのガス給湯器から洗面器やバケツでお湯を運んで髪を洗い体を洗った。ザバッとかぶるくらいならバケツ2杯でどうにかなるかもしれないと思ったがそのときは気分が高揚している部分はあったと思う。
翌日からは少し冷静になってこの地震について考えていた。普段通りのいくつかが欠けることが怖い。大切にしたいものを大切にしたい。いつも通りがいい。その日に震度5くらいの地震で玄関外にあった土壁が剥がれ落ちた。
少しずつ家が弱っていっていることを知った。タイムリミットが遠くない未来にあるかもしれない。嫌な予感。絶対に来てほしくない未来。
実害は出ているように思うがあまり大きな被害はないという認識で大丈夫なのだろうか。
家が古くなっているからたまたま被害があるだけなのだろうか。わからない。

この地震で震度6以上の恐怖を知った。
揺れの大きさでいつもと違うとはっきりわかった。
寝転がったまま「揺れてるな〜」なんてスマホを眺めていることはできない。
避難しなくてはと危機を察知する揺れだった。
そして揺れが起こすまわりの音もまったく違った。
この音が何よりも怖いと感じる。視界は目を瞑れば見なくて済むということがあるが、音は耳を手で塞いだところであまり変わらない。
音から逃げたかった。逃げた先で安心できるかわからないけど、居ても立っても居られないという気持ちをどうにかするために外へと走ることが私の精神を安定させる行動だった。
この地震からヘッドフォンで音楽を聴くという私の最も幸福な時間にストレスを感じるようになった。まわりの音が聞こえなくなるのが怖い。音楽で心のすべてを満たすことができない。逃げ遅れたらと考えてしまう。
それでもこの震度6弱を知る前は地震の音が聞こえないことで恐怖を和らげる効能をヘッドフォンで感じていた。恐怖で動けないを回避して、地震後にクリアな思考で行動できるという自分を守る対策。
眠れない夜、家族が不在の日だったと思う。ヘッドフォンで音を楽しむ時間を過ごしているときに地震が起きた。いつもならドキドキで心を整える時間が必要だが、音楽を聞いていたことでまわりの音に鈍感になり恐怖はなく、家族や叔母からの「大丈夫か」という連絡に「全く問題ない」と返していたと思う。文字通り全く問題なかったのだ。
私は耳からの情報で物事を処理することが多いんだと思う。
良いことも悪いことも音でまず判断する。
この震度6弱のいつもとは違う大きな恐怖を忘れることができず、心を休めるために使っていたヘッドフォンと少し距離を置いた。
ヘッドフォンから離れている時間で音楽を楽しめないストレスが積み重なっていく。
この苦しい時期をどうやって過ごしたのか覚えていないが、また音楽を楽しめるようになったのは冬の始まりくらいだったと思う。大好きな時間が苦手になるのは辛い。
これで終わってほしいと願うが、専門家たちはそうでないと言う。
それがまたなんとなくの不安を常に抱いている不安定さに繋がっている。物を片付け終えても終わらせることができない感情の処理。

非常持出袋の他に自分の持ち出し用として、最低限の着替え、ティッシュ、タオル、生理用品、飲んでいる薬の処方箋、数日分の薬、飲料、非常食を鞄に入れて玄関に置いてある。自室には足を怪我しないようにと靴が置いてある。靴を履けなくても持ち出せるよう靴を入れられる大きな袋も準備している。そして後から履けばいいからと靴下も丸めて横に置いてある。10年ほど前から時々見直し、備えとして準備しているものだ。
それに加え備蓄の水を購入した。なんとなく買い置きしているペットボトルの飲料だけでは足りないと思ったからだ。十分な備えに答えはあるのだろうか。

03.二度目を振り返る(2023年5月の地震)

2023年の震度6強は1人で家にいた。心細かった。
このときも窓ガラスがガチャガチャと鳴り、それに加え壁に飾ってある写真などが床に落ちる音がした。「前よりでかい」そう確信した。家がぐちゃぐちゃになり、逃げ道が塞がれる前に外に避難しなくてはと走った。
外に逃げたら家がぐらぐらと揺れているのを目の当たりにした。
こんな大きなものがこんなにも激しく揺れるのかと目を背けたい気もしたが目を離すことはできなかった。
揺れが収まり、恐怖から落ち着かない心をどう処理するか考えている間に近隣住民が津波を警戒して指定避難場所へと集まってくる。
私の家はその途中にある。ご近所さんと話すことで少し恐怖が和らいだ。
家へと戻った。帰省していた叔母から連絡が入っていたことに気が付き、折り返す。
叔母は恐怖で泣いていたし、祖父母宅はこの地震で傾いてしまった。家が崩れていくのを見るしかできない時間は怖かっただろうと思う。そこに住む人はもういない。いつかは解体する。時間をかけて片付けをしていくと思っていたのに急にそれが迫る。猶予がないのか。明かりがつかなくなったあの家にまだ慣れない。玄関戸を叩いて祖母を呼べなくなった現実にまだ慣れない。

家族が帰ってくるまで地震の被害状況を確認したが確認しただけで片付けをできなかった。
灯油のタンクは破損していないし、プロパンガスもちゃんと立っている。家の基礎もヒビが入ったように見えるがまだちゃんとしている。トイレの壁は亀裂が入った。昨年の地震で落ちた土壁の反対側の土壁が剥がれ落ちている。
いろいろ破損はしているが、電気、水道に問題はなさそう。いつも通りの生活はできそうだ。
テレビで情報をなんとなく見ながら、取材のヘリコプターが空を飛んでいるのを聞いている。
どこか遠いところの話のようでここで起きている現実を受け入れられない。2回目を受け入れられない気持ちがある。それに加え地震の規模は大きくなったこと。今後の想定に最悪のパターンがあること。
よくわからないまま時間だけが過ぎていった。
家族が帰ってきてからは現状の報告をしてその日の最低限だけをした。叔母の場所へは母と妹が行って片付けをした。
なんとなく自室で眠ることが怖く、家族で1階に布団を広げて眠った。
大きな揺れ、小さな揺れが途絶えることがない夜だった。
それでもどこかのタイミングで眠ることができた。
夜、安心させるためと横で寝付こうとしている甥に向ける顔は笑顔にした。
朝になり目を開けたら昨日の私がしたように口をにーっと横に広げて笑う甥が目の前にいた。顔と顔の距離は20cmもないだろう。同じ枕に頭を乗せている。ピントがちょっと合わない。だが、かわいい。
迎えられた朝に安心する。帰省していた家族を送り出した。

生活に直接繋がることは早々に片付けたが、それ以外のものは「またか」という気持ち、「次もある」という不安から手を付けられないでいた。
この地震が起きてから家にある様々なものを処分した。
地震で崩れては片付けてまた地震で崩れる。この繰り返しをもう何年もしている気がするねという話から、不要なものは処分してしまおうと決めた。
いらないと決めたけれど、いざ処分しようとすると捨てられないものがたくさんあって感情の整理が追いつかない。
片付けに必要な時間、労力も足りない。満足のいく片付けなどない。家をからっぽにすれば良いのか?わからない。
まだ持っててもいいだろうと手から離せなかったものは残っている。
もちろんこの地震の後も私はヘッドフォンで音楽を楽しむことができなくなった。

04.耳に残る崩壊の音(2024年1月1日能登半島地震)

2024年1月1日、能登半島で大きな地震が発生した。 
最初の揺れはまあいつものことだろうと思いながらも家族の声がするところへ行った。安心したかった。
揺れが収まったのでいつも通り、被害の確認のため家の見回りをする。
今日はお正月だ。楽しみにしていることがまだまだある。
片付けが終わったらみんなでごはんを食べる、楽しい予定にわくわくしていた。
妹が「うまい!」と顔をほころばせながら食事をするのを見ていたい。残りのおかずとごはんを交互に見ながら満足のいく食事の終わりを考える妹を見て笑いたい。
ちょっと揺れたりはしたけれどそんないつもに繋がっていくと信じていた。
まずは自室がある2階から確認、物は落ちているけれど家の破損はないように思った。 
家の強度を少しでも上げるため、部屋の戸を閉めてまわっていたところ、2回目の大きな地震が始まる。
轟音。最初の揺れでわかってしまった。何かがおかしい。すべてが違う。
少し自室で待機したけれど、窓がガチャガチャと揺れる恐怖、最悪の状況を考えてしまう恐怖、この恐怖に居ても立っても居られず、立っていられないほどの揺れを感じながらも外へ逃げることを決めた。
地震が起きたときの避難用に常に置いてある靴を今回も置き去りにして裸足で走る。
部屋を出たら何もかも揺れていた。固定されていると思っている壁も床も柱も階段も。
さっき閉めたはずの戸は開いているし、地震によって発生している音で家族の声も聞こえない。緊急地震速報を知らせるスマホの音すら聞こえない。鍵を締めて固定してあるはずの窓が開いている。ガラスがガチャガチャと音を立てる。家を支える柱が軋む音なのか折れていく音なのかバキバキと鳴っている。
なんとか階段を駆け降り、妹夫婦がながし、母が玄関にいることを確認しながら声をかけるともできずにただ走り、外へ出た。家から放り投げられたように転び、起き上がれない。激しい揺れで立つことが難しい。それでもなんとか立った。
そして振り返れば見たこともないほど激しく揺れる家があった。直線になっているはずの家の輪郭がぼやけている。前後左右、ガタガタ、ぐちゃぐちゃ、バキバキ。なんだこれは。どんどん形を変えてひどく歪んでいく家が目の前にある。崩壊の音がする。
揺れは収まることなく続き、そうしている間に2階部分が1階へと沈む。家の倒壊を目撃してしまった。見たくなかった瞬間だ。
大工をしていた祖父が建てた家だ。大きな地震があるたびにいつかダメになってしまうかもしれないという気持ちを持ちながらも、可愛がってくれた祖父が大切にしたこの家に一生住むというのを大人になってからなんとなく人生の目標としていた。そして家の中には家族が4人いる。いくつかの感情をこの一瞬で一気に失った。
絶望している私に追い打ちをかけるように家の前に建つ2階建ての車庫兼納屋が背後から倒れてくる気配を感じた。
失念していた。倒壊する危険性があるのは家だけじゃない。
潰されると思いながら数メートルを必死で走った。
車庫兼納屋と共に地面に滑るように倒れ、私の下半身には瓦屋根部分と大きな梁が乗った。愛しい家が悪魔のように思う。これまで守られてきたことを忘れて。
揺れはまだ収まらない。瓦屋根の重たさを下半身で受けながら、コンクリートに擦られ続ける。何もできない。ゴリゴリと身を削られている気分だった。大根おろしの大根の気持ちがわかる。削られた身はどこへ行ったかわからないけど体感では地面に面している右半身はなくなったと思った。摩擦で熱い。左の腰にはどっしりと梁が乗っかり、重たい以外の感覚はない。左の重たさと右半身の痛み、揺さぶられ続ける体。さっきまで左右に揺れていると思っていたが倒れたことにより、感覚的に上下に揺さぶられる。口から胃が飛び出しそうと感じる気持ち悪さとそれをものすごく強い力で引き戻される感覚をひたすらに繰り返す。なんだこれ。
流れるように崩れ落ちたのだからこのまま揺れの勢いに身を任せれば何かの拍子でスルッと体がここから抜けるのではと期待もした。そんな簡単に抜け出せる場所ではなかった。骨盤に乗っている梁が腰から下ならまだいいが、腹部にズレたら死ぬと思った。こんな重たいものを骨のない部分で受け止めたら見えるのは「死」だ。間違いない。もう諦めているようで、でも、それでも生きたいと思っているように左手でずっと梁を押し返していた。左手は傷を作り、血が流れていく。痛くて泣くとかできない。歯を食いしばり、ただ耐えるしかない。ただ、願うしかない。終わりが来ることを信じるしかない。
いろんなことに耐えて、いろんなことを願って、それでも終わらない。こんなにしんどいのだからいっそのこと気を失いたいと思ったが、そうはならなかった。なんでや。ホンマになんでやねん。CM挟んでほしい。広告を入れるなら今や。痛みと激しい揺れ、おまけに寒いんやから1回休ませてくれ。冬やぞ。悪い夢だと思いたい。揺れている間にかけていためがねがパキンッと音を立てて外れる。めがねのレンズが破損して刺さったら血が出る。怖い。満身創痍。頭部に物が落ちてきてもそれを防ぐ手すら使えない。左手は出ているが右手は体の下にある。瓦屋根の重みに勝る筋力がなければこのまま圧し潰されたままだ。早く終われ。終わらないなら気を失いたい。そう願ったが目は冴えていた。全部覚えている。

やっとのことで揺れが収まった私が1番に思ったこと「終わった」
「家が崩れた、家族が家の中にいる、終わった」「これだけの被害を受けた街はどうなってる、終わった」「友人たちは帰省してるんだっけ、みんなとみんなの家族はどうだろう、いやでもこんなに揺れたんだ、終わった」その他いろんなことに諦めをつけていた。
この惨状で希望なんて持てない。
ひとつだけよかったとするならば姉家族が帰省をしていなかったことだ。
植木があるところと庭との高さのある境界はコンクリートで固められており、私は下半身を瓦屋根で下から押し上げられ、肩から下はコンクリートの壁で押さえ付けられるようにしてそこにいた。
上半身が上下からぎゅっと圧縮されているような感覚、息があんまり入らない、声を出す息が吸えない。
玄関で家屋の下敷きになった母親の私を心配する声と「助けて」とまわりに助けを求める声が聞こえる。母の生きるエネルギーがすごい。完全にこの事態にびびり散らかしている私は何もできずにそこにいた。怖いと何もできなくなる。
まあ、ゆっくり自分を観察するかと自分の状態を把握することをやってみる。左手しか動かせなかったが左手が血だらけでボロボロになってる。使えない。ハァ、ダメじゃん。何回目かの諦め。こんなに赤く染まる手を初めて見た。血がブシャッと出るアニメやドラマは目を閉じて見るタイプ。そもそもあまりドラマを見ない。ひぇ。そういえば年末にやっていた「必殺仕事人」を見る予定だったな。まだ見てない。
ってか、今日お正月でしょ?
録画してあった紅白を見て楽しんだ午後のひとときまでが私の正月だったのか。
午前中はあんスタのカウントダウンを何回も見て遊んだ。
ステージ後方から友也くんの後ろ姿と友也くんの背中越しから見えるたくさんの揺れるペンライトを眺める絶景を思い出す。こんなにたくさんのお客さんの前に立っている友也くんを見るたびに心が嬉しさでいっぱいになる。友也くん、お客さんたくさんいるよ。
…あー、もう見れないのか。よくないけどよかった。友也くんへの心残りはない。立派なアイドルだ。
紅白楽しかったな。コラボしてるときのチャンビン氏を覚えてる。素敵な笑顔だった。Queenを見れてよかった。魂に刻まれたQueenの音が今のメンバーの音でさらに磨かれていく。明希様と海くんがテレビで演奏しているのを見れて興奮した。
これは走馬灯なのか?それにしては今日の振り返りでしかない。それにとてもゆっくりだ。もう何時間もここにいるような気がする。駆け抜けるような速さで巡る記憶はない。ゆっくり、確実に終焉へと向かっている気がする。そんな気がする。息をすることしかできないが、その呼吸だってどんなに頑張ってもか細い空気しか入らない。

正月で帰省していた近所の方がこの悲惨な街の様子を見るために一度通っていった。「ごめん、どうすることもできない」と声をかけられ、私は頷いてその人を見送った。そりゃそうだ。瓦屋根を掛け布団のようにして上半身だけが出ている人間だ。重たい物を人力でどこまでやれる?どこまで責任を持てる?私もそう思う。納得できる選択だ。
私はここまでだろうと思った。無理矢理空を見上げて青さに少し穏やかな気持ちになる。最期くらいは好きなものを見ていたい。良い天気だ。梁は重たいけど下半身に痛みはない。もう歩けないかもしれない。
でもきっと今日が命日だと思うと歩けなくてもいいやと思える。
こんなに天気のいい正月もあまりないだろうと大好きな青色が広がる空をずっと見ていた。

私はそうやってすべてを諦めて息だけをかろうじてしている時間をどれくらい過ごしたのだろう。わからない。

わからないけど、父が倒壊した家屋からほぼ無傷で這い出てきた。「大丈夫か?」「どこや?」と父の大きな声がする。返事はできない。声を出す息が肺に入らない。
父はどこにいた?どこからでてきた?父は生きている??
止まってもいいと思っていた時間が急に動き出した。

倒壊していく家を見ていたとき家族を諦めた心があった。
しかし、父は生きていた。驚きと混乱。嬉しい気持ちはまだ抱けない。事実を確認。受け入れる。それが精一杯だ。

そうしている間に父が私を見つけてくれた。
父が最初に私にかけた言葉は「ごめん」だった。
今にも泣き出しそうな父を見た。泣かないでほしい。泣く必要なんてない。謝ることもない。
この状態になっているのは私がした選択が招いた結果だ。
正しい安全行動ができていれば違ったのだろう。それでも私はこうすることで自分の心が暴れ馬となり手を付けられなくなることを防いだ。そしてこうなった。
脳内の言葉は止まることはないが、会話はできない。
首を振るくらいしかできない。
私の思考は止まらないが父も行動と思考、選択を止めない。私を押さえ付ける瓦を父が素手でどんどん外す。力の入る作業だろう。素手だ。痛みもあるだろうけど父は止めない。
いつのまにか一度見送った近所の方も戻ってきて助けてくれている。
素早く梁を切り落とせるようなチェーンソーはあるのに家屋の下敷きになって取り出せないと嘆く父、早く出したいのにという焦りもあったと思う。
こんな状況だ。準備が整っているわけはない。人力しかない。作業効率を上げるような道具はない。
瓦を一枚外すごとに私の体は楽になった。
「楽になってきたよ」とそんな声を父にかける余裕はまだなく、協力して救出作業に取り掛かりながらも思うように捗らないと嘆く悲痛な叫びを聞いていた。
私の上にある瓦がほとんど外れたときは息が吸えるようになっていて、手を使って踏ん張る力が戻ってきた。そこで私はようやく足が動かせないことと、手は使えるから梁を持ち上げてほしいと伝えた。血だらけの左手だが、物を掴むなどの指は動かせなくとも体を支えるために手のひらで地面を押すくらいはできると思ったからだ。
そこから父や近所の方に梁を少しだけ持ち上げてもらい、手で地面を押して体を起こしてずりずりと這い上がり、そして3人目の救助人に脇を支えてもらって私は無事に救出された。
何人の人が私を助けてくれたのかわからなかったが人が増えている。

救出中は「頑張れ!」とずっと声をかけてもらっていた。
みんなが「頑張れ」と言ってくれる。
私から見たら頑張っているのはみなさんであると思ったが、「頑張れ」という言葉は力になると知った。
いつからか「頑張れ」をものすごくプレッシャーに感じるようになり、言われることも言うことも苦手になっていたが、私が勝手に作った「頑張れ」という言葉とのわだかまりはここで解消された。

父から妹夫婦は家屋の下敷きだけど安全な場所にいて怪我はしていないだろうと聞いた。
そうして父や男性陣は母の救出へと向かった。一刻を争う時間は続いている。母の声は絶えず聞こえていた。

私は植え込みのところに横たわり、足首から下はなんとなく動くけれど、座ることができないことを確認していた。
これはなんていう怪我なのだろう。力が入らない以外は特に何もなかった。
ずりずりゴリゴリと地面に擦られ続けたせいで私は履いていたズボン、ももひきが半分脱げており、下着はコンクリートに擦られて穴があいていた。大問題である。見た目がひどい。そして寒い。それでも自分で服をあげることすらできなかった。肌が見えるのは右の太ももくらいだが、警察に逮捕されると思っていた。人が通るたびに思った。「すみません、こんな格好ですみません」ほとんどの人が怪我をせずに避難しているように思う。家は倒れたけどもしかしたら自分の家だけかもしれない。もしかしたら夜はいつものような日常に戻るのかもしれない。誰かが今の私を見て不快だと通報したら私に弁明する余地はない。まずい。緊急時だから許されてほしいと切に願う。警察か病院どっちが先だとそんなことも考えた。

救助してくれた近所の方が「大丈夫か?」と声をかけてくれる。「寒い、服を着させてほしい、喉が渇いた」そんなことを言ってしまう。わがままな人間だ。寒い、喉が渇くはみんな一緒だ、困らせるだけだと己の言葉を恥じたが、上着をかけてくれペットボトルの飲料をくれた。
この飲料は私の心を支えてくれる生命の水となった。
そして女性に声をかけて服を直してあげてと言ってくれる。「ありがとうございます」と言えていただろうか。わからない。
ズボンを上げてもらうことすら耐えられない体だった。少しの動きで体の力は抜けていく。姿勢を保持することがまったくできない。それでもなんとか衣服を整えてもらった。ひと安心だ。
そう考えている間にまた人が増えてくる。私の住んでいる家の上に津波の指定避難場所がある。大きな地震の後はみんなここを通っていく。見知った顔が集まってくる。
「中に何人おる?」との声に私は大きな声を出せず「3」と指で示す。
すぐに救出に取り掛かってくれた。
人手が増えたからこれからの案がどんどん出てくる。
私は植え込みに横たわっていたが、破損した戸の上に乗せてもらい担架代わりしてそこで休ませてもらっていた。
「これ使って」と誰かから掛け布団をもらった。
気温が低くて寒いのか、出血により冷えて寒いのかよくわからないけれどずっと寒かった。

母親も無事に救出された。母も体を痛めていた。
私の無事を知ってほっとできたような顔をしていた。
妹夫婦は待機時間が長かっただろうけれどすぐに出てきた。
妹は走って泣きながら私のところへ来てくれた。
「痛いとこない?」といっぱい声をかけてくれる。
左手を見せたらもっと泣き出してしまったけれど、「足はなんか動かんけど、痛いとこはそんなにないよ」当時の私の状態を伝えた。見栄を張ることもなく、大袈裟でもなく、それがすべてだった。
泣き叫ぶような痛みはない。吐き気やめまいなどの気持ち悪さもない。
私の右手を両手でぎゅっと握ってくれる。妹の手はものすごくあたたかかった。

父が私を呼ぶ声を身動きが取れない中でずっと聞いていた妹はどれくらい私を憂いただろう。私の返事がなかったこともさらに心配を増やす要因になっただろうと思う。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。怖かっただろう。
次にまた揺れたら自分も潰される可能性もある不安な状況の中、妹の隣で妹を支えて続けてくれた妹の夫には感謝が尽きない。
妹、ごめん。というか家族みんなにごめんと言いたい。家族だけじゃないこにいる人みんなに謝りたい。そんな気持ちを腹に抱えながらただ横になっていた。ごめんと言えない。ありがとうも言えない。自分の状態がわからないから、何を言えばいいのかわからない。消耗していく体を感じている。

これから何をするか何ができないかまったくわからなかったが、家族みんなの命は無事だった。こんなにぐちゃぐちゃになっても助かるんだと不思議な気分を味わった。空は雲が広がって白くなっている。孤独の時間の青は心の拠り所となっていたが、家族の安全を知った今は曇りになっても大丈夫。また青に助けてもらったとひとり思っていた。
「青系の色」は自分が好きな色というのに加えて、推しであるキャラクターの所属するユニットの色だったり、キャラクター自身を表す色だったりする。好きだと思うことで何度も自分の心を元気にしてもらってきた。根強い青系の色への恩がある。

父は救急へ連絡したらしいがその日には来なかった。
担架代わりの戸に乗せられて私は高台へと移動させてもらった。
そこには避難してきた近所の人たちがたくさんいた。
馴染みのある声がする。みんな生きている。よかったと心から思った。
大好きな人たちの笑顔を失っていない。横になっていることしかできないので常々お世話になっている近所のみなさんの顔を見ることはできなかったが、声を聞いて安心した。

05.眠れない夜に抱く明日への期待(避難場所でのできごと)

私達は避難所として指定されていない場所で夜を明かすことになる。まず当時の状況としてまったく情報がなかった。地震の大きさも震源もわからなかった。
父が歩いて手に入れてきた情報によると津波があったこと、高いところにある避難所にいろんな地区の人が集まっていて外に人が溢れていること、焚火を焚いて暖を取っている避難所もあること、そして火災が発生していること、街はほぼ全滅であると知った。
確かに暗がりにぼやけて見える炎の色が見えた。不気味だ。炎が薄暗く空を照らしているようだった。希望の灯火とはまったく違う。この灯りを頼りにしても先にあるのは絶望だ。暗闇の中に見えるただひとつの色は街を襲う妖怪のように思えた。

何時間ぶりにかに見た父は私の顔を見て「顔色が戻ったな、よかった」と声をかけてくれた。私はそんな悪い顔色をしていたのかという驚き、こんな窮地でも回復しようとしている自分の身体への驚き、びっくり✕びっくりはそのときの私には=安心を導いてくれた。
体力は消耗して体は弱っていくように感じているけれど回復しようと細胞が頑張っている。

「朝になって明るくなれば状況は変わってくるだろう」と口々にみんなが言う。祈るように夜明けに希望を抱いて朝を待つことになった。

高齢者、子供、女性、小さな子供の父親、ペットが体を休めるのに屋内を使わせてもらい、男性陣は薪を割りながら焚火を焚いて外で体を休めていた。
時折、談笑の声が外から聞こえてくる。笑っている声を聞くのは好きだ。
パキパキッと燃える薪の音を癒やし系の動画で見ることがたまにあるが、私はこの音をとても心地よいと思っている。今回もそうだった。不規則に聞こえてくる薪の燃える音、いい音だった。薪を割る音も綺麗だった。緊張している心もあるけれど心の一部分は休まる。

絶えず続く地震。石油ストーブを炊いているが寒い屋内。
大きな地震があるたびに少し離れたところで休んでいる妹が大丈夫かと声をかけてくれる。
会話の間に地震があると妹が覆い被さって私を守るようにしてくれた。
妹も怖いだろうにと思うけれど私はこれがありがたかった。
大切に思ってくれていることを全身で感じとっていた。
私は妹がかわいくてとても大切に思っているが家族を大切にする気持ちは互いに変わらないのだなと。祖父母や祖父母のきょうだい、両親、叔父叔母などたくさんの大人に見守られて育まれたもの。それを大人になっても大切にしていくという気持ちの持ち方は常に持っていたい。見守ってくれた大人たちを見送るたびにこの思いは強くなる。思い出の中で我々に向けられた笑顔に誓うようにそう思う。家族、姉妹の繋がりを大切にしたい。妹もそう思う気持ちがあるのかもしれない。
気持ちは重ため、抱く思いは強い。向ける気持ちは一方的で良いと思っていたのだが、そうではないようだ。繋がる想いをここに感じる。

災害発生から何時間経っただろう。
地震が発生する直前の私はトイレに行きたかった。スマホを触り、いい区切りのときにトイレに行くはずだった。トイレに行くのはいつでも良いという当たり前の中で限界が来る前にトイレに行き排泄するはずだった。膀胱の容量としては最大容量に近いところにいた。いろいろあるうちに尿意がわからなくなった。だが、出さねば体の調子が悪くなるかもしれない。これ以上心配事を増やしたくない。
歩ける人は外で用を足すと決まったいう話になった。歩ける人は、だ。
私はどうだ。歩けるどころか座ることもできない。排泄という問題にぶち当たる。私はこれから枯渇していくであろう大事な資源の使い捨てのトイレを使わせてもらった。
いざ、トイレ。体を起こすだけで体に痛みが走る。起きるのも前後左右4人ほどの援助がいる。体に意思が伝わらない。思うように体が動かせない。座ることができないが座るしかない。嘘だろ。今日の日中まで私は体を自由に使えたんだぞ。あの揺れの中を走った足腰がまったく役に立たない。左足に力が入らない。右側に体重をかければなんとか座れる。それでもか弱く、上半身を妹に支えてもらい、寄っかかることで姿勢を維持した。
布で囲ってもらっているが多数の人がいる中で排泄。排泄が難しい。出ない。あるのに出ない。難しい。支えてくれた母、妹、近所のお姉さんたち、みんなが私のために時間を使ってくれた。1回目は出すことができなかった。2回目の挑戦で出すことができた。排泄のために2時間くらい費やしたと思う。申し訳ない。
しばらくは大丈夫だろうとまた横になる。排泄の出す出せないの他にもうひとつ課題があった。右の太もも、骨盤が大きな擦り傷になっている。出血は止まり、滲出液がだらだらと出ている。これがももひき、下着に貼り付いており、ズボンを下ろすたびにこれを剥がす作業が必要にだった。痛い。とても痛い。涙が出そうになる。目尻に涙が浮かぶ。情けない。音を立てられないので静かにするしかない。何をするにもスムーズに行えない自分が情けない。排泄のたびに私はこの拷問のような作業を繰り返さねばならないのか。遠い。何もかも遠い。希望を見つけられない。

夜は長い。口が渇く。いただいた飲料を口に含み口内を湿らせて飲む。ほんのひとくちの水分補給を何度もした。
先がまったく見えない今はこの飲料が尽きたら次があるかなんてわからない。ほんのひとくちが惜しい。けれど傷の修復に細胞が総動員されているからか体力の消耗が激しい。救急もストップしている状況で自分の順番が来るかもわからない。このひとくちの水分補給でまだこれからちょっと先は大丈夫というエネルギーを補給した。
目を閉じても痛む傷。冷えることで痛みが強くなってきた。
ぐちゃぐちゃになっていた左手の痛みが1番ひどかった。妹が備蓄してあったもので一度洗ってくれたのだが、出血は続き、そのまま血が固まってしまった状態だった。
洗ってくれたときにどこが傷になったのかと見てみたが傷がどれかわからないくらい私の左手は皮や肉が汚れと共にぐちゃぐちゃになっていた。爪は内出血で赤く染まっていた。自分で見ていられない。なんていう怪我なんだ。診断があれば納得させられる。目安になるものが欲しかった。いつまで、どこまで耐えればいい。わからなかった。

緊急用に水はいくつか備蓄していた。緊急持ち出し袋も、鞄も、靴も全部ここから数10m離れた家にある。あるのに取りに行けない、持ち出せない、これが災害なのかと考える。
暖を取るための布団だってある。妹夫婦のために暖かいシーツを広げて2人が休む準備していた。それが家にあることは変わらないのに、今日を楽しむ準備だってしていたのに、それがすべて叶うことはない。
家を倒壊させた揺れは数分だろうに、これまでのすべてをそれに壊された気分だった。たった数分で私の人生の大事なものは失われてしまうのか。私の人生はそれほど脆いものだったのか。いろいろ考えた。
最悪の想定が今日なのか、さらに想定されるもっと最悪があるのかそれもわからない。心が凍りつくのを感じる。
自分の熱で布団があたたまらない。寒さがより体力を奪っていく。

時々、救急車が道を走る音が聞こえた。
私のところにも来てくれるかもしれないという期待を抱く。しかし、私より緊急度の高い人がいるだろうとも思う。耐えられないほどの痛みがないことは良いことだと思うが、まったく足に力が入らないのは不安だ。足はどうなってしまうのだ。これからの生活はどうなるんだ。何を考えても答えはでない。自分を納得させられるようなことも思い浮かばない。暗闇の中、答えの出ない問をずっと考えていた。

結局一睡もできないまま朝を迎える。
体は疲れているはずなのに眠れなかったのだ。
休もうとしても冷えや痛みがあり、寝付けなかった。うとうとすることもなく冴え渡る目、目まぐるしく駆け回る思考、悪循環から抜け出すことができなかった。

朝になると人々が動き出す。
食事が配給された。まさかである。お正月を家で過ごすために購入した食材を使った汁物。
これまたお正月用の焼いたおもち。
使い捨てのお椀にラップをして汁物をよそってあり、割り箸はこれから使うものと名前を書いて自分で管理すると決まったそうだ。

マンパワーがすごい。みんなもう動いている。
寒かったら着てと衣服を持ち出してきたお姉さんに服を分けてもらう。
布団持ってきたよと休める人が増えるようにしてくれる。
私は外に活気を感じながらも布団に横になっていた。
備蓄にあったオムツを履かせてもらったのでトイレのことは考えなくて済むようになった。だが、オムツに排泄というのもこれまた難しい。

夜はラジオから地震の避難情報が延々と流れていたが、朝は箱根駅伝の中継が流れていた。変わらないことに安心を覚える。
私はここで春の高校バレーに思いを馳せた。
今年は決勝戦を生中継するとネットで見たからとても楽しみにしていたけれどきっと見れないだろう。心配することはたくさんあるのにそのことを考えていた。
私のお正月は春高バレーの決勝戦を見ることに照準を合わせている。柳田将洋選手が高校3年生のときの春高を見たときから毎年恒例にしている。
バレーボールは幼少の頃からテレビで観戦していた。テレビでやっているバレーボールはほとんど見てきた。
バレーボールが好きだからSTARTO ENTERTAINMENTに興味を持ったのか、STARTO ENTERTAINMENTが好きだからバレーボールを見ていたのかどちらが先かわからない。バレーボールの試合前に歌っているのがNEWSくらいからSTARTO ENTERTAINMENTの記憶はある。
世界と戦う選手ばかり見ていたのだが、自分が高校を卒業したくらいから高校生の試合にも注目するようになった。それが始まりだ。そこで高校生の柳田将洋選手を見ていた。そうして数年後に世界と戦う柳田選手と再会する。高校生から大人へと繋がった瞬間だった。そこからはよりバレーボールにのめり込んだ。
「ハイキュー」は妹が「家族みんなバレーボール好きでしょ、バレーボールのアニメが始まるから一緒に見よう」と誘ってくれて見始めた。そこで完全に「ハイキュー」にハマったのが私だ。もう10年も前の話になるらしい。この10年ありがとう。
今の春高バレーのオープニングが好きだ。
世界で活躍する選手たちが目指した場所だという過去の映像と今の映像が流れる。私の記憶にもある高校生のときの選手の顔だ。高校生からプロへと繋がる。みんなここを目指した。目指した場所に立つことができた高校生が鎬を削る。そして頂点を決める。
これほど熱量を持って見ているスポーツは他にない。今年の春高バレーも楽しみだ。
見れる確証はないが、楽しみだと思うことがあるという喜びを感じた。楽しみにしていることがあるから私はまだ元気だ、そう内観していた。

当時の私の所持品はポケットに入っていた以前使っていたスマホと腕時計の2つ。
年末に機種変更をしたピカピカのスマホをどこかで落としていた。なので誰とも連絡が取れなかった。
今の自分の状況がわからないので何を連絡すればいいのかもわからないが、それでも友達の安否は知りたかった。しかし知る術はない。
妹伝いで、私の同級生の安否をなんとなく教えてもらった。小さな町というのはなんかかんかで繋がっていく。妹伝いで私は友人たちのなんとなくの安否を知り、姉伝いで私の怪我が同級生たちに伝わった。

朝になると足が動くかもしれないという淡い期待も散り、私は昨日から何も変わらない状態でただ横になっている。
何もできない時間を過ごすうちに、父が会社から動く車を出してきてくれ、病院へと行くことになった。
大勢の男性たちが私を安全に運ぶために話し合いをしてくれる。
申し訳ない。ありがたい。
「足が動かない」以外は特に症状はなく、若いのに何故起きてこないんだと思う人もいただろう。申し訳ない気持ちしか出てこない。
近所のお兄ちゃんに「大丈夫?」って聞かれたけど頷くしかできなかった。
自分の怪我がわからないからこんなにたくさんの人の援助を受けていていいのかずっと疑心暗鬼になっていた。本当にいいのか。本当は不安で体が動かないだけで怪我なんてしていないんじゃないのか。そう思ってた。

車に安全に運び入れてもらい、私は父が運転する車に乗り病院へと向かった。みなさんありがとうございました。心からの感謝をいっぱい伝えたとしてもまだ足りないくらい人の世話になった。この地区に生まれ育ってよかったと思う。あたたかい人に恵まれている。
すぐに帰ってくるだろう。痛みとかそんなにひどくないし、今日は座れているし。でも病院は行かないとダメ。傷の処置をしてもらえればいいと思った。それで帰れるとも思ってた。

06.わからないを紐解いていく(病院受診)

病院に着いてからは違うドキドキが襲う。
大きな地震が起きた災害現場にいると嫌でも思い知った。
夢なんかじゃない現実だ。すべて現実だ。
歩けないことを事前に伝えていたため、なんだか見たことないくらいの大きな車椅子で迎えに来てもらう。笑顔を見た。緊急時だけれどこの笑顔に心がほっとした。
ここからは医療従事者の指示に従う。それが安全に繋がるのだ。
受付では黄色と言い渡された。ドラマで聞いたことのあるそれだ。
診察室で疑われたのは骨盤の怪我だ。「入院か搬送」と聞いた。
「搬送」、空を飛ぶ。避けたい。私が決めることではないが。
それらを決めていくためまずレントゲン室へ向かう。

途中、友人に会った。よかった。
知っている顔が元気そうなのは安心する。
だがここは病院だ。彼の家族の誰かが怪我をしたんだ。
ご家族の安否がわからないため声をかけられない。
それ以前に私も私でしんどいところがあるので何を言えばいいのかわからない。
でも笑顔を見れてよかった。それは本心だ。
こんなところで会いたくなかったけれど会えて嬉しかった。

レントゲン室ではどう撮るかの相談をしていた。
上からバンッと撮って、そこから追加で決めていこうという話にまとまったらしい。
その上からバンッと撮った一枚で「折れてるね」の声が聞こえた。
私の頭の中に「骨折」というワードが急にインしてきた。 

こっ‐せつ【骨折】 
[名](スル)骨が折れること。また、骨にひびが入ったり、その一部または全部が折れたりすること。傷口が開いていない場合を閉鎖性骨折・単純骨折、傷口が開いている場合を開放性骨折・複雑骨折とよぶ。
出典:デジタル大辞泉

こんなこと調べていません。何故なら使えないスマホを持っているから。
頭の中で「骨折」という言葉が繰り返されていく。
動かない限り痛みは出ていないのに「骨折」
どこか腫れたりしているわけでもないのに「骨折」
自分の想像する骨折とはもっと大怪我だった。信じられない。 
耐えられない痛みにもがき苦しむ姿を想像していた。それでも事実は事実。私は骨折をした。
ここでもらった診断ではないが、私の怪我は「左恥骨坐骨骨折」である。

さあ、折れていることが判明したから次はどこが折れているかの詳細を撮っていく。ちゃんと撮るための姿勢を自分で保持できなかったのでたくさんの人に支えてもらって撮ってもらった。体を動かすときは「痛いことするよ」と言ってくれたので助かった。痛いことがわかっている方が気持ちの準備として楽である。
検査を終え、もう一度診察室へと向かう。
レントゲン室の外で待っていた妹、そしてさっき会った友人。この2人の面識はないはずなのに友人は私を気にかけて妹に声をかけてくれたらしい。妹はわかってる範囲の情報を伝えてくれていた。ありがとう妹。そして心配してくれてありがとう友人。ごめんねという気持ちを添えて。

妹に骨盤が折れているらしいと伝える。妹の顔が青白くなる。
「痛かったよね、辛かったよね、早く病院来たかったよね」といっぱいのごめんねを受け取る。言わんでいい。こちらがすまんなのだよ。圧倒的に私が悪い。私があんなところにいたからだ。怪我をしているのは良くないことだけど、私は早く病院に来れたと思っているし、安心してほしい。謝ることはない。
「なんも痛なかったから大丈夫やよ」私はそう返した。骨折の痛みを感じていなかったからだ。
そして診察室へと入る前に、今度はCT検査を受けることになり、またレントゲン室の奥の方へ。
CT検査を受け、ここで初めて出会う主治医が私が座っている低い場所まで視線の高さを合わせてくれ、ゆっくりはっきりと「ここでゆっくり休んで治そう」と告げ、私の入院が決定した。
そして私のズタボロの左手を見て「これ折れてないよね?」とこれを確かめるためにまたレントゲン室へ。
いろんなことが起きてちょっと忘れてしまっていたけれど私の左手の指は親指以外パンッパンに腫れていた。おい、この指何が起こってる。
レントゲンで撮った結果折れていないことが確定した。ハァ〜よかった。これも折れてるとかだったら私の骨折箇所多すぎる。

入院が決まってから診察が終わっていた母親と少し話すことができた。
「安心できる場所でしっかり治しておいで」と励ましてくれたけれど、やっぱりこんな事態になってて家族と離れることは心細い。それは言わないけど。「なんか思ったよりも気持ちは安定している。やし、ちゃんと病院でいいがにしてもらうね」これは本心ではあるものの、不安はある。それでも「大丈夫」を伝えたかった。
病棟が決まるまで待機。
病院で診てもらうにあたり、怪我の箇所、怪我の詳細、普段飲んでいる薬、家族全員の連絡先を妹に紙に書き出してもらっていた。
夜暗くなってから粗品のタオルの会社名が書かれている紙の裏にスマホのライトで照らしてメモを作った。ペンもどこから見つけたのかわからないけど。頭が冷静なうちに正しい情報を提供できる手段を増やしておきたかった。病院も付き添いが入れるかわからないというのもあったし。
金沢での転院先でもこれは役立ったので気を失うこともあるかもしれないし、大丈夫なときにまとめておくのは大事だなと思った。
入院はコロナ禍でもあるし面会はなし。私はWi-Fiが繋がればどうにかなるかもしれないSIMカードのないスマホを持っている。家族との連絡はとれないだろう。家族の状況も知りたいけれど難しい。
病棟の準備ができたら家族としばらくお別れだ。次がいつかわからない別れ。不安だ。

入院手続きのため妹が病棟に入ってくれた。
エレベーターが停止してるらしく私を運ぶのは人力だった。
ここにいる人はみな同じく被災者であろう。心配事はたくさんあるだろうに仕事をしている。いろいろ考える。動くために必要な休息は確保できるのだろうか。やってもらうことひとつひとつに罪悪感が付き纏う。敷布団を大人数で持ってもらって階段を登った。正直、不安定な背中に落ちるかもしれない恐怖を抱いていた。
布団だから柔らかくて体勢も崩れるし、振動で痛みが走る。せめて自分の体を起こして手でバランスを取れたらと思い、「座りたいです」って伝えたら「ショック起こすかもしれないからダメ!」だと強めに言ってもらって私は大人しくした。
病室に入りしばらくしてからこのショックの具体的な話を看護師さんに聞いた。骨折箇所がズレて内蔵に刺さったりすると出血してダメらしい。そらそうだ。怖すぎる。私の怪我はこんな危機スレスレのところなんだという実感にメンタルの部分のショックを受ける。というか、今日とか座っている方が楽でずっと座ってたけどそれダメやったんかなと振り返る。自分の行いへの反省。運がいいとかそういうことで片付けられない自分の行動の責任。この緊急事態の渦中だ。あの避難場所で何か起きたとき、誰を呼べる。電波もあまりよくないのに。救助が来るかもわからない。何か違えば生きてない可能性もあった。その状態になった私を誰がどうするんだというところまで考えてシュンとする。

07.安心と不安に揺れる(18年ぶりの入院)

そこから着替えや傷の処置をしてもらう。
私は病室に入るまでの2日の夕方まで、昨晩排泄をしてから、尿がまったく出ていなかった。オムツをしていたが出し方がわからず、尿意はあるのに膀胱に溜めたものを出していなかった。
安静にするというのもあり、尿道カテーテルを挿入してもらう。
初めての経験だ。挿入時の痛みや入っている違和感はあったがそのうち慣れるとのこと。
通常ならばまず「嫌」と拒否しただろう。何がなんでもトイレくらいできるやろと思う気持ちがある。加えて身を任せることに羞恥心があったり、緊張などで身が強張りすぎるなどあったと思うが、緊急時に何故か据わっていく肝が訪れるすべてを受け入れる。排泄できないということから解き放たれた。もう心配しなくていい。
そして始まる傷の処置。
服を着替えさせてもらって初めて見る傷の数々。
体を動かせないので脱ぎにくい衣服はハサミで切ってもらった。
擦り傷が多い。小さなもの、大きなもの、たくさんだ。
ひどい傷はやはり左手と右太ももから骨盤にかけての擦り傷。
右太ももから骨盤にかけての傷を洗ってもらう。
そしてピタッとへばりついてしまった布の繊維をピンセットで取ってもらう。
根気のいる作業だったと思う。看護って総合力だ。
そして私はこの痛みとのバトルが再開される。ピンセットで摘むのも痛い。それを剥がすときに引っ張られるのも痛い。何をしても痛い。水が滲みるとか切り傷が痛むとかなら痛いけどまあ痛いと言わずにやり過ごせる。しかしこの痛みはどうしても苦手だった。「痛い」と言葉に出てしまう。私のためのことなのに拒否するように反応してしまうことに申し訳ない気持ちになった。
1cmにも満たないような小さなごみを丁寧に時間をかけて取り除いてもらった。ありがたい。
左手も軽く洗ってもらった。物資が不足してきているとのことだ。完全に汚れを落とすには時間も水もない。
自分の脈や血圧が定期的に測られる。
いろんな機械に体の調子を診てもらいながら、傷の処置を終えた私は天井を見ていた。
これからの不安、家族はどうしているだろうかという不安。もっといろいろたくさん。ずっと考えていた。

看護師さんがやってきて入院の説明を受ける。
「妹さん、ボロボロ泣いていましたよ」と。そりゃそうだ。不安障害で外に出ることが怖くなりずっと家にいた私だ。家にいることでしかまともな自分を維持できなかった私だ。
妹の涙を知って私はそのときこの地震が起きてから初めて涙が頬に流れていくのを感じた。これまでのいくつかのできごとで堪えてきた涙はどうにか引っ込ませることはできたが、今回は無理だった。妹が愛しい。
厄介な自分というのはとても厄介で泣くことすらも怖いと思う。
あまり泣きたくない。感情を大きくしたくないとブレーキをかける。
妹からの手紙を院内着の胸元に挟む。励ましの言葉と共に私の大好きなピカチュウが描かれていた。快適に動かせるのは右手と首から上くらい。物を取るのにも苦労するので、胸元に置いておくのが1番取り出しやすかった。明るい時間帯は何度もこの手紙を読み返した。
寝返りをするのも介助がいる。何もできない。
そのうちに家族が買ってきた飲料を受け取る。ちまちまと飲んでいた生命の水ともお別れだ。本当に世話になった。何度も心を落ち着けてくれる水となってくれた。耐えきれないような感情と闘うときに綺麗な水を体に入れてすっと心を浄化してもらった。ありがとう。

晩ご飯はごはん、おかず、汁物があった気がする。
空腹を感じているが食欲はない。廃棄になる食料がもったいない。わかっている。だが、提供されるものをすべて食べるのは難しい。胃に入っていかない。
寝転がったままの私はごはんをラップに包んでおにぎりを作ってもらい、顔を横にしてゆっくり食べた。
おかず、汁物も魅力的だが食べる技術と根気はまだなかった。
それでもあたたかいごはんは感動した。1月1日のお昼まであたたかいごはんを食べていただろう。今朝だって汁物をいただいた。食べられなかったが。ようやく落ち着いてできる食事は初めて食事を口にするかのようにひと粒ひと粒がおいしかった。
小さなおにぎりを1時間ほどかけて食べた。

そして気分が落ち着いてくると気になるものがある。
機械から聞こえてくる心音のピッピッピッという音が不安を煽る。
緊張していることが目に見える私のバイタルの機械も数値を上げている。
慣れるだろうか。ただ緊張しているだけだ。異変が起きているわけではない。
どうにかやり過ごすしかない。

薬局は大変なことになっていると看護師さんが言っていた。
私は不安の面を薬で支えてもらって過ごしてきた。
怪我はよくないし入院するほどの怪我をしたのもまったくよくないが、病院に来たことで私はいつも飲んでいるお薬を切らすことなく継続して服用することができた。
不安も恐怖も限界はかなり前に突破している。そして高止まりしてまったく落ち着く気配がなかった。母が朝に「家にどうにかして入られないか、mmの薬だけでも」と言っていた。緊急事態の渦中で私がどれくらい耐えられるかすごく気にかけてくれていた。
私が入院することになり、いつも飲んでいる薬、そして痛み止めと薬を処方してもらえると母に伝えて病棟に入ることができた。母の心配のひとつを病院の力が解決してくれたと思う。
薬局は大変なことになっていると聞いたが就寝前にはいつも飲んでいる薬と痛み止めが私の元に届いた。
たくさんの薬がとんでもないことになって何からすればいいのかわからないほどだったと思う。それでも私はいつもの薬を看護師さんが届けてくれたとき心の底から助かったと感謝の気持ちでいっぱいになった。ただの日常でさえ薬の力を借りてどうにか生きていた私だから、この緊急事態を気力や気合だけで乗り越えられない。全部失ったと思うからこそ、いつもしていた何かを継続できることに何事にも代え難い安心を覚えた。錠剤を飲むのが苦手だから大きな錠剤はいつも噛み砕いて服用している。体を起こすことができない今は錠剤を飲むことも難しい。苦みのある薬を噛み砕いてその味に嬉しくなった。変わってしまったもの、変わらないもの。急に減ってしまったいつも通りを継続できた幸せ。薬剤師のみなさんありがとうございました。誰かがしてくれた私のためのことに今日もまた救われている。

夜は発熱していた。暑い。汗が額に滲む。
暖房が暑いのか私が熱いのかわからない。
病室に来るまで寒くてたまらなかったのになんでこんなに暑いんだ。
お隣さんも暑かったらしく、暖房は消してもらった。
昨晩一睡もできなかった私は今日こそは眠りたいと思ったが、眠れたのは23時から数時間だった。
地震で起きて、目を閉じるか天井を見るかを繰り返して朝を迎える。
この地震のときWi-Fiに繋いだけど接続できなかったスマホが緊急地震速報を知らせた。
ずっと繋がらんかったのに何故今なのだ。そしてそれ以降またWi-Fiを探し続ける素振りを見せるスマホの隣で、私はバッテリーの消耗を危惧しながら連絡をとれないことやこの地震のことを調べられないことにもやもやしていた。

08.朝が来るまで1秒ごとに私を支えて欲しい(入院中の夜)

次の日くらいに病院の断水を知らせる放送が聞こえた。
「あたたかいお湯が出せれば左手の汚れがとれるかもしれないのに」となんとかしたいと思ってくれている看護師さんのやさしさに心があたたまる。そのお気持ちでこの汚れが綺麗さっぱりなくなった気がする。気持ちが少し楽になる。

眠れない夜の過ごし方がさっぱりわからない日が続く。
日中の過ごし方と変わらないはずなのに夜はものすごく長く感じた。
私がいるのはICUだ。容態が悪化していく患者さんが隣にいることもある。辛いとこぼす声も聞く。苦しんでいる唸り声のようなものも聞いている。動きと共に聞こえる音が緊急を訴えている。
隣にいる人は数日ごとに変わった。数時間の人もいた。みんな搬送されていく。そういう場所にいる。ここで救われ明日へと命を繋ぐ現場だ。
録画のドラマを見るように一時停止して心を整える時間はない。流れていく時は止められない。
私は緊急時のこの空間に馴染めなかった。たったひとつの命、それを想う人がいる。ただ横に居合わせるだけの私。考えれば考えるほど気持ちは暗くなる。
私に何かできるわけでもないから考える必要はないのだろうけれど、それでも緊張はしてしまう。
日中は聞こえる声も多く安心できるが、夜は静かになりその静けさが心細さに繋がる。眠ることができないので考える時間が長くなる。
必死で聴き慣れた音楽を脳内で再生する。考えるのをやめたい。どうせなら楽しいことを考えたい。どうにかなりそうな心を音楽で気持ちを整えることができる状態の私まで戻してほしい。イントロから最後まではできなくとも、これまで心を勇気づけてくれたフレーズを何度も繰り返す。音楽に今日も心を預けたい。
思い出したいのにメロディが途切れる。私の記憶はこんなにも頼りないのか。それでもやめられない。やめたくない。音楽が止まったら心が折れてしまいそうだ。
持っているスマホのバッテリーはどんどん少なくなっている。所有品は電波の繋がらないスマホのみ。丸腰の装備でここにいる。頼れるものは記憶だけだ。
曲を選ぶというよりも、ふとした瞬間に流れ出す曲はいつも困ったときに聞く曲ばかりだった。
脳内で最も多く再生された曲はSijimaの「Traveler」だった。
忙しなく走り回る感情が一瞬止まるときがある。その静けさに反応するように歌が始まる。私の心の隙間に入り込むあのメロディーは「Traveler」だった。ずっと「Traveler」が頭の中に見えていた。鬱屈した感情でいっぱいになる心の狭い隙間を見つけてくれた。そして入ってくる愛しいメロディー。何度も気持ちを穏やかにしてくれた。曲に頼る。曲の世界に寄ることができれば誰かの笑顔を思い出せる。
そしてチーム総北が歌う「Dream Believer」もよく思い浮かべた。
明日を明るく思えないときにいつも聞いていた曲。「夢に挑み続け 痛み耐え続けた者が 掴みとる明日の名を 希望と呼ぶ」という歌詞。鳴子くんの歌声が大好きというのもあるが、ほんの少しでも明日に希望を持ちたい夜を過ごす私はここをループしていた。「希望」と呼べる明日のために励むキャラクターが見える。小野田くんの澄んだ歌声から始まり、今泉くん、鳴子くん、そして3年生とどんどん人が増えていくここが好きだ。夢という夢を持つほど自分の明るい未来を描けていないし、明日のためにした努力もない。それでも誰かの夢を遠いところから見ることが私の励みになる。
ピンチ到来どうしようしか思えないどうしようもない時間はいつもChroniCloopの「夜明ケ街ビイトコウル」の「今すぐ助けてあげるよ」に期待した。困ったときはChroniCloop兄さんたちを呼ぶしかない。「どれだけ離れても届くまで歌ってやる」という言葉を信じている。ずっとこの曲を聞いてきた。もう何年経ったかわからないけど。孤独を見つけて私の元まで歌を届けてくれる。この曲に独りを救われてきた。どんなきときも、そして今日もまた。
OSIRISの「for you…」大好きなOSIRISの中でも特に好きな曲。
「バンドやろうぜ!」がサービスを終了しても私はOSIRISを聞き続けている。好きだ。OSIRISの曲が私の性質とすごく相性がいい。曲はずっしり重ためがいい。3分じゃちょっと短い。5分くらいの曲が聞きたい。5分より長くてもいい。湿度がちょっと高いボーカルがいい。歌声と歌詞がすごく好き。ありとあらゆる好きが全部あるのがOSIRISの曲だった。レイ・セファートさんが弾いていると思っているギターの音色がたまらなく好きだ。瑠さんいつもありがとうございます。ギターソロが大好きだからギターソロばかりを思い出していた。好きと思う気持ちをエネルギーにする。そうしたい。ひとりでは無理だから誰かの力を借りて自分を奮い立たせる。楽器の音だけじゃなくて歌詞も聞いている。「光の道へ行く」という歌詞に希望を持ちたい。歌詞から受け取る言葉の力を信じたい。光のある道を歩むと自分に言い聞かせる。
日本語で歌うStray Kidsの「Scars」もよく思い出していた。
ハンさんが歌う「僕なら大丈夫」というフレーズを自分に重ねる。「私なら大丈夫」、そう信じたかった。立ち上がることも歩くこともできなくなった今、時間が動き続けている今、自分だけがあのときのあの場所に取り残されていくような感覚になる。
何を信じればいいのかわからなくなる。何度もそういう時間は来る。そのたびに何もできないことに心が悲鳴をあげる。これからどうすればいいのか。先の見えない未来を前にただ呆然と立ち尽くす。一歩目はいつ出るんだ。私はスタートラインに立てているのか。そもそも立つことすらできないじゃないか。うずくまって泣いていることしかできてないじゃないか。馬鹿を言っている。うずくまることもできない。仰向けで天井を見ていることしかできない。それが今の私だ。何もできない。
病院がどんどん限界に近くなっているとわかる。隣にいた人たちはみんな悪化して大きな病院へと搬送されていく。私は大丈夫なのか。そういう不安がある。「僕なら大丈夫」と歌うハンさんの声に私なら大丈夫と言い聞かせる。自分を見失うな。誰かを好きだと思う気持ちを繋いで生きてきた自分を見失うな。好きという気持ちが麻痺してしまったらきっとダメになる。好きだと思う気持ちを焚べて絶やすことなく明日へと灯りを繋げ。
これが眠ることができない私の夜の過し方だった。

入院してから3日くらい経ったときに父が画面がバッキバキになったスマホを持ってきてくれた。10日ほどしか使っていないスマホだ。
SIMカードを前機種に入れてやっと連絡をとることができた。
病室にたまたま1人になっていた隙に私は家族、親戚、友人に連絡を入れる。
何を言えばいいのかわからなかったがとりあえず電話をかけた。
まずは姉に。
電話に出た姉は「えっ」と驚いた声をあげて泣き出してしまった。
嗚咽が聞こえる。心配をかけている。わかっている。申し訳ない。言葉が出ない。何を言えばいいのかわからない。私も目に涙が溜まる。言葉よりも涙が溢れてくる。泣きたくない、こんなときでも感情にブレーキをかけようとする思考が働く。
やっとのことで絞り出した言葉は「どこも痛くない。生きているよ、ごめん、ありがとう」それくらいだ。
父の妹である叔母にも電話をかける。また泣かせてしまった。
何度も名前を呼んでくれた。私は生きているんだと実感する。
友人にも連絡を入れた。1番近いところに住んでいる友人に電話をかけた。
荷物の受け渡しをしたときに病棟のそばで誰かを探している姿を見かけたと母から聞いたから電話に気が付いてくれるかもしれないと思い電話をした。
久しぶりに会話をしたはずなのにさっきもしゃべってたみたいにして簡単に言葉が出てくるのは何故だろう。いつもだ。現状報告とグループラインへの伝言を頼んで電話を切る。安心する友情だ。
ツイッターなどのSNSは知り合いと繋がる必要なんてないだろうという考えを持って生きているから、私のアカウントはあなたのファンです大好きです専門アカウントだ。ツイートするのは基本的にあなたが好きだよという意味を込めたラブレター。ツイートするか迷ったが一応現状をツイートした。
届いた言葉はあたたかくやさしいものだった。またひとつ頑張れる気がした。受け取った言葉と心に入ってくるやさしさは何度読み返しても褪せることなく私の心を元気にする。

父からはめがねとイヤホンも受け取った。
スマホは私がいたところの近くに落ちていたらしい。めがねも同様、近くに落ちていた。パキッと音を立てて外れたので壊れたと思っていたが無事だった。
イヤホンはなんとか入れる私の部屋から見つけ出してくれた。
イヤホンが届くことを知らなかったギリギリの精神状態のとき、ICUにいるのが私だけになった瞬間に音を最小にしてスピーカーを耳に当て布団にもぐって縋るように音楽を聴いた。非常識とわかっていても心が砕け散る前に。記憶でしか再生できないことが苦しく、誰にも迷惑をかけないように音楽を聞く苦肉の策だ。
選んだ曲はSijimaの「Sweet Rain」だった。この曲がすごく好きで選んだ。
アスファルトに雨がじんわりと染み込むような雨じゃなくて、傘に弾かれてぷるんと玉になるような音が楽しい。その気持ちを味わいたかった。
Sijimaの曲は情緒が落ち着く。歩いているような穏やかなメロディーが好きだ。いつものように再生をタップすれば流れ始めるいつもの音楽。何もかも変わってしまったと思っていたからこそ変わらないものの存在がありがたい。涙が出るな。いつも通りを失くしていない。
イヤホンが届いたことでQOLは格段にアップした。
イヤホンで聞こえる音を少なくすることで落ち着いて病室で過ごすことができた。
まあ夜は眠れないのだが。消灯時間からしばらく経ってやっとのことで眠り、数時間後に目を覚ます。その後は起きている。眠るのが下手くそになってしまった。
スマホを触るのも眠れなくなる要因かなと思い、天井を見たり、目を閉じたりして過ごす。余震で起きることもあり、長く眠れない日が続く。だが、夜の孤独というのはイヤホンのおかげで解消された。日中に聞いた音楽の効能が夜にもいい影響を与えた。

09.準備だけしておこう、未来は決まっている(転院まで)

そうして数日を過ごしているうちに転院すると知る。
転院、搬送はヘリコプター、空を飛ぶ、怖い。落ち着かない時間がまた増える。
しかし、私は容態が安定しているからとICUを卒業できた。
というか、あまりにも緊急度が高い命の局面を横にして私の心拍数が非常に高い数値を叩き出してしまい、ICUから出してもらったというのが正しい。音楽を大音量で流し、イヤホンに集中してみたがダメだった。たくさんの医師が隣の方の対応のために集まり、人が揃ったあとに看護師さんが私を空き室へと運んでくれた。こんな対応をさせてしまい申し訳ない。
命の局面がある場所から少し離れた部屋に入り、私の緊張は少し落ち着いた。
ここの部屋で過ごし、心のゆとりがちょっとだけ増えた。
さらに食事に毎食1時間ほどかかるので私の1日はわりとすぐ終わっていく。
数日経てば寝転がったままの食事も慣れてくる。
おにぎりしか食べられなかったけれど、腹に皿を乗せてスプーンで掬っておかずを食べられるようになった。味噌汁も紙コップに移してもらいストローで飲んだ。着実にレベルアップしているのである。ゆっくり時間をかけて自分のペースで満足のいく食事をする。
何もできない自分ができる唯一は食事だった。
断水で満足に水を使えない、備蓄もどんどん減っていく中で提供してくれる食事を私はものすごく楽しみにしており、そして楽しんでいた。栄養部からすれば神経がすり減り、疲労も蓄積され焦りやプレッシャーが絶えなかったと思うが、私は命を穏やかに明日へと繋いでくれる食事に心から喜びを感じていた。
ごはんが美味しいと感じる幸福を味わっていた。ごはんを食べているときはごはんに集中できるから他のしがらみが心の中で小さく小さくなり、幸福が心と体を満たしていた。
幸福と落ち着かない時間を繰り返す日々だった。落ち着かない時間は音楽に頼り、心を補修する。1日中ずっと心が休まる日はない。睡眠時間も少ない。どこかが崩れたら崩壊してしまいそうな不安定な自分の世話で精一杯だ。
転院すると決まってもすぐに搬送されることもなく、準備だけして待つ時間が増える。私の体がヘリコプターの振動に耐えられるようになるまで。

10.人から受け取るぬくもりが私をあたためる(搬送)

搬送の順番が来る。
年末に受診した精神科で不安階層表を作った
1番上の100には飛行機でどこかへ行くと書いた。
上から2番目は震度6強以上の地震と書いた。
医師と負担のない程度で少しずつ安心できる行動を増やしていこうという話をした。
さて、どうだ。あれから2週間足らずで私はどちらとも向き合うことになった。避けられない展開で。
今から搬送のヘリコプターに乗り、どこかの病院に行きます。
フーっと後ろに倒れて気を失いたいところだが、私は安静のため常に背中は布団にぴったりくっついている。倒れることはできない。
そうこうしているうちにストレッチャーがベッドの横に運ばれて来た。骨盤骨折のためかすごい数の人が私の安全のために配置されている。
リハビリの人が言っていた。プロに身を任す。
病院の外では鍛えられた屈強な男性たちが搬送のために頑張ってくれていると聞いた。
病室から出るときに災害派遣で来てくれていた医療従事者さんが「お大事にしてくださいね」と声をかけてくれた。搬送準備でバタつく院内だったがすごくクリアに耳に届いた。誰が言ってくれたかもわかった。

ここの病院でものすごくたくさんの人にお世話になった。
いつも看護師さんに会うなと思っていた。看護師さんたちに休みはあるのだろうかと不安になるくらい顔を見る看護師さんたちは毎日出勤している。 
主治医は朝に顔を見に来てくれていた。しっかりと目を見て、「頑張ろうね」と手を大きく広げて励ましてくれた。それを聞かない日はなかった。必ず言ってくれた。
病院は災害派遣で派遣されてきた医療従事者さんもたくさんいた。遠い地名を見るたびに感謝をする。一瞬の出会いだ。次はないだろう。それでも手のあたたかさや声の色などを覚えている。
部屋に来てくれたときはみなさんやさしい声色で話をしてくれた。すごく安心できた。
私にいろんなことをしてくれたすべての勇ましく美しい人たちに心からありがとう。
自分で自分を整えられず難しい時間はあったけれど、いろんなことをしてもらったときにいつも感じていたぬくもりのある時間はやさしい気持ちへと心を戻してくれた。

2階から1階へ降りるときにエレベーター内にいた医療従事者さんは私が病院に到着したときに車椅子を押して走ってきてくれた方だった。いろんなことを不安に思う私に「大丈夫!」と明るい笑顔を向けて言葉をかけてくれた。リハビリで数日前にまた再会したのだが、私がここから出るときに見た最後の医療従事者さんも彼女だった。今度は明るい笑顔で送り出してくれる。新天地でも頑張れそう。そんな気持ちを彼女からの笑顔で持つことができた。

そうして病院から出た私は救急車へと乗り込む。
外は雨が降っていた。白い空から落ちてくる雨をぼーっと見ていると救急救命士さんが持っているバインダーで顔が濡れないようにしてくれた。
「雨、降っとるね」と。どういうやさしさですか?わたしびっくりしちゃった。どうやって生きていたらこのやさしさに繋がるんですか?え?どういった配慮?え?神の領域?混乱。すごいすごすぎる。びーっくりびっくりびっくりよ。このやさしさに触れて自分をアップデートさせたい。いやなんというお心遣い。本当に感動した。いやすごいっしょ。ポツポツ雨くらいええやん自分でなんとかせいそれか我慢しろじゃないんだ。すーーっごいあったかいやさしさが私に向けられた。細やかな気遣い。極上のホスピタリティがある場所をディズニーランドだとすると私の魂は今この瞬間、ディズニーランドにいた。忘れられないありがとうランキングにいきなり殿堂入りだ。トップオブヤサシイ。やさしすぎてよくわからん感情になる。えぇーやさしすぎる。本当に。何度思い出してもすごいやさしい。
同じようなやさしさをいつか私は誰かに向けることができるのだろうか。道のりは長すぎるな。修行が足らん。いや〜〜〜〜すごい貴重な体験だった。

救急車内では名前と住所を聞かれた。言い慣れた住所を伝えるが心は空虚になる。あの家に帰ることはできないのだ。全壊していることもそうだが地盤的にもあの土地はもう人が住めないと聞いた。
そう心が色を失くす時間を過ごしながらも車内で救急救命士さんと会話をする。待機の時間が少しあった。
しんどいところはないか、何かできることはあるかとすごく気を配ってくれる。ありがたい。
私は空を飛ぶことに対しても転院先がわからないことももうすべてにおいて緊張して、口がカラッカラに渇いていた。
看護師さんがまとめてくれた荷物だったが、叶うならば水を飲みたい。この救急救命士さんが私にしていいことが何かわからないが「水を飲みたい」とそうお願いした。私を支える生命の水である。
ちょっと考えて「いいよ」と水を用意してくれた。口に含む水がガッチガチの心の緊張を潤してくれる。
救急救命士さんが「ヘリコプター見える?」って声をかけてくれたが私は寝転がることしか許されておらず、スマホでヘリコプターの写真を撮ってもらった。さっきから何から何まで本当にありがとうございます。尽きない感謝。
写っていたのはのりものずかんとかで見た大きな自衛隊のヘリコプター。
怖いという気持ちはある。それはやっぱりある。
それでも機体がかっこいいというときめきもあった。
楽しみと言えるほど心は楽ではないが恐怖を少しずつ噛み砕いて変化させていくことはできる。いまの私にできることは恐怖を大きくし過ぎないこと。
ヘリコプターに乗せてもらうときはヘッドフォンを装着していたため、お世話になった救急救命士さんにお礼を言えたかわからない。
もう会うことなどない人との忘れたくない出会いがまたひとつ増えた。 

ヘリコプターに乗ってからは視界に入るのは一段上にいる人の担架とその人の尿道カテーテルの管。それとちょっと高いところにある窓が左側に見える。そして右側の椅子には派遣されていたドクターか座っていた。ド緊張、ピークもピークであるが、ドクターが姉が住んでいる県から派遣されていると見えたので少し心が和らいだ。
まったく知らない人だけど、姉が住んでいる県という縁がもう無理だよという気持ちから少し大丈夫かもと思える力に変わる。
ヘリコプターに乗っている間は多少の揺れはあるものの、いつ飛んだか、いつ降りたかもわからないほど安定していた。プロのお仕事や。
心は不安と大丈夫を繰り返す。ちょっと不安なときはドクターの方を見る。少しの安心を得て、また上にいる人の背中を眺める。
ドクターと目があったときは「大丈夫か?」というハンドサインが送られた。「(あなたを見て安心を得ているだけなので)大丈夫です」という意味を込めて大きく頷く。

いつ降りたかわからないが後ろの扉が開けられたようだ。
あったかい機内に冷えた風が入ってくる。順番に人が降りていく。私は無事に降りられたと家族に連絡する。県内であるということ以外何も知らない。ここがどこかわからない。
そうしている間にドクターが「次はあなたの番ですよ」とサインを送ってくれた。
私を病院へと運んでくれる救急救命士さんが来たが、骨盤骨折だからか慎重になるため1回視界から人が消え、次に知らぬ専用の道具を持ってたくさんの人が集まった。
私の体の下に左側からと右側から2枚の固い板が入る。それを接続して1枚の板にし、体を固定してヘリコプターから運び降ろしてもらい、病院へと向かう救急車に乗った。
救急車の中では名前と住所を聞かれる。また帰ることのない住所を伝える。市外から出たことや大きな病院へ行くこと、家族がいる場所から離れたこと、自分を証明できるものを何も持っていない心細さを感じた。
車内では1番の緊張を終えた余裕からか救急救命士さんと話をして楽に時間を過ごせた。
救急救命士さんからは「強運だ、もってる」と言われた。
まず命が助かっていること、スマホを失くしたけれど前の機種を偶然持っていたこと、父がスマホを見つけてくれていま前の機種でスマホを使えていること。
それを評価してくれた。よくわからない感情のままよくわからない日々を過ごしていたが、「強運だ」という真っ直ぐで力を持つポジティブな言葉で今の自分を励ましてくれたのが嬉しかった。
どこの病院へ向かっているか教えてくれ、家族の面会が可能かどうかというところも病院へ引き渡すときにそれとなく尋ねてくれた。
ただ運んでくれたわけじゃなく、私の心に寄り添ってくれるあたたかい心をまたここでも感じている。救急なので気が休まる瞬間がない時間を過ごすことが多いのだろう。それでも人の仕事だ。ここに心がある。あたたかな人とのやりとりを確かに感じた。すごい人たちにたくさん会い過ぎている。出会う人に恵まれている。この金沢という地に来てもそれは変わらないようだ。この点に関しては強運だと胸を張れる。名を知らない、もう会うこともないだろう。それでも一瞬、一瞬の恵まれた出会いを重ねてきたことは自分を励ます力になる。大丈夫だ。頑張ろう。
そうして病院へと到着する。

11.整った生活環境、Wi-Fi完備(転院先での生活)

出迎えてくれた病院は救急外来なのに何故かあたたかい色の空気をまとっているように見えた。人の笑顔を多く見た気がするのだ。
私は病院へと到着し、検査ツアーを行うことになる。
レントゲン、心電図、採血。
私が乗るストレッチャーを押して検査ツアーを回ってくれた看護師さんはなんと同郷だった。そしていとこのお義母さんだった。
これはなんていう偶然ですかーーーーーーーーーーーーー!
何が起きているかわからない。すごい偶然過ぎて言葉が出ない。
私の名前と顔は知らなかったはずだが、私がそうであるとわかったとき、看護師さんは「よかった…!」と心から何かが溢れたように喜んでくれた。私の命を喜んでくれる人がここにいる。
まったく馴染みのない病院だが大きな安心が心に広がった。
検査ツアーを終え、診察室へと入る。
「左の恥骨と坐骨の骨折」そう診断が確定した。
前の病院では折れてるのは折れてるけど骨折箇所については疑いだと聞いていた。
受傷から3週間経ったら歩行練習を開始するという話を聞いて私は病室へと入った。

看護師さんと準備するものや、入院に関する契約などの話もした。必要なものは妹が準備してくれることになっていた。仕事もあるので準備物に不足がないよう念入りに確認して連絡を入れる。同室の方のテレビに映る正月特番を見てああ、正月だと置き去りにしていた正月を取り返したくなる気持ちになっていた。もう春高バレーも終わっている。ここも被害はあるが、生活をすることに問題ない人たちがたくさんいる。地震があったことで錆び始めていた心の一部がポロポロと落ちていく気がした。今回こそ孤独を感じる。さっきの出会いはまだ熱を持ち、あたたかい。これを保持しなくては独りに負けてしまう。

夕食の時間だったのだろう。病室に入ってあまり落ち着かない間に食事が提供された。
今日から体を起こしての食事が可という話もあったので、リクライニングで体を起こして食事をする。
いろいろなことをたくさん経験してお腹が空いていたのでここでも食事を楽しんだ。美味しかった。

翌日には髪を洗ってもらった。地震が起きてからお風呂など入れていない。断水は続いているのだ。
久しぶりの洗髪はすごく気持ちがよかった。リフレッシュ。髪の汚れを落とし、心のいくつかのもやもやも流してもらったかのように明るい気持ちになれた。
そして入院手続きの記入がメインではあるが、妹と母親が面会に来てくれた。
久しぶりに会う。心配をかけているのは変わらないが、お互い安心できる場所にいることを知っているからか笑顔で過ごせたと思う。
妹が準備してくれた物はすべて私が好きなもので揃えられていた。
私の好きなものを選んで準備してくれる妹がかわいくて仕方ない。

ここでしばらく入院するのでスマホの保障サービスの依頼の電話をする。
不具合が出てきたから機種変更をしたのだ。支払うお金が多くなってしまうが、使えるサービスは利用させてほしい。
12月20日過ぎに機種変更したスマホを1月1日に破損させるというのは中々にメンタルにくる。心残りがありすぎる。ピカピカの新品に胸を踊らせ、引き継ぎをし、わっくわくで使っていた。
保障サービスを利用して受け取ったこのスマホは長く使いたい。
ゲームアプリにもログインできた。ひとつのゲームアプリは一度引き継いだら再利用できない仕様になっており、少し、いやだいぶ心配になった。データよ、消えるな。早く本丸に帰りたい。私の刀剣男士たちが待っている。そう思っていた。

ここの病院ではリハビリもすぐに始まった。落ちた足の筋肉を取り戻していく。リハビリの担当者さんには本当に苦労をかけたと思う。私は感覚でなんとなく体を動かして生きてきた。意識して筋肉を動かすのが苦手である。こうやるよと言ってもらっても1ミリも足が動かないなんてザラだった。神経が途切れてるんじゃないかと思うほどに動かし方がわからない。
リハビリが終わったあとは達成感などはなく、疲労で体が動かないという時間を過ごす。動けないんだ。まっっったく。
本当にひどいもんだ。ポンコツすぎるやろ。
そんなネジを回しても動かないブリキのおもちゃこと私は担当者さんに苦労をかけ続けながら、少しずつ人間の筋肉の働きを再獲得していく。

ここに来てもまだ眠れない日々ほ続いていた。睡眠薬が効く数時間を寝て、夜中に起きて、そこから朝方まで起きて起床時刻まで眠る。トータルで5時間くらいだろうか。
日中も昼寝をできるゆとりが心にないので起きている。
一応消灯の時間から起床までスマホを触るのは禁止にした。
誰かに言われたわけじゃないが触ってても眠れないから。

そんな毎日だったが、友人が面会に来てくれた。
親族ではないため会えなかったが、病院を訪れてくれた。
私の大好きなポケモンコラボのドーナツと時間あるときに読んでと漫画を持ってきてくれた。
すっごい嬉しかった。会えなくてごめんと思ったけど、正直心が浮ついて嬉しさで飛べると思った。ジャンプしたら5メートルくらい高く跳べそう。走り幅跳びをしたら50メートルくらいイケる。そんな気持ちだった。嬉しさのエネルギーで体が元気になった。
ありがとう、本当にありがとう。

そんなこんなで着実に回復へと向かっている私に吉報が届いた。
急性期病棟から回復期病棟への転棟の知らせだ。
今のリハビリの担当者さんとは違う人が担当になると聞いたときは残念な気持ちになったが、回復期病棟での理学療法士さんがリハビリに来てくれた。
私の不安の部分も踏まえて、無理なくリハビリをしていけるよう考えているとはっきりと伝えてくれた。安心した。
回復期病棟でもリハビリを頑張ろうと思う気持ちを作りながら、体の中では少しずつ異変が起きていた。
2日からずっと続いていた微熱だったが、熱が上がってしまった。
熱が下がらないことに嫌になってくる。それでもストレスとかなんかで熱があるんだろうと思っていた。
38.7度の発熱を見たときはギョッとした。ストレスじゃなさそう。
転院してきたときも微熱があり、PCR検査を受けたが陰性だった。
個室に移してもらい、解熱剤を入れてもらう。
2日連続のPCR検査を受け、ここでも陰性がでる。
尿検査、血液検査、発熱の原因をたくさん調べてもらった。
発熱の体のだるさはしんどいけれどまあまだなんとなく大丈夫だろうと思っていた。明日になれば平熱に下がるだろうという願いは毎朝叶わない。
3日目の朝のPCR検査でコロナウイルス陽性とでた。
コロナ隔離病棟へと転棟だ。申し訳ない。誰に。すべてに。

12.急に獲得していく生活スキル(コロナウイルス罹患)

コロナ隔離病棟では窓側のベッドになった。
初コロナをこんなときに体験するなんて思ってなかったな。
看護師さんには謝られたけれど謝る必要なんてない。私はあなた方に支えられて今日まで心が折れることなく生きてきたんだ。あなた方のやさしさに触れて頼りない心でもやって来れた。触れたやさしさを心地よく思い、これから生きる上でどうしていくかという課題のゴールをやさしさに定めようとしているんだ。
私が感染してウイルスを育て上げた結果、陽性なので気にしないでほしい。
発熱をしている間も変わらず夜にぐっすり眠れない。
スマホを触る時間もあまりなく、音楽を聞く元気も出ず、ただ窓の外を眺めていた。
天井から窓へと見る場所が変わっただけだ。
何もしない時間をただ過ごしていた。
ベッドという心地よい場所から動かなくなって20日ほど経過していた。

熱が下がり始めてからは眠れるようになった。
消灯からしばらくして眠り、次に目を覚まさすのは看護師さんが朝を知らせてくれる時間だ。
そしてなんでかわからないが2日からずっと続いていた微熱もここで下がってくれた。
コロナの発熱も含め平熱にならない日々が3週間ほど続いていた。ここで決着。ヨシ。
そして、コロナ隔離病棟でもリハビリが始まった。
順調に行けば歩行訓練を開始する予定だった日は過ぎてしまった。
もたれかかることなく座ることができるようになった。
ひょろひょろの一歩を出して、ベッドから衣類などを片付けている棚まで伝って歩く。ほんの一歩程度。
立って腰がぐんと伸びるのを感じる。身長が高くなったかもしれない。そんなわけないけど。
立つ練習はコロナに罹患するほんの少し前にやった気がするが、あのときは全身疲労で立って見える景色など見えていなかった。今回はやや余裕があって外を見ていられる。嬉しい。外は雪だ。冬。今は冬だ。

自分で座る許可が出て、食事を背もたれなしで摂ることになった。看護師さんが「座ってる〜〜!すごい〜〜〜!」と喜んでくれた。
私は心の中で看護師さん介護士さんへの「カワイイ」を常々持っているがこれは心から漏れ出て口から出してしまいそうだった。
その声色と見える笑顔がとんでもなくかわいいです…。
「カワイイ」から得る元気、あります。 

ちょうどその頃、私は自分にとっての原点の1日を思い出していた。
これは毎年思い出す年中行事のようなもの。
2008年1月25日、こまつ芸術劇場うらら 大ホールで行われた「ミュージカル『テニスの王子様』The Progressive Match 比嘉 feat. 立海」を観劇した私のテニミュ記念日である。
今年もこの日を迎えた安堵。そしてこの日をこんな状態で迎えているという悲しみ。
この日に「ミュージカル テニスの王子様 ベストアクターズシリーズ008」の1曲目「SUMMER BREEZE」を聞くのがお決まりだった。
これは観劇したときに物販で妹が購入したCDだ。
小松からの帰り道、ずっとこのアルバムを聞いて帰った思い出の曲。
この曲がスマホに入っていない。ウォークマンに入っている。
ああ、喪失感。急に大きなものとしてやってくる。心が寂しいと言っている。
「ミュージカルテニスの王子様」を知ったのは中学3年生の春休みだった。
そしてテニミュを知って約1年後に幸運なことに劇場で観劇できた。
高校生の頃はテニミュ一色の青春を過ごした。大好きな人がいるから楽しみがあり、様々なことを乗り越えられた。
そうして今、乗り越えられるかわからないものを目の前にしている。
テニミュにも助けられたかった。この日を迎えるにあたり私はスマホに「SUMMER BREEZE」が入っていないことをもちろん確認していた。どうすることもできないことだが、この日に「SUMMER BREEZE」を聞きたかった。
この日に「SUMMER BREEZE」を聞けなかったが、古川雄大さんの「PASTEL GRAFFiTi」の中にある「キズナ」を聞いていた。古川雄大さんの「PASTEL GRAFFiTi」を私はずっと聞いている。高校生の頃に聞いていた大好きな曲が色褪せることを知らない。
高校生活で忘れられないことはある。それでも忘れたことの方が圧倒的に多い。思い出せなくなったクラスメイトの名前、顔。お世話になったはずの教師の記憶も遠くなる。どういう風に授業を受けて、放課後はどう過ごしたかそんなことももう覚えていない。
それなのに大好きだった音楽は忘れられない。「ミュージカル テニスの王子様」の作中に歌唱された曲を懐かしいと思えないのだ。懐かしいと思うことなく、高校生のときから今に繋がっている。
「PASTEL GRAFFiTi」もその頃にリリースされたミニアルバムだ。リリースされた2008年に楽しんでいた曲を2024年になっても愛しいと聞いている。そういう思いもあるが、自分が何も変わっていないことに焦りを感じることがある。15年ほど経ったのにまだ高校生の気持ちで過ごしているのかと己の未熟さに呆れる。
それでもこの日々を「0」として今、原点に戻り、新たな気持ちで「1」に進む準備をしたかった。
始まりの鐘として「SUMMER BREEZE」を聞きたかったのはある。リスタートはここからだといつまでも暗い気持ちを連れている私に別れを告げたかった。
「SUMMER BREEZE」に託したかった気持ちとそれが叶わないこと。CDやDVDが無事なのかそのときの私は知らなかった。もう同じように再生することができないと寂しくなる気持ちが大きくなる。
それでも、思い出す劇場で観劇した日のこと、DVDで見た作品、ライブ会場で楽しんだ時間、その後の俳優さんのみなさんのご活躍。…何をどうしても力が湧いてくるな。現時点で座ることしかできない私だけれど、舞台上で歌い、踊り、熱く試合をし、カーテンコールでは誇らしい笑顔で笑っている彼らを思い出すと生きるエネルギーが欲を出す。まだまだだ。
テニミュを卒業され、その後のご活躍をすべて見ているわけではないが、彼らのあのときのあれこれが今も私を勇気づける。
「キズナ」という曲は7分を超える曲だ。7分間、ずっと古川雄大さんを好きだなと思う気持ちでいられる。贅沢な時間を過ごした。いつだってエンターテイメントに勇気をもらっていることを実感した。ここでも私の原点にいる彼らに助けられた。揺るがない私の原点だ。

さて、解熱をしてちょっと調子が良くなってきた私はこれまた微熱と共に抱えてきた便秘についてもそろそろ突破口を見出したいと思うのです。
体を動かすことがないので腸が動かず、まったく便を出せていない。
出し方もあんまりわからないし、すっきりとはほど遠いところでもがいている。
便を出すことがこんなに難しいなんて知らなかったな。
下剤を飲んでもすっきりは出せない。
それでもあまりにも出ないので1週間ごとくらいに下剤を飲む。
便意はあるのに出ないという日々だ。
しかし、これもまた突然に出すことを覚えた。
その日は下剤を飲んだ日だったが、オムツで排便する技術を急に身に着けたのである。
ちょこちょこと出てはいたが、約3週間ほど溜め込んだものが出せたという感覚があった。
出すのはしんどかったが、それでも便秘から解き放たれたかもしれないという積み重ねてきたストレスが解消された。
その日以降はオムツでの排便を完全に会得したように思う。

コロナ隔離病棟で過ごすのも残りわずかというときに、その日担当してくれた看護師さんが私の治りかけている右太ももの擦り傷を「痛かったね」と撫でてくれた。まるで慈しむように傷をさすってくれる姿はほんの数秒だったと思うけれど私はものすごくゆっくりと流れる愛しい時間のようにして覚えている。
ナイチンゲール、マザーテレサ、子供の頃に本で読んだ偉人の姿が後ろに見えたような気がした。
愛を分け与えた人のように記憶しているが、愛をもらった人の気持ちは書いてなかったな。
手袋をしているけれど、その手から伝わるぬくもりは触れるというだけでなく、あたたかくやさしい気持ちが直接自分の心へと送り込まれていくような感覚だった。
家の前で転んだとかの軽い怪我を家族が手当てをするとも言うだろう。私が受けている処置とはまた少し違う段階のことを指すのかよくわからないけど。それでも手を使って撫でてくれたこの行為に傷の修復を促す確かな根拠がなくとも私には必要なことだったように思う。
手から伝わるやさしさが心に届き、少し晴れやかな気持ちになる。傷を見るのも嫌だし、摩擦で色素沈着したのか他の部位よりも浅黒い色が広がる肌にため息が出るけれど、嫌な部分を「痛かったね、頑張ったね」と大切にしてくれる。自分では作り出せない感情だ。そう見えない。忌々しい記憶と後悔の跡だ。だが、人から受け取るあたたかいもので自分の見方に変化が起きる。怪我に対する嫌悪感が少し小さくなった。

13.後悔という熱量は希望よりも強い力を持つ(ほぼ愚痴)

コロナ隔離病棟から出る日が決まる。
ちょうどこのあたりに家族グループラインに全壊している家の写真がアルバムにアップロードされた。
1月1日以降どうなっているか、どうなってしまったのかわからなかった家を初めて見る。
玄関側は後ろから押されたかのように前に倒れて崩れているし、階段の踊り場があった家の後方部分は剥がれているように見えるがかろうじて形を保っていた。
地盤がよくなかったのであろう場所は崩れ、コンクリートで補強していたはずなのにそれさえも剥がれ落ちて地面が見えていた。前にも後ろにも家が崩れている。
自分があのとき見たものよりもずっとずっと被害は大きかった。
脳内でとある大佐の声で「ごみのようだ」と聞こえる。
こんなの大きなごみじゃないか。そう思った。
でも写真をズームしてよく見ていると見覚えのあるものばかりが写っている。
ぐちゃぐちゃで何がなんだかわからないように見えるけれどそこは確かに私達が住んでいた家だ。どれも知っている。
外に飛び出してしまった物ももちろん知っている。ごみじゃない。
こんなにも荒れ果てた家のどこに家族はいて助かったのだろうか。
運が良かった。たまたま大きなものが落ちてこない場所にいた。
そこから安全そうな場所に移動した。そう聞いた。
私が外に出ようとしたとき、走れないほど揺れは大きく家が崩れており、玄関ドアの直前で土壁が迫ってきたことを覚えている。それでも走った。
母親はもう一歩で外に出るところにいたが、私に迫る瓦屋根を見て体が動かなくなったと聞いていた。そして玄関が崩れ落ち、下敷きになった。1秒ごと、いや一瞬で状況が変わる。
それぞれどこかのタイミングで何か違えばより安全、もしくは最悪の事態になっていただろうと振り返る。
自分で選んだ外に逃げるという選択は後悔していない。だが、逃げる場所が違えば怪我をしなかっただろうという後悔は残る。
現に夢で見た地震では大丈夫だった。被害のない畑に逃げていた私がいた。後悔をどうにかして塗り替えたいのだ。
また、2階部分の自室は物はぐちゃぐちゃで床の一部分が抜け落ちているところはあるが比較的に被害が少ないと知った。

私は今回の地震で2つの後悔がある。
ひとつは逃げた場所だ。より安全な場所があった。
ふたつめはこれだけは守りたいと抱えたウォークマンとヘッドフォンを持ち出していたことだ。
心残りはたくさんある。数え切れないほどたくさんだ。それでもどうにもできないことだから受け止めるしかない。
だが、自分が選んだ行動でどうにかなったかもしれないことに関しては後悔として重く心にのしかかっている。
ウォークマンとヘッドフォンは部屋に置いたままの方がよかったのかもしれないという事実を私はまだ消化できていない。
祖母が誕生日祝いとしてくれたお金を一部費用にして購入した勇気のある買い物だった。
ウォークマンをまず購入し、そして次の年にヘッドフォンを購入した。音楽環境のアップデートを自分の誕生日の祝いとして楽しんでいた。
ウォークマンで音楽を聞くことがより特別な時間となり、楽しい時間が増えた。
ヘッドフォンも聞こえる音がイヤホンとは大きく変わり、夢中になって聞いていた。
これまでの地震によりヘッドフォンから距離を置いて音楽を楽しめない時間を過ごしたこともあるが、それでも音楽から得る心のやすらぎ、元気、勇気、パワーは確実に私の命を明日へと繋いでくれていた。
その大切にしていた2つを失った。
ヘッドフォンを心の拠り所として生活していたここ数年は安定していたように思う。それがない。ないというプレッシャーがある。
ウォークマンにも大好きなものをすべて詰め込んでいた。
スマホに入っている音楽は少なく、ウォークマンが音楽生活のメインだった。
自分の人生に音楽を添えるという感覚はなく、聞いている音楽に私が寄るというのが私である。
大事なものを失くした。持ち出さなければ失くすことはなかったかもしれないという後悔が毎日少しずつ大きくなる。諦められないのだ。これに関しては。
自分の怪我は命が助かったという部分で後悔は何度も繰り返すもののベストを尽くしたのだと言い聞かせられる。
しかし、失くしたものは完全に私の欲が出ている。
そこをなんとかできていれば今も私の横にあるはずなのだ。
悔しい。どこのタイミングだろう。
1回目の地震のときに私は自分の心を整えるための水分が入った水筒を持ち出したはずだ。揺れが収まったときそれを玄関に置いた記憶がある。それと同時に避難場所へ行くかもしれないからと心の拠り所とするヘッドフォンを掴んだような気もする。水筒、ヘッドフォンどちらかわからないが私はどちらか、もしくはどちらも手に持っていた。
2回目の地震で外に出たときもそれのどちらかもしくはどちらも手に持っていたはずだ。ウォークマンも。
崩れ落ちてきた建物から逃げるとき、手を離した。ガチャンとコンクリートに落ちた音を聞いた。それを鮮明に覚えている。それを忘れられない。私が落とした。命の危機を感じて走ったときに。
命が助かっていることで最後の後悔をいつまでも連れている。
思い入れのあるもの。心の拠り所としてきたもの。
ヘッドフォンで音楽を聞けない期間でもヘッドフォンがあることで心を保っていた。この後悔。ずっと言い続ける。
比較的に無事だった私の部屋から、大切なもののいろいろを探し出してもらった。
自分を証明できる免許証、通帳、おくすり手帳など。
そして早々に出してもらったイヤホン。
このイヤホンは妹と家電量販店で聴き比べをして吟味を重ねた結果選んだ品だ。思い入れを深くして物を大切にする心を育んできた。モノに思いを込めて宝物にしてきた。これがあるから私は今日まで心を繋ぎ止めて生きてきた。
モノを購入するとき、自分はこれが1番だとポジティブな気持ちで選んだはずなのに簡単に捨てられるモノがある。誰かからいただくものは包装のリボンまで大切にしたいと思う気持ちになる。独りよがりでは呆気なく飽きが来てなんの感情も持てなくなるから愛しい時間とその思いをモノに加える。そうやってモノを大切にする気持ちを持ち続けてきた。
ウォークマンとヘッドフォンという心の大半を占める拠り所セットについては後悔が残りすぎている。思い入れが強すぎる。祖母がおめでとうと言ってくれた誕生日は次の年が最後だった。思い出の中ではなく、今を生きる。お別れをした祖母と生きる今をそこに感じていた。祖母の作ってくれたおいしいごはんを栄養にして大きくなった。祖母の愛情が私の体の細胞の一部となっていると思う。それでも私自身を大切にしようと思っても大切にする方法がよくわからないから、自分の身の回りの物を大切にすることで自分を大切にできていると確かめたい。それで安心してきた。しかし肝心の物を失くしてしまった。急に生き方がわからなくなる。遠くへと彷徨う心をこっちにおいでと引き戻してくれる自分の心が帰る場所が見えない。
あの悲惨な状況から取り出せたものはノートパソコンもある。
無事なものが見つかるたびに後悔は色を濃くする。
あのとき部屋に置いていく我慢ができていれば。本当に言い続けるよ。ダメだ。悲しい。悲しくなってくる。後悔を一度眠らせよう。

ハイ。
家の惨状を見ている頃、災害ボランティアで街を訪れてくれたアーティストのSNSをネットのニュースで見た。これはコロナ隔離病棟から出た後だが。
津波があった祖父母宅の写真を見る。今こうなっているのか。
新聞などを見れていないので私は情報が少ない。そしてネットで検索する勇気もなく、トピックにあがるものだけを見ていた。
1ヶ月経っているようだが、昨日災害が起きたかのように何も変わっていないという言葉を見た。
私もそれは何となく思っていた。
復興に向け、進んでいるはず。毎日、何かしら変化があるはず。
ライフラインの復旧作業などではなく、目に見えてすぐわかる街の姿に期待していた部分がある。
でもそれがない。ガーッと大きな機械を走らせて家をガガガッと集めて土地を綺麗にするなんてできないんだ。
住んでいた人が所有していた物たちがそこにある。ごみじゃないものを取り出さなければ解体もできない。
それをやる人たちだって被災者だ。生活をしながら、仕事をしながら、片付けをする。それはいつ?
家の片付けのために1日の時間が特別増えるわけもない。
24時間で終わる1日、生活のためにかかる時間、仕事の時間、休息の時間。
誰も無駄な時間など過ごしていない。抱えている問題が大きすぎる。
1ヶ月という節目、期待しているような復興はまだまだ遠い。
何を期待しているか。私が期待している復興は、家があり、部屋には母がいて好きなドラマをスマホで見ている、父は外仕事かで田んぼにいるか畑にいるか、家の中にいれば近所の誰かが作業をしている農機具の機械音が聞こえてくる。家の外に出れば近所のおばあちゃんたちに会って「こんにちは」なんて声をかけてちょっと話す。そして長い休暇には遠くに住む家族が帰ってくるような日常だ。
それをここでまたできるのかと考えればまあわからないとしか言えない。
高齢化が進む過疎地だ。またここで会おうと約束をしたおばあちゃんとまた笑顔で会えるかもわからない。
遠いところにあればあるほど会える人が少なくなっていくという焦りもある。
日常をもう一度。日常が遠くおぼろげになり思い出せなくなる前に。
焦り、不安、現状がわからないこと、すべてにおいて心が揺らぐ。
大丈夫だと思えない気持ちが育つ。
そのたびに思い出す歌詞がある。アイドルマスター Side M内のユニットLegendersが歌う「Symphonic Brave」という曲にある「君が立っている世界で誰かが夢を叶えたんだ」という言葉だ。
これほど励みになる言葉はない。絶望するしかないほどのことも起きてきたはずだ。けれど、誰かの想いを繋いで世界は今日も止まることなく動き続いている。
今日も誰かの夢が叶う世界と私がいる世界は同じだろうと信じることで救われる何かがある。歌詞の方向へと自分を向けてもう一度気持ちを確かめる。気持ちを離すな。

14.目指すやさしさの方向性(回復期病棟での日々)

コロナ隔離病棟から出た私は回復期病棟へと入った。
車椅子に移乗できるようになり、世界は大きく広がった。
コロナ隔離病棟へはストレッチャーで移動をしたが、コロナ隔離病棟を出るときは車椅子を押してもらって出てきた。
天井しか見ていなかった私だが高さはだいぶ低くなったけれど前と同じような目線に戻ってこれた。おかえり世界。いや、ただいまか。
回復期病棟という場所に少々の場所見知りはする。知らない場所だ。
10日ほど過ごした急性期病棟の看護師さんや介護士さんはいない。
10日過ごしたコロナ隔離病棟の看護師さんも介護士さんもいない。
10日ほどで過ごす場所を変えてきたなと振り返る。
ここでどういう風に過ごすのかと期待と不安は半々どころか不安しかなかった。
これまでベッドから出たことがない。ほとんどない。約1ヶ月間の世界のすべてはベッドだった。ベッドにいることに飽きが来たらどうしよう、ここにいることに限界が来たらどうしようという不安もあったが、いろんなものに支えられ、助けられ、ベッドで過ごす生活に我慢ができないと暴れる日はなかった。
そして回復期病棟ではどんどんベッドから離れていくことをやっていくことになっている。次はそっちに不安がでる。これまでベッドでしか過ごしてこなかったのにどうやって生活をするんだと、12月31日までの生活をすっかり忘れてしまった。ということを考えていてもどんどん離床の話は進んでいく。
まず卒業したのは尿道カテーテルだった。トイレに座って排泄をする。1ヶ月振りだ。移動は車椅子なので看護師さんか介護士さんに連れて行ってもらい、ちゃんと立ってズボンを降ろし座れるところも見守ってもらう。尿道カテーテルを挿入していたので尿の量も測ってもらい、問題ないか、そして膀胱に尿が残ってないかも確認してもらう。
すごいいろいろ見守ってもらっている。それが私の最初の感想だ。
1ヶ月振りに座った便座はあたたかかった。まずはトイレで排泄ができるようになった。人間への道の第一歩だ。
最初の頃はトイレに行く回数が多く、頻繁にナースコールを押した。その際に申し訳ないという気持ちが出る。それでもここのみなさんは明るく対応してくれた。
車椅子をトイレまで押してもらうときは一対一になる。そのときに必ず会話をする。年齢が近い看護師さんは「よろしくね〜」ととても素敵な声で挨拶をしてくれて車椅子を押してくれた。ここで頑張れる背中も押してくれた気がした。
回復期病棟ではシャワーの許可も出た。私はこの1ヶ月、転院した翌日に髪を洗ってもらったきりで水に触れていない。体は拭いてもらうことで清潔を保ってきた。
保湿ということを一度もしてこなかった私の肌はガッサガサになり粉が吹いている。髪はベトベトのペタペタだ。自分の髪を触りたくないと思いながら過ごしてきた。頭のかゆみなどがあっても絶対に触らないと誓いをたてた。セブルスとナルシッサ、そしてベラトリクスが行った儀式を脳内で何度も繰り返した。絶対に触らない。
そもそも手を洗うこともできていないので、手を汚したくないのだ。
その私が得たシャワーの許可。ものすごく嬉しかった。人間へとまた一歩近付ける。湯を浴びる。あたたかい。念願のシャワーはものすごい量の髪が抜け落ちた。介護士さんからは「すごい量の髪があるけどこれ1ヶ月分まとめて今ここに落ちただけやから大丈夫やよ」的なことを言ってもらえた。安心した。
1ヶ月振りに見た鏡に映る自分の体は思っていたよりも痩せこけていなくて安心した。だが、足の筋肉は落ちてしまいマモーのような体だった。細くなりたいとか、スタイルよくなりたいとか常々思っていたが、嬉しくない痩せ方をしてしまったと落ち込む。こんな貧相になってしまったのかと落ち込む。
シャワーが終わり部屋に戻るまでにたくさんの看護師さんや介護士さんが「お風呂入れてよかったね」と声をかけてくれる。心の復活。喜ばしいことをさせてもらった。できるようになった。というか、はじめましての方も私が1ヶ月振りのシャワーだと知っているのか。「よかったね」と声をかけてくれるその顔を見ると目がやさしい。きっと笑っている。声も明るい。ここはすごくあたたかい場所だ。やっていけそうと希望を持てた。

夜勤の看護師さんは交代してから「夜はよろしくね」とひとりひとりに声をかけてくれていた。よろしくするのはこちらだと思うのだが、夜になってここにいてくれる看護師さんの顔を知っているというのは心強かった。
介護士さんはお茶を配ってくれるのでそのときに必ず一言交わす。
全員に同じことを言うのだろうが、それでもいまここで自分に向けられたものというのはすごくありがたかった。いまこの人の時間を私がもらっているのだと思う。自分のために時間を使ってくれることを感じて心があたたかくなる。どの場面でもそうだった。それをここで再度確認し、これまでの期間にあったいろいろなことが感謝の気持ちで繋がっていくのを感じた。どんなことも感謝という糸で縫える。全部失くした喪失感を感じたあの日から今日までを縫い合わせることができる。失くしたものは確かにあるけれど私がからっぽなままじゃないと思えた。
「山崩し」のゲームのように不安定な場所に立ち、からっぽな私は地盤が崩れたら私も一緒に倒れるような気がしていた。崩れたらそのままそこに落ちているしかない。地盤となるのは私が大好きなものたちだ。そこに支えられてこれまでやってきた。好きという気持ちを自分で生み出せなくなったら倒れていくしかないものだと思って1ヶ月生きていた。
それでもここで心の中に入れてもらってきたものを思い出すことができた。それの体験をひとつひとつ確認しながら繋げていくと自分の中に何かがあるのを感じる。ああ、愛しい。やさしさというものが心に広がっていく。転んでしまったら手で体を起こし、足を踏ん張り立ち上がる。倒れてもまた立ち上がることができる自分を作っていこう。そう思えた。
やさしい人たちに感謝をしながら自分を見つめ直すことを始めた。これからを生きる私が私をどうするか、そういう方向性。

ここの病棟では能登出身の世代の変わらない看護師さんがいた。
1月1日は同じく被災していた。いろんなことを話した。地震のこと、地震には関係ないこと。
「何ができるかわからないけれど、絶対に何かできる。故郷のために頑張ろう!」と彼女がたびたび言っていた。隣から見るその眼差しはとても強く美しかった。眩しさでよく見えないとすら思うほどに強く輝いていた。
私はその彼女の目を見るのがすごく好きだった。まっすぐに前を見据える綺麗な目。その目にはどんな未来が見えているのか。私も頑張ろうと思えた。隣を見るのではく、私も顔を前に向けて描く未来を共に見るんだと思うことができた。

まずは怪我の治癒やリハビリをしっかりと完遂せねば。
私の左手は傷の処置をしなくても大丈夫なくらい治ってきていた。
もうガーゼを当てなくても大丈夫と医師に言われた次の日、爪あたりから膿が出た。三歩進んで二歩下がるやつですか?ふたたびガーゼが巻かれた。
左手の薬指が傷として長く時間がかかっていた。擦り傷ってこんなに治るのに時間がかかるのとたびたび落ち込んだ。
それでも膿が出たおかげで指の腫れが少しよくなり、見た目はまだましになった。
爪は内出血の名残か健康的な爪の色とはかけ離れた色をしていた。
骨折の怪我は外から見えないのでまだいい、骨盤や太ももの擦り傷も服を着てしまえばわからなくなるからまだいい、だが、何をするにも絶対に目に入る手の傷は地震で怪我をしたことを必ず思い出すので好きじゃなかった。見るたびに心がしんどくなるのだ。
体からどかせるために重たい梁を押し返そうと地震に抗う血に染まった左手が未だに見えるのだ。私の左手の向こうに梁がある。右手は妹が握ってくれたからそのぬくもりを覚えている。しかし満足に使うことのできない左手の思い出がそれだ。誰かこの手を握って記憶をアップデートしてくれないか。
まあそんなこんなで左手の傷を敵と認識する私は左手のよい変化を知ることになる。新しい爪が出ていることを知った。生え変わろうとしているのである。主治医は「爪はポロっと取れるから安心して」と言ってくれた。爪がポロっととれる経験がないため怖いのだが、取れるときに痛みはないとたくさんの人に言ってもらったのでなんとか受け入れる準備はできている。
この爪も本当にたくさんの人が見てくれた。「よかったね」「新しい爪が見えてきてる」「こんなに傷があるのにちゃんと再生しようと頑張ってるのがすごい、人間の力ってすごいね」私のこれを見て自分のことのように嬉しいと喜んでくれる人がいた。
すごいんだ。たくさんの人に「よかったね」と言われるんだ。本当にありがたいことだ。顔を上げれば目がやさしくなっているのが見える。マスクをして半分見えないはずなのにそこに笑顔が見える。不思議な気持ちを味わう。怪我は嫌だ。しない方がいい。それでもここでぬくもりに触れた。あたたかさで心が満たされる。いつか、きっと。いつか、きっとこのあたたかさを私も誰かに、とそう思う。

15.青い春を寝かしつける(リハビリ〜歩行訓練〜)

地震の後悔ではない、私の高校生活の後悔。
部活をやりきれなかったこと。
高校3年生の初夏、次の大会への出場権がないところまで部活動に参加し、数人の同級生と共に引退をした。その事実はある。
問題は中身である。ただこのスポーツが好きという気持ちだけで続けてきて、最後の夏を前にして熱く懸ける思いがない私は最後に臨むと士気を高めるチームメイトとのかけ離れた距離に悩んでいた。
「勝ちたい」という気持ちがないのだ。雰囲気が良ければいいなと思う。部活に求めるのはそれのみだった。全国制覇と目標を掲げる運動部に入部していて致命的である。
私は団体戦に出場するレギュラーメンバーではないし、レギュラーに入ろうと思ったことすらない。闘争心に欠けている。チームの勝利のために何かできるわけでもない。信頼するチームメイトが栄光に微笑むとき、私はずっと観客に過ぎないと思っていた。大好きでたまらないチームメイトが素晴らしい活躍をする。それをいつも嬉しいと感じている。もう客でいいのでは?私はお客さんだ。この部活に所属しているけれど客なんだ。そう思うことでより中途半端な気持ちになっていった。
それでもこのスポーツが好きだなという気持ちで退部せず、引退までやった。どうしても勝利への執着というものは持てなかった。「勝利」を手にするための感情は明るいものだけではない。悔しさならいい。苛立ち、それが他に向けられるという点に関してものすごく違和感を覚えていた。理不尽な苛立ちをぶつけられた誰かが隠れて泣いている姿を見たくない。自分のすっきりのために誰かに八つ当たりをすることに疑問を抱く。「勝ちたい」という気持ちが汚れた欲望に見える。振り返ってみれば私は青かったのだと思う。勝利への執着と私の勝利への憎しみは中身こそ違えど同じくらいの熱量を持つ勝利に対するこだわりだ。どこに気持ちを持つかが違うだけ。自分のことしか見えていなかった。
それは部活から離れてからわかったことなので、当時はこの気持ちの修正ができないまま、チームにくっついてまわる客の気持ちで最後の日を迎えた。
高校の部活動ではとても素晴らしい体験をした。けれど、技術の向上のために考えを深めひたむきに努力し上達を目指すことに熱量を注がず、闘志を燃やし最後の最後まで粘り強く試合に挑むということをできず、何もしないまま終わってしまったことを忘れられないのだ。あんなに時間もお金も費やして得た経験に達成感を味わうことなく、「やっと終わる」と部活から離れられたことに安堵した最後の感情が嫌だった。好きなのにできなくなったことにほっとしている。それが後悔として色濃く残り、大人になってもまだ夢に見る。引退までいたはずなのに、明日が県総体当日という日に「私、退部するんだ。もうやめる」とチームメイトに言っている夢を。そこでいつも起きる。ちゃんと次の地方大会の出場権利なしまで試合をしたのに。引退前の最後のミーティングにも参加したのに。顧問の言葉を覚えているのに。
人生でいくつもある後悔でこれが1番リピートされている。夢に出てくるのだ。事実とは異なり、逃げて早々に終わらせようとする私がいる。最後をどうにかしてでも捻じ曲げたい気持ちがあるのだと思う。心残りがあっても終わりを自分で選んだなら後悔は減るからだ。振り払いたいと足掻くたびに後悔は色を濃くする。
 
こういった思いから何もしていなくても終わってしまうことが怖い。
リハビリでは理学療法士さんの指示に従い、それを行えば終わるだろう。私はただやって時間が来れば解放されるというのをどうしても避けたいと思っていた。
運動にしても体を動かしてさえいれば、心ここにあらずのままでも終わることができるのだろう。訓練もいくつかの課題をクリアさえしてしまえば終わりの日が来てここを退院するのだろうと思う。そうやって雑に楽をしてもどこかで必ず終りが来るのだと思う。
だが私はリハビリをただやって終わりでは嫌だと思っていた。
ここでは知識を持った理学療法士さんが筋肉の量や動きなど総合的に理解して私に適した理学療法をしてくれる。
これとないチャンスだ。ただやるを終わりまでやり、後悔を残した高校の部活動。ここでは知識を伴って身体機能の向上を図れる。あのときとはまったく違うけれど、思考と実践で実を結ぶ人体実験ができる。戦う相手はいないが、自分の基礎を形成できたという事実は作れるはずだ。
そういうことを無事に転院を終え、リハビリが始まったときに考えていた。座るすらできなくて体を支える両手がプルプルと震えていたときのこと。
幸い今回は私は患者であるから、人間関係に落ち込むことはまずないだろうと思った。理学療法士さんたちは私のところに来てくださるときやわらかい空気をまとって来てくださる。そのご厚意に甘え、人体実験がどういう経過を辿るのかきっちり観察し、人間生活に戻るための様々なことを獲得する。一対一なので参加も不参加も何もないと思うが、肉体と精神どちらもきっちり参加させると魂を燃やす。

そんなこんなで急性期病棟ではまずベッドでできる運動から始まった。ここで自分で体を起こして座り、そして車椅子に移乗がなんとかできるというところまで育ててもらった。育ててもらうにあたり、この運動ではどこの筋肉を意識するかというところをいつも尋ねていた。足を動かすために使う筋肉は意外と遠い下腹部あたりににあったりしてものすごく学びになった。全部覚えられたわけじゃないけれど、尋ねたら絶対に答えてくれる、教えてくれるという師を前にして私はより一層リハビリに熱意を持つようになった。
靴を履くということすらできなくなっており、かかとを靴に入れるため屈んだときは太もも裏が千切れると思ったが千切れることはなかった。眠った太ももの裏の筋肉に突如訪れた急な仕事だったが問題がなかったんだろう。靴を履いたときは嬉しかった。前の当たり前がこんなに嬉しいだなんて知らなかった。

コロナ隔離病棟でもベッドで運動をし、少し立つという練習をした。運動自体は変わらないのだが、少し日が空いてしまうと忘れてしまうこともあるので、ここでも意識するところをいつも教えてもらっていた。
コロナの発熱で体力もさらに落ちてしまい、しんどいことは増えたが、筋肉が頑張ろうとしているのは嬉しく思っていた。嬉しく思うと同時に筋肉痛が常にあるようになった。
体も動けるようになっていたので、今の私がここでできるストレッチを教えてもらった。ぐんと伸びるストレッチは心地よく、翌日の筋肉痛も軽減してくれ、とてもよい学びとなった。
ここでの担当さんはほぼほぼ同世代ということから見て育ったものに共通するものが多く、私の所持品などから推測して楽しくなる話をたくさんしてくれ、楽しくリハビリができた。

回復期病棟では主に2人の理学療法士さんが担当してくれた。
1人はコロナ前に一度、回復期病棟で担当するからと一度リハビリに来てくれ、ここでのリハビリに不安がないようにするとしっかり伝えてくれた太陽の神である。
もう1人はここに勤務している理学療法士さんで1番あたたかな眼差しで患者さんを見守っていると太陽の神が話す月の神だ。
ここで私を担当してくれたおふたりを神としてしまったが、私が地球を歩くためのすべてを心身共に支えてくださったおふたりなのでこのまま一生私の中で神と崇めてもよいだろう。

午前、午後と毎日2時間程行われるリハビリは部活動のようなものだった。午前練習、午後練習ときっちりある感じが懐かしい。
だが、まともに運動をしなくって長い人間からしたら、苦行でもある。それでもだんだん楽しくなってくるのだから私は単純だなと思う。一緒にいる人が私を決めるのだろう。楽しく過ごせたのは理学療法士さんたちのおかげだ。

回復期病棟で車椅子を使ったのは3日くらいだったと思う。
すぐに歩行器に移行した。平行棒で歩く準備の練習をし、手を離して歩いた3メートルほどの距離はとても長く感じた。一歩目というのは果てしなく緊張するな。出したら歩かなきゃいけないんだもん。歩くということは足を交互に動かすだけじゃないと身を持って知った。交互に動かせたとしても全身のバランスをとる筋肉がへにょへにょだから、すごく左右に揺れて歩いた。
それでも歩くことが何より大事ということで歩行器での棟内移動が許可された。車椅子を卒業ということは看護師さん、介護士さんとの一対一のハッピータイムが減るということだった。えー、ちょっと寂しい。しかしこれは杞憂だった。検温に訪ねてくる看護師さんとは会話をするし、介護士さんにお茶はいただくし、食事の配膳でも必ず顔を合わせる。笑顔を見る機会はたくさんあるのだ。それに加え廊下でリハビリをする私はたくさんの人に声をかけてもらっていた。すれ違うときにも多くの方に「頑張れ」と言ってもらえていたのである。たまに同じ病棟に入院している患者さんにも「頑張って」とエールをもらっていた。幸せものだ。

歩行器を使用するようになって、目標1日3000歩というミッションが加わった。棟内の廊下をひたすらに往復した。
私は歩行器との親愛度は深まるばかりだった。トイレに行くときも歩行器、お風呂に行くときも歩行器、歩行器とはズッ友だ。
歩く歩数の目標が決まり、スマホに歩数計をインストールした。歩数計で歩数を気にするようになってから、介護士さんたちが、スマートウォッチで今日の歩数を見せてくれるようになった。「今どんだけや?」と気にかけて話しかけてくれるのである。そうやって廊下で介護士さんに会って会話をする。「頑張れ」と言葉をもらう。笑顔をもらう。ありがたい。みんなに見守ってもらっている。
私は3000歩を稼ぐためにいろんな時間にうろちょろしていた。
朝、リハビリが始まる前にちょっと歩く。筋肉痛でバキバキの体をちょっと動かしてストレッチをして問題なくリハビリをするためだ。昼はごはんを食べてちょっとゆっくりしたら、午後のリハビリに影響しない程度に歩く。夜はもうやることがないのでゴールデンタイムだった。タイヤが回る音と、ペタペタと頼りなく歩く私の足音が静かな廊下に響いていた。
そうやっていくうちに、「安定してきたね」などとも声をかけてもらった。見てくれる人がいる。自分ではわからない変化を気付き、言葉で伝えてくれる。よかったと安心できていた。
歩行器で安定したら次は歩行器からの卒業も見えてくる。
歩行器を卒業したすぐは歩行器がないだけでこんなに疲れるのが早いのかと落ち込んだ。頼るものがなくなると自分で立つしかない。それがしんどい。
それでも歩く習慣は続けた。休憩がやたら多い散歩は退院する日までやった。

理学療法士さんとのリハビリは毎日楽しくやっていた。
担当してくれるおふたりは私に合わせていろいろなことを考えてくださっていたこともあり、精神面でもものすごく支えてもらった。
体調が良くない日とか、声が出しにくい日とかそんなこともあっただろうけど、いつも変わらず明るい雰囲気をまとっていてくれたおかげで私は充実した時間を過ごせた。

特にかけてもらう言葉はすごく力になった。
1番嬉しいのは名前を呼ばれるときだった。名前を呼ばれるということは幸せなことだと思う。歌詞に名前が入っている曲はむせび泣きながら聞くタイプだ。WEST.の「Summer Dreamer」、μ'sの「僕たちはひとつの光」、High×Joker「SEASON IN THE FIVE」など、何度聴いても目頭が熱くなる。唯一の特別に輝きが増す彼らのための彼らの曲。
AAAの「アシタノヒカリ」では「名前呼び合うたび 記憶のランプが灯されてく」と歌っている。地震で自分を証明できるものが何もなくなったと思った。自分の名前を自分で言える。それしかない。もし名前を言えず、まわりに私を知る人が誰もいなかったら私は身元不明の成人女性だ。
ここでは転院前の病院で私の情報があったから当たり前に医療を受けられるが、姉家族の住む街で病院にかかろうとしたとき、健康保険証を紛失している私は病院受診すら難しいことだった。能登半島地震を利用して不正に医療を受けようとしている人間ではないという証明ができない。名前を言っても、身分を証明できると思っていた免許証を出しても自分の証明は難しい。
名前だけでは心許ないけれど、名前しかないと思った。自分の証明について悩む私をいつも大丈夫だと思い直せるのは誰かに名前を呼ばれたときだった。とても幸せなことだと思っていた。
私のために私を訪ねており、名前を呼ぶのは形式上の必須項目のように思っているかもしれないけれど、医師、看護師、介護士、理学療法士、栄養士、薬剤師、ソーシャルワーカー、事務員、誰に名前を呼ばれても嬉しかった。名前を呼ばれるたびに私は私だと灯りを手渡されたように感じていた。
そう思っていたので名前が何より力をもらう言葉だった。
病室に入る前にノックをし、私のカーテンの前で神が名を呼ぶ。この時間を楽しみにしていた。今日もやるぞと気持ちを持つことができた。

「頑張れ」と応援してもらうこともすごく好きだった。
「頑張れ」という言葉を拒否する偏屈な私がいた。「頑張れ」に見合う成果を出せないと思っていたからだ。言われても困る。「頑張れ」の先にどうせ失望が来るのだから言わないでほしいと願うほどだった。そして自分が言う「頑張れ」にも支障が出る。プレッシャーを与えたいわけじゃないんだと口から出る言葉に制限をかけようとする。
それでもWBCのときには村上選手に頑張れと祈り続けていたし、バレーボールのパリオリンピック予選ではずっと頑張れと言っていた。座ったり立ったり土下座したり、とても落ち着きなくバレーボールを観戦していた。パリオリンピック予選での私の好きなプレーはヒェッと思う相手のスパイクを受けた日本がそれをレシーブし、石川選手が判断が難しそうなボールをアンダーかでトスして宮浦選手がスパイクを打ったその一連のプレーだ。とても好きだった。とても。石川選手のトスがちょっと短いのではと思ったけれど、左で打つ宮浦選手に合わせたボールだったとわかったとき、ドターンと後ろに倒れたい気持ちになった。チームプレーが美しすぎる。バレーボールという競技が楽しすぎる。家の壁に歴代の好きな選手の身長と名前をマジックで書いている。その高さを見上げるのが好きだった。父はマジックで書いたことに難しい顔をした。母はいいよと許可を出した。宮浦選手の名前を追加した。今回は養生テープに書いて。今回の地震で家は崩れてしまったが、母から「201cm  大竹壱青」「201cm 小野寺太志」と私が書いた壁紙の一部分を剥がしてきた写真が届いた。小野寺選手は養生テープだったのだが。書いたそれは瓦礫の中で塵屑となっていない。大切なもの。
バレーボールになると熱くなってしまう。軌道を修正しよう。筋力を上げる運動というのは疲れる。体力も筋力も低下するところまで落ちたのだから何をするにも疲れる。疲れるんだ。本当に疲れる。回復期病棟でのリハビリは午前と午後、それぞれ1時間ほど行われた。体力がなくとも、筋力がなくともそれをやる。無理のない範囲で回数が設定されるのだけれど、筋力を増やすというのは必ずしんどいが待っているのです。何度「疲れた」と言ったことでしょう。何度「もう無理」と弱音を吐いたことでしょう。何度「嫌だ」とやめたくなったことでしょう。そのたびに神々から「頑張れ!」とエールが届くのです。
筋肉が震えてくるだとか、限界を感じて気持ちが下を向こうとするときに必ず「頑張れ」と言葉で力をくれる。この「頑張れ」でもう一度自分を正し、そのときの今を乗り越えることができていた。
筋肉のプルプルという悲鳴や気力が続かないというギリギリのときに「頑張れ」と力をもらい、励めるようになるのはこれは何の作用ですか?エネルギーが底を尽きそうなときに言葉の力で補充される何か。筋力が増えるわけでもないのに運動を継続できる体の強さにも繋がる。「頑張れ」がありがたい。
辛さを見つけて必ず「頑張れ」と力をくれる。「頑張れ」とのわだかまりは完全に解消された。「頑張れ」と背中を押してくれる言葉がとても嬉しかった。

「できる!」と何度も言われた言葉に救われた。「頑張れ」に似ているように思うが少し違う。「できる」からは私がこの運動、訓練を完遂できると神々は知っているという信頼をもらっているように感じていた。
「できない」と思うことはたくさんあった。そもそも何もできなかった。回復期病棟に来た私ができるのは座って食事をすること、トイレで排泄することくらいだ。座って何かをすることが少しずつできるようになっていた程度。
しかし、ここからは歩くを獲得するためにリハビリをする。自分で立ち、体を支え、足を出し、それを繰り返す。歩くなんてまーーーったく想像できなかった。
よく聞いていたStray Kidsの「Scars」では立ち尽くす、倒れても立ち上がる、上を向いて歩くとどんどん歩みを強めていく歌詞に心を励ましてもらっていたが、立つことすらできない自分で過ごしていたときに「何もできない」という重たさというのを感じていた。できない、全部できない。乳児期にできるようになった歩行をこれまで何も考えずやってきた。逆戻りにも程がある。30歳を過ぎて数年、急に襲いかかってきた地震で失くした日常、そして運動機能。何もできないんだわ。気持ちの持ち方も忘れたんだわ。ため息が出る。できるのは落胆ぐらいだろうか。ちなみに私の歩くを会得するテーマソングはこちらの曲、Stray Kidsの「Scars」でした。
そんなこんなで、できない理由と動かない体への失望を麻雀牌のようにずっと混ぜていた。そういったぐちゃぐちゃの牌を並べてくれたのは神々だったんだと思う。私がこれから戦い抜く術をいまあるすべてから教えてくれた。麻雀のルールはわからないけれど。
ベッドの上でやる運動が安定したら、次は平行棒に手を添えて立ってやる運動が始まる。寝転がりながら、座りながらやってきた運動のネクストステージだ。
回復期病棟で車椅子を使ったのは数日だった。数日で歩行器で移動する許可が出た。棒を伝って歩く、歩行器で歩く、自分で歩く、歩くにもどうやら順序があるらしい。そして歩行を安定させるための筋肉はいっぱいあるらしい。歩行器で歩く、補助なしで歩く、足を動かしているだけと思っていた歩行の概念が変わる。ヒョロヒョロの私は足を交互に出すことも難しいが、体のバランスをとることも難しい状態だった。歩くって筋肉の総力戦なんですね。
歩行を安定させる筋肉を増やすこと、これに毎度毎度私は音を上げていた。運動の途中でも何度も「できない」と言った。新しいメニューが加わるときも「できない」と言っていた。この運動はどこの筋肉を鍛えて、安定した歩行のどこに役立つかというところも確認していたけれど、実際にやってみるというのは難しいものです。
歩くを完全に忘れた私にはピンとこないことがたくさんだった。それでもやった。意識するところを気を付けて。だが、「やる」と「できる」は違う。やってるけどよくわからないがある、そもそも完遂できるかわかってないそんなときにいつも「できる」「できてる」「大丈夫です」「合ってます」と肯定してくれた。「できる」と言われればできそうな気がする。「できた」ことに対する歩行時の安定もすぐ言葉で伝えてくれた。また、ちょっと課題がある不安定さに関してのフィードバッグが迅速なのである。いつもやっているあの運動がもう少し実を結べばここに繋がると教えてくれる。
課題は常にあり、難しいこともたくさんあったが、「できる」という信頼があってこその次だと思えば頑張れる気がした。「頑張れ」と送られたエールでやり終え、すぐに「大丈夫です」と今の自分を肯定してくれる。ものすごく私の扱いが上手い。絶対に落ち込まないようにフォローアップまで整備されている。難しいことをやる前に出る弱音に関しては目を瞑ってほしい。 

階段に挑戦しているときは毎日「ヤダ」と言っていたと思う。階段の昇り降りは体力を使う。頭も使う。昇るときはまだよかった。前に進む気持ちと前に足を進めればよかったから。降りるときに頭を使う。重心を後ろに保持しつつ、足を前に出して降りないといけないからだ。頼りない筋肉でそれをやる。一段一段やってるときはまあ全身の力がいるけれどくらいだったが、交互に足を降ろすとなると頼りない筋肉がプルプルと震えだす。震えても転ばないように耐えないといけない。筋力、精神力すべてを費やした。
階段強化週間という地獄WEEKは私を苦しめた。しんどいから避けたい。やりたくない。それももちろん言葉に出てる。でもやる。ちゃんと考えてやる。できたら「お疲れさまです」と必ず言ってもらえる。ここの脚の筋肉が安定していたとかも言ってもらえる。少しを見逃さない神々の目がすごい。嫌だけど必ず安心して終わることができる。

外へ歩く練習に行くときは最初は病棟から出ることすら不安に思っており、外に出て戻ってこれるかも不安だったが、ダメそうだったら私を持ち帰ってくれると言ってくれ、笑うことができた。
その安心を持っているからか自分が想定していたようなグダグダにはならず、外の空気を味わって楽しく歩いて来れたという達成感を感じているほどだった。
やることは変わらないけれど、私の見方が極端にマイナスに寄ってしまわないようにいつもやさしい言葉をかけてくれた。
めんどくさい患者という自覚はある。こんなんくらい普通にやってくれと思うこともあるだろう。おふたりが考えてくれた時間に私を辛くさせるものはなく、安定した心で終わりまでできた。ものすごく感謝をしている。
担当の理学療法士さんは違う患者さんのリハビリをしていても、私の姿を見れば声をかけてくれたり、「いいよ」とアクションをしてくれた。太陽と月、同じ時間に空にいるはずはないのに、おふたりの笑顔にいつも見守られていた。

リハビリの時間はしんどかったけれど、総じて楽しいものだった。1時間という時間を共に過ごすのだ。きっちりと行われる理学療法を受けながら、私はずっと笑っていたように思う。笑顔がずっと隣にある。生活を送るためのいろいろをできるようにしてもらっているのはもちろんそうなのだが、今を共に過ごす時間が楽しくて仕方なかったのだ。
疲れるときは疲れているのでため息も出るし、嫌だと思う。それでも、近い未来の自分像を今やっていることから具体的に導いて示してくれるのは頑張れる大きな要因になった。下を向いたまま終わる日が絶対にないというのは良いものだと思った。
何もしないままなんとなくで過ごして終わるというあのときの自分をもう思い返さないだろう。後悔がずっといた気がするけれど、あのときの私と今の私で違うと切り離すことができた気がする。ようやく手を離せる。ゆっくり休んでくれ。ソフトテニスをやりたくなったら楽しめばいいと思う。また下手くそから始めて「できない」って苦しめばいい。次は笑って遊べそう。

担当している理学療法士さん以外にもたくさんの人に出会った。
私が推しが不足していると嘆いていたら配信アプリで無料で見れる作品があるよと教えていただいた。自分で調べるというエネルギーすらなかったので、砂漠を歩いて行倒れそうな私に突如出現したオアシスとなった。アニメーションで動いている推しを見ることで得るエネルギーがある。
「ハイキュー!!」を知っている方はたくさんいた。
コロナ隔離病棟の看護師さんもハイキューのことで少し話をした。ポケモンの話もした。ウルガモスに特別愛着はなかったが、「私、結構好きなんですよ」という看護師さんの言葉で、急にかわいく見えてくるのだから人間ってわからないものだなと思う。素敵な人が好きと言うならば愛情が湧いてくる。
やさしいの源泉と思ってる理学療法士さんは映画が公開するにあたり、見に行くならやっぱり平日とか?と私の不安の面を第一に考えて話をしてくれた。私が安心して見れるということを考えてくれている。他にも県外に行くときは長時間移動大丈夫?と気にしてくれた。何をするにも私が不安の面で考えていることを言ってくれる。なんで知っているのと思うくらい私の思考を読み取ってくれた。あ、ありがてぇ。私が未熟な故に考えることが増えるが、申し訳ないと同時に感謝が生まれる。やさしい。
屋外歩行訓練に行くときにエレベーターを開けて待ってくれるというやさしさにも出会った。びっくりするやさしさがいつも私の近くにある。歩くのが遅いから待ってても暇だろうに、それでも待ってくれていた。その人に利益はないだろう。タイムロスにもなるだろう。それでもこのやさしさを受け取った私はものすごく嬉しくなった。
地元で行われた奥能登国際芸術祭の話をしてくれた方もいた。故郷は大切なのは大切だけど、たまによく思えないときもある。そういうときに故郷のことを好きだと言ってくれる人がいると、また大切に思うようになる。
自分で生み出せない感情を誰かの気持ちを知ることで見方が変わり、その気持ちに自分の気持ちを少し混ぜておんなじような気持ちになれる。すごく幸せだ。

理学療法士さんたちは私と会うときにいつも笑顔でいてくれたけど、この人の笑顔をすごく覚えているという人がいる。
臨時で担当してくれた人だったのだが、天使だったのかもしれない。ずっと笑顔だった。弱音を吐いたら笑顔で待ってくれる。できたら笑顔で「お疲れさまです」と言ってくれる。
私が富裕層のおばあさんだったらおいしいものでも食べなって手にお札を握らせたかもしれない。
笑顔というのはとても素敵ですね。笑顔を見てたら生きててよかったと思える。

16.見える先にあるのは白い天井(空虚な時間) 

それは今まで過してきた良い時間をすべて削除したかのように突然にやってくる。
いつものように午後のリハビリを終え、少しストレッチをしてベッドに寝転がったときに知る全身の疲労。指ひとつも動かせなかった。ピクリとも動かない。いや、なんで今。
これまでどんな不安も常に音楽が頭に流れていたように思う。音楽もピタリと止まった。言葉が駆け回る思考も止まった。これが燃え尽き症候群なのだろうか。燃え尽きるにしても退院はまだ先だ。燃え尽きてしまうのはダメだ。次の行動をするための何かが何一つ浮かばない。戸惑い。
天井を見るしかできなかった。スマホを触ろうにもスマホを触る気力さえない。推しの活躍を見る漫画も読む気にならない。
次のために自分を作れるだろうか。まったく期待を持てない。体が重くベッドに沈んでいる。思考はストップしているが、いい場所じゃない。限りなく下にいる。下にいる私が考えることなんていつも決まっている。収集できない粗大ごみが生きていることの是非だ。このまま順調に事が進めば退院するのだろうが、退院して私はどう生きていくのだろうか。誰かの世話になることでしか生きていけない生活を続けていいのだろうか。先が見えない。
社会に生きていく人間として自分でお金を稼がなければならない。そのお金を稼ぐことすらままならない私だ。誰かのお仕事のおかげで生きている。その人たちに助けられている。支えられている。では、私は何ができると問うときにいつも何もできないとすぐ答えが見つかる。いくつかの仕事をしたがいつも不安で何もできない自分が私を終わらせる。就労って難しい。能力や技術、体力に何の成果も得られず、そしてそのまま今日を迎えている。何もないまま今日だ。何もないまま今日を過ごし、時間が経過すれば明日になる。
これからをどう生きるのか。やりたいと思うこともない。何かを始めることが怖い。まず自分の準備としてボロ切れを洗うくらいはした方がいい。ため息が出る。人間ってどうやって生きているんだ。難しいな。
生業を支援するとよく見る。難しいことでもそれをやってきた人たちがたくさんいる。生業とまで銘打たずともそれぞれが何かをやって、好きなことなどで集まり、活気ある姿を見せてくれる。気概ある若者が故郷で暮らしている。さあ、私はどうだろう。年齢だけを重ねたどこの歯車にも噛み合わない人間だ。どこかにいても全部出てきた。自分の面倒を見ることができなくて離れてきた。
やる気とかそういうものは幻かのように思う。気持ちだけではダメなのだ。行動を伴ってこそだ。行動がすべてだ。それができないならそこから外れることが残された選択肢だろう。
これからをどう生きるかまったく描けない。私には無理だと私が私を止める。どうせなら終わった方がいいのではと思う。
どれくらいこういう時間を過ごしてきたかわからない。今日もまたそう考えることしかできない自分になっている。
そのときにふと思い出したのが三瓶由布子さんの笑顔だった。
アイドルマスター Side M、3rdLIVE TOUR ~GLORIOUS ST@GE!~仙台公演で「Compass Gripper!!!」を歌う三瓶さんが見えた。この仙台公演が大好きでBlu-rayを何度も見返している。大好きなところはたくさんある。たくさんありすぎる。いろんな気持ちがある。嬉しいと涙が出る1秒が終演まで続くBlu-rayだ。
その中でも「Compass Gripper!!!」は特別な曲だ。ライブならではをずっと感じていた。声のパワーがすごい。言葉に込められた感情が歌声となり耳に届く。そこにいるお客さんに向けられたアイドル、声優さんたちの気持ちが伝わってくる。忘れられないステージだ。そしてみなさんの笑顔が素敵だ。何度も見返す。絶対に心を明るく持てる自分になっている。
「“未来を君と見たい”」という歌詞を考える。私の見たい未来はなんだ。よくわからない。それでもアイドルが見る未来を共に見たいと思う。未来にアイドルがいるなら私はそれを見るために生きたいと思う。「僕たちは"未来を君と見たい”」を私は君の未来をいつまでも見ていたいと受け取っている。
夢を描くほど自分の未来に希望を持てない。夢をエネルギーにできない。プレッシャーにしてしまう。自分自身で作れない夢も希望もいつだって誰かを見ることで自分のことのようにしてきた。誰かの夢を通して見る希望は私を励ます。
今日もそうやって心を持ち直すことができた。誰かを好きという気持ちで心を明るい方へと導いてもらった。またひとつ、ありがとうが増える。生かされている。何ができるかわからないけれど、生きることはやめないだろう。推しが生きている世界が惜しい。離れたくない。

17.いつかの日を迎える(退院)

退院日は決まった。その頃には歩行も安定していたのだと思う。
怪我がまだ治癒していないからシャワーは必ず介護士さんが見守ってくれていたが、ほぼ自立でいいと言われていた。
いろんなことができるようになった。立つ、立ち上がる、歩く。どれも遠いと思ったことができるようになった。
階段はまだヒーヒー言いながらやっている。階段は嫌いだ。疲れる。
それでも受傷から1ヶ月半ほどでここまで来た。
長い時間を病院で過してきたが、心が切れる瞬間はあまりなかったように思う。一度切れた気がするが、人の作る音楽、人が歌う音楽に励まされてまた気持ちを持ち直すことができた。いつだって人が私を救うのだ。
ここに来たときは完全アウェイかと思い、錆びれた心がポロポロと落ちていくのを感じていたが、1ヶ月半も過ごせばここもあたたかい場所と知ることができた。

病棟には同じく地震の怪我で入院している患者さんがいた。同じ病室にもいた。能登の言葉で会話ができるというのは嬉しいことだった。耳馴染みのある言葉、心地がいい。このお姉さんとは境遇が似ていることもあり、よく話をした。お互い予定のない時間帯に廊下で話す。とても好きな時間だった。同じ被災者だ。これからのことはよく考えられないとお姉さんも私もよく言った。それでも、笑顔を見せてくれたり、一緒に笑い合える時間は貴重だった。こんな状況でも笑顔になれるとそう教えてもらった気がする。
私は病棟内で若い患者だったので良くも悪くも目立つ存在だったと思う。なんで入院しているのかと尋ねられることも多かった。「地震で怪我をした」ということを話すのは苦痛ではない。自分の怪我について考えるとため息しかでないが、怪我をした事実を伝えることは苦に思っていない。嘘を言ったところでどうにもならない。それが事実なので尋ねられたときは事実を伝えた。私を気にかけてくれる患者さんもおり、退院日を伝えたときは「頑張ってね。どこにいても健康が第一やよ。具合は急に悪くなってしまうものや、そうならんように毎日の積み重ねが大切。あなたならきっと大丈夫。」と涙を流しながら言葉をくれた人もいる。入院しているのだから具合が悪いところがある。そんな患者さんからの言葉は身に沁みる。

退院する前、脱衣所で介護士さんに言われた言葉がある。ここは病院で、辛さを抱える人たちの場所だと思い知った言葉だ。窓はどこも開けられる幅が決まっていること。それがどうしてそう決められているか、それを考えたらわかる。
「あなたは絶対にそれを選ぶな」介護士さんの強い目と共によく覚えている。
私はどれだけ人生を悲観してもそれを思ってもそれを選ぶことはないと思う。現実はしんどい。やめたいと思うことは何度もある。今、まさにしんどいの渦中だ。それでも選ばないと約束する。そして、もし、そう思うことが来たとしても思い直すことができるだろうと思う。介護士さんの言葉と目が私を止める。コンテニューを選ぶ。
そうやって言ってくれる人がいるってすごいことじゃないかと思う。思っても言えないこともあるだろう。それでもあのとき、私に言葉が届いた。私を引き止める人がいる。回復期病棟で20日程度しか過ごしていないのにも関わらず、大事なことをきちんと私に言ってくれる人がいる。出会う人に恵まれている。それが私の人生最大の幸福だ。
介護士さんはここに来て間もない私に「好きな人、誰なん?」と尋ねていた。そのときはテレビを見ていたが、テレビを前にして「この人が好きなんです」と胸を張って言える人がいない。私の推しはスマホの中だ。だが、それも加味しての問いだった。私は友也くんだと答えた。30歳過ぎの成人女性が2次元の16歳の男の子が好きということを伝えていいのかと迷うこともある。それでも介護士さんは「ちゃんとおるんやったらよかったわ」と笑ってくれた。
友也くんことあんさんぶるスターズ!!内Ra*bits真白友也さんは私の1番の推しである。夢ノ咲学園にある講堂の扉を開いたらそこにいた私のあんスタで出会った最初のキャラクターであり、そのままずっと好きという気持ちが途切れることなく、好きという熱量を大量に注ぎ込んでいる。年々、離れていく友也くんとの年齢の差に頭を悩ませるが、ゲームの設定上でのプレイヤーの年齢は友也くんのひとつ上だからと言い聞かせてきた。もうずっと友也くんがいる。8年くらい気持ちは変わらないのだからこれからも大好きなままでいるだろう。
介護士さんは「大好きな人がいるのであればそれが生きる理由になるだろう」というようなことをたびたび言っていた。ここにいるだけでなく、ここから出てからのことも考えてくれる人がいる。やさしい人がここにいる。

いざ退院となると寂しさが出てしまう。嬉しいことなのに、ここを離れるのが少し寂しい。 
最後に食べた昼食は南蛮漬けだった。私は酸っぱいものが苦手らしい。すべての毛穴から汗が吹き出るような感覚を味わい、全部食べられなかった。完食したかった。心残り。ここのごはんも美味しかった。ごはんを食べる幸せをより実感した。
急性期病棟で担当してくれた理学療法士さんが顔を見せに病室へと訪れてくれた。別れなのに、これからの未来のどこかに街中で会えると期待してくれているような言葉をとてもありがたいと感じた。とても嬉しく思う。私も期待してる。
私が病室を出るとき、向かいのお姉さんは私が完全に病室を出るまでカーテンを閉めずに見守ってくれていたと母から聞いた。休憩から帰ってきた介護士さんは「あなたなら大丈夫や。どこへ行っても大丈夫。」と体に触れながらそう言葉をくれた。違う場所へヘルプに行っていた介護士さんも顔を見せに来てくれ「能登が大好きやからまた行くよ。能登で会おうね。」と言ってくれた。廊下で会う人みんなに声をかけてもらい、ここを出る。「ありがとうございました」としか言えない。振り返ると涙が出そうになる。だから、出ると決めたら振り返らないで歩く。妹は「泣ける」とハンカチで目を拭いていたと思う。ね、そうだよね。私も泣きたい。本当にいい時間を過ごせたのだと思う。あたたかい人たちが作るここの時間はものすごく愛おしく大切なものだった。ここから離れると思うと寂しい。どの人を思い浮かべてもみんな目がやさしく、マスクで見えないけど口元は笑っているように思う。好きだった。
私の荷物を荷台に乗せて押してくれるのは能登出身の看護師さんだ。彼女への感謝も尽きない。いざ、車に乗り挨拶をすると手を振ってくれている。涙が出るから早く出たいと思うのに、それでも彼女の笑顔をずっと見ていたい。冷えるから院内に戻ってほしいと思いながら寂しさを感じる。彼女の姿が見えなくなるまで私は玄関にいる彼女を見ていた。素敵な人たち、ありがとう。これからもずっと健康に過ごしてほしい。

18.0(モチベーションの低下)

無事に退院をして、家族との生活がふたたび始まった。
退院するにあたり、これからを生きるためのテーマソングを考えていた。いろいろ考えたのだが、F-LAGSの「夢色VOYAGER (SL BEST Ver.)」に推進力を託し、Ra*bitsの「うさぎの森の音楽会」に心の補完をお願いする。
「夢色VOYAGER (SL BEST Ver.)」で秋月涼くんが「こころは不思議だね 誰かの笑顔に 知らないあいだにね 元気をもらう」と歌っている。涼くんを演じる三瓶さんの笑顔で元気をもらった。頭に浮かんだ三瓶さんの笑顔で少しずつ心を上にあげることができた。どんなときでも心は元気になろうとしているんだと思った。心は私を見捨てないと知ったのだから、頑張ろう。
それに笑顔というワードから連想するキャラクター、大吾くんを演じている浦尾さんの笑顔が本当に好きだ。仙台公演がものすごく好きという理由のひとつに浦尾さんの笑顔が本当に素敵だからというのがある。楽しいを全身で表現する浦尾さんの笑顔が本当に綺麗。この人にはずっと笑顔でいてほしい。素敵な笑顔をこれからも見たい。心がときめく瞬間を知っているから、誰かの笑顔を探したい。
そして一希さんが「一歩めを踏み出せばいいんだ」と歌っている。どの一歩目も難しかった。弱気な自分はどちらかというと出したくないと怯む。どうにか出してきた一歩目、そして踏み出したら違う方の足で出す一歩目を繰り返し、歩んできた。そうやって歩くことをもう一度できるようになった。これからもやっていくことはたくさんある。そのたびにきっと、一歩目に慎重になる。「夢色VOYAGER」のジャケットを見ると風に揺れる旗を思い出す。F-LAGSから吹く風に背中を押してもらって一歩目を踏み出す勇気を一希さんの歌声からもらおうと思っている。幸運なことに「一歩めを踏み出せばいいんだ」という歌声は2種類ある。「夢色VOYAGER」ではもうそれを知っているという風に聴こえた。一歩目を踏み出して動き出す時間を愛しいと知っているというもう前にいる一希さん。「夢色VOYAGER (SL BEST Ver.)」ではこの一歩目を信じたいと強く願うように聞こえた。一歩目を踏み出そうとしている一希さんがいる。私の今もきっとそう。一歩目の先はよくわからないけど、この一歩目に先があることを信じたい。そしていつか、何年後かわからないけどあのときの一歩目を踏み出して動き出した時間を振り返りよかったと思いたい。そのときは前を歩く一希さんに挨拶をせねば。「ありがとうございます」と。
心の補完には「うさぎの森の音楽会」を頼る。いつも聞いているから今さらではあるが。この曲を聴くとRa*bitsから「大好きだよ」と絶対に言ってもらえる。絶対に言ってもらえる。絶対にだ。最後には「いい顔してる」と歌ってもらえるのが愛しい。この曲をフルで聴いたときは泣いた。大好きな人を見ている客として、大好きなRa*bitsの目に映る自身の姿が「いい顔」というのは人生で最大の誉れである。Ra*bitsに「大好きだよ」と言ってもらうたびに心が元気になるのでこの曲を選んだ。

そう希望を抱いて退院したはずなのに心の消費期限というのはあっさりと迎えてしまうものです。
何がダメだったかというと完全に飽きたことでしょう。
怪我をした1月1日から2ヶ月が過ぎたという頃、すべてが嫌になりました。2ヶ月も前の怪我をいつまで世話しなくちゃいけないんだと完全にポッキリです。
骨折はまだいい。問題は擦り傷や爪。擦り傷はケロイド体質ということで傷跡が赤く存在を放つ。軽く擦っていた場所は色素沈着して浅黒い。爪は剥がれないように注意を払って生活している。
心がポッキリした原因としては疲労。
こちらに来て病院を受診する際に保険証がないことや被災者支援の制度を利用したいと申し出たときに受診を断られる。心療内科はすべて空振りで終わった。初診の予約が取りにくいというのはわかっているつもりだったが、こうも決まらないとストレスが溜まる。
そしてそれが悪い方向へと働く。生きてるだけじゃ人間になれない。当たり前のものが揃ってないと病院へ行けない。
被災して保険証がないと事前に連絡して処理に時間がかかるかもしれないけど来てもいいと言ってくれたのは皮膚科のクリニックだけだった。ここに全信頼を寄せている。外に出た瞬間に感じた生きづらさにとどめを刺さされずに済んだのはここのおかげだ。
皮膚科へは肌の乾燥がひどかったことと、爪の色が不安で診てもらった。保湿剤を塗ることで肌は良くなったと思う。爪は血の色が変色しているだけだから大丈夫と言ってもらえた。救われた。また、傷跡も診てもらっている。ケロイドを目立たなくするテープを貼って過ごしている。どうしても目に入る赤く目立つ傷が私の神経をすり減らしてきたが、少しずつ肌色に馴染もうとしていて気分が楽になる。
整形外科は金沢の病院での紹介状もあり、スムーズに受診できた。指が変形していることと、自分の意志で動かせないことから大きな病院で手専門の外科を紹介してもらった。
「腱が切れているかもしれない」という医師の見立てはわりと絶望的で、高齢だったらこのまま変形してても仕方ないかと終わることもあるそうだが、私は30過ぎだ。もしこれがこのままなら私はずっとこの変化した指と生きていくのかと暗くなる。地震で怪我をした。その怪我がいつも目に入るところにある。いつまで地震と生きるのだと落ち込む。
手外科では関節の拘縮だろうからリハビリをすれば動きは良くなると言ってもらえた。希望の光だ。腱は繋がっている。
そして新しい場所でのリハビリが始まる。今回は作業療法士さんのお世話になる。
手のリハビリはひとつの時間は短いが、いくつも運動する。それを毎日5回。5回と言われたのに私は4回しかしていない。
3分の運動を4種類を1日4回していた。今は3分の運動を8種類を1日4回している。
この4種類が8種類になる間の期間に著しいモチベーションの低下を味わった。
ここにいる人はそれぞれのコミュニティに属しそこで生活をしている。病院もそれぞれ決まった人々を抱えており、避難者としてどこの地にも足をつけていない流浪者がそこに入り込むのは易いものではない。保険証すら持たない私は自身を証明できるものがなく、地震を利用して不正を働く人間と見えている。人間って難しい。なんかもう本当にどこにも行けないじゃん。かかりつけ医を探したくても元気なときに診てくださいとは言えないし、しんどいときに断られるのはもっとしんどくなるだけ。えー、ムリ。2ヶ月も前の怪我に完治はないし、いつまでもいつまでも地震のときのあれを今日も世話してる。なんか疲れた。モチベーションの低下である。
モチベーションの低下を感じながら数日を過ごし、退院のときに提示された運動メニューもサボりにサボっていたとき、何故か一番嫌いなスクワットくらいはしようと思った。
1番嫌いなのはしんどいから。そのしんどいをやってればまったくやってないにはならないだろう、過ぎ去る時間に対する罪悪感も減るだろうとやり始めた。
そうやって立ってやるスクワットをやることを習慣にすると決め、はや1ヶ月が経過している。あのときのモチベーションの低下はもうない。なんかやれる。変わらず3ヶ月前の傷の世話をしている。かかりつけ医とかも特に見つけていない。一度発熱したがすぐに下がった。かかりつけ医がない不安はあるが、診てくれそうという病院はある。
毎日、やることをやる。それを継続する。

19.春を手繰り寄せる(終わり)

世界が色づき、それを愛しく見ているといういつもの4月は来なかった。
3ヶ月も経てば家に帰り、片付けをしている。そこでいつもの春を見つけよう。そういった期待をどこかに抱いていた。その期待を捨てられなかった。
だが、現時点で私は一度も家に帰っていない。
安全な生活を送るために県外で姉家族の世話になっている。
復興に向けての何かを何ひとつもしていないという罪悪感がある。苦しい時間を味わうことなく今日まで過ごした。
先の見えない苦労、いろんなことをそこの場所で感じながら生きている人々の気持ちがわからない。被災者として利用できる制度を受けながら被災という感覚はどんどん鈍くなっていく。迷いがでる。
自分は本当にあそこに住んでいたのか、当時そこにいたのか。
2023年12月31日までどうやって暮らしていたのかわからない。
日常を思い出そうとしても見える景色がぼやける。
自分自身を見失いそうだ。名前を呼ばれることで自分は自分なんだと思えていたが、名前を呼ばれる機会は減った。
人との繋がりの中を生きているという輪から外れている気がする。
私として私を見る人は家族以外いない。だからといってここで人と出会い交流を深めるような活力はない。
生活を送るのに必死だ。生活のあれこれをやり、消費したエネルギーを補完するのに費やして1日が終わる。
骨はくっついていく途中だし、左手の薬指の爪は自然に落ちていくのを待っている。関節の拘縮は続いている。どの傷も病院の手から離れていない。
ものすごく長い道のりを歩んできたと思うが、まだ完治はない。
今は走れない。弱くなってしまったのか。現在弱いだけでまた足腰を強化できるのか。まだ道のりは長い。歩き続けることをやめるな。自分に言い聞かせる。
以前のように当たり前に動く体というのも春に期待していた。
たくさんのことを春に期待した。春に期待することで乗り越えた部分もある。叶うことがなくとも期待することで大丈夫を保持してきた。
それでも叶わなかった春が目の前にない今に絶望はしていない。前向きになれない感情をたくさん持っているがそれでも後ろに下がってはいないはずだと思っている。倒れそうでも2023年12月31日以前が私の後ろにある。そこに寄りかかれば後退はできないはずだ。故郷は消えていない。

後ろ盾にする昨年の大晦日までの私。都合よく後ろ盾に頼ったりそれを排除したりする。それ以前を思い出せないことで得た変化がある。精神科医が言う暴露療法の結果、私のひとつの部分が変わった。
怖いことをほとんどした。順序よく並べてできそうなものからではなく、ガガガッと一気に。
外に出ることが怖かった。家から50mも離れれば足がふらついてくることを感じていた。馴染みのない人と話して冷や汗が出る、手が震える、緊張に支配されて誰が何を言っているのかもわからなくなる。
外で心が休まる瞬間がない。一瞬もない。外で心が安心するできごとなどない。たとえどんな癒やしの効果を持つものを受けたとしてもそれすら受け入れられないと心が叫ぶ。家に帰りたい。リフレッシュの散歩すらリフレッシュにならない。どこにいても何をしてても不安だけが心の中で大きくなる。それが私だった。
そんな時間を長く過ごしてきた。何年もだ。
そんな自分になったのは体調不良を抱えながら出勤して、体調不良で早退するということを繰り返していたことが原因だ。
体調不良のせいで仕事に支障をきたし、その結果最悪の事態を招いたらどうする。それは避けたい。いい緊張感を持つどころか、過度な緊張を持ちながら仕事をしていた。プレッシャーから食事量は減り、10kg以上痩せた。休むことすら緊張するようになった。体調に不良がない自分がわからなくなった。病院に行って検査してもどこも悪いところはない。睡眠をとっても回復しない。体力もない。健やかに暮らす自分というものがわからなくなった。仕事を辞めた。
元気そうな自分をまったくイメージできない。ずっとそういう日を過ごしてきた。
安定していたときもあるが、ここ数年はまたそれが私の中で大きく育ち、また普通に過ごすということがわからなくなった。何をするにも消極的になり、何かを終えたあとも消費したものをチャージすることだけに何日も費やした。チャージする時間をとっているつもりなのに、エネルギーが思うように貯まることもなかった。
少しの挑戦をやり遂げたとしても達成感を味わうことはない。満足を得ることが極端に下手くそになっているからだ。疲労を感じるだけ。これでいいのだろうか、総合判定「不可」を今日も並べる。
「可」を自分で作り出せない私は音楽を頼りに心の方向を修正していた。
私の狭くなった視界はすぐに地面を見る。次の一歩で転ぶことがありませんように。躓くものがないか確かめる。そんな風に下ばかりを見てしまうから、曲に教えてもらう。花が香る。風に触れる。空に手を伸ばす。顔を上げる。ひとりではすぐに忘れてしまう世界の美しさを教えてもらってきた。風景じゃなく、生きる人々の美しさも。
そう励まされて生きてきた日々で、2023年の夏頃にこれからのために前に進むことをようやく決心できた。「理想」だけじゃなく、「見る」だけじゃなく、実際に社会に馴染む。
「安心できる場所を広げていく、大丈夫を増やしていく」
不安階層表を作成するにあたり、これまでにないほど自分の不安について深く考えた。毎日具合が悪かった。10kgのボールペンで字を書いているのではと思うくらい文字が並ばなかった。
そうして完成させた不安階層表を年末に主治医に見せ、少しずつを重ねていくことを話し合った。

ひとつひとつを乗り越えるための準備や道のりを慎重に考えていた私に起きたのが能登半島地震だった。
それ以前に時間をかけて考えていたことをすべて忘れてしまった。
怖いという気持ちはあるが、これまでの私が感じていた恐怖とは比べ物にならないまったく違う恐怖が次々と起こった。
安全な場所で獲得していくはずの安心というのはぬるま湯に浸かった甘えだったのか。
いや違う。私はそこに必死だった。しんどかった。誰かには当たり前にできる何かを私は心を100%使ってもやっとこさでやっていた。それが私が私でいられるギリギリだった。
突然、起きた地震は脳味噌が無理矢理引き出され直接今世紀最大の恐れを次々にぶち込むようだった。待ってほしいとインターバルを要求しても容赦のない現実が襲ってくる。ゼノの龍頭戯画のようにどこに逃げても恐怖が追ってくる。受けた衝撃の1番大きなものはシルバのグーパンチのようだっただろう。自覚したときにはもう潰されていた。潰されて終わりだったらまた幾分かよかっただろうに、先の読めない苦しみは気狂いピエロのように絶対に私の傷を増やして次へと姿を変えていく。
そうして外傷がどんどん作られていった。骨折はどのタイミングで折れたか本当にわからない。抗うことのできないものを受け入れるしかなかった。
流血のため真っ赤に染まっていく左手。流れる血を見て思う。下半身もこの勢いで血が流れていたらと思うと怖い。
救出してもらってからもそういった不安がずっと大きくなっていく。これからどんな経過を辿って私は力を失っていくのか。
転機となったのは父の言葉だった。
「よかった。顔色が戻った。」
父が見た私は相当ひどい顔をしていたのだろう。1番悪い姿を見たのだと思う。
「戻る」という言葉が私に大きく残る。この緊急事態の中でも行われていた傷の修復。細胞が諦めていない。崩壊と修復が同時進行に行われていた。こんなときでも修復している体、これが今まで固く閉じて守ろうとしてきた門の1番小さな場所が外へと繋がったきっかけになる。安心できる場所ではないと思っていた場所での思いがけない発見。無意識下で行われていく修復。安心できなくても良い方向へと修復されていく力にとても驚いた。マイナスの境地へと向かうものはすべて一歩通行強制連行だと思っていた。縋りつきたい一筋の光さえ黒く強い力で巻き込んで破滅へと向かうと思っていた。そうではないのかもしれない。そうじゃないパターンもあるかもしれない。ルート A だけじゃないルート B がある可能性。絶望を感じる時間を過ごしながら静かにそんなことを考えていた。
そして病院へ行かなくてはいけないが、移動中や病院で精神を保持できるか問題に直面する。
これが2の門。ゾルディック家にある試しの門のようにひとつひとつの課題は重い。
緊急事態ではある、それはわかっている。それでも行きたくない。怖い。それは私が抱えている不安の面での不安だ。
それでも行くしかない。近所のお姉さんは「助けてくれる人はたくさんいるから大丈夫やよ」と最後に背中を押してくれた。
病院へ行ってしまえばとりあえずは楽になる。そう願った。気持ちはわりと落ち着いている。それは家族みんなで病院に行ってくれたからだ。大人なんだから1人で行けと思うだろう。私はみんなと一緒にいられる安心で心はどうにかなった。
そうして病院では入院が決まり、帰宅は叶わなかった。
2の門まで開けて、開けたものを閉めて戻りたい気持ちになる。
もう頑張ったよ。だいぶ。
3の門である入院を前にして完全に怯む。家族に守られて生きてきた私が家族と完全に離れてやっていかねばならない。
心の拠り所となるものも持っていない。正念場だ。
心の消費と修復を繰り返していた。ただひたすらに。
そして己のみで過ごすことに幾分か慣れたとき、次の大きなミッションが来る。
搬送だ。ここを安心できる場所にすることができた。病院に勤務するみなさんの力を借りて少しずつ覚えていった安心。大きな成長である。家でしかリラックスできないと思っていた私だ。家以外の場所でも休めることを知った。家以外の場所で不安になっても不安を小さくできることを知った。ちょっとずつだけど食事、睡眠で不安を消化できるようになった。それまで不安でガタガタブルブルしていても満足度が高い行いをすることで不安が消えていく。良い変化をなんとなく感じていた私の前に立ちはだかる大きな壁。
空を飛ぶのかー。レベルで言ったら7の門くらいある。モットモムズカシイ。
高いところが嫌いだ。飛行機も苦手だ。頭や耳の痛みをどうにもできずに苦しんだ記憶がある。足も地についていないようにふわふわする。それを今からやるのか。私がすることは何もないが。
この時点で搬送を終えた私が達成感を味わう未来はまったく見えてない。本当に怖いのだ。それでも決まっているから行く。やっぱり無理ですはできない。たくさんの人が関わっている。いろんな調整がされて私の順番が来たんだ。
括る腹もないので完全に流れに身を任せるのみだ。
恐怖を大きくし過ぎないことだけに集中した。怪我だけで意識がはっきりしていることが難点だな。本当に。体がしんどいわけでもないから眠ることもできなかった。
気持ち悪くなることもなく、ドキドキという自分の緊張を感じて私は金沢市へと向かった。from姉の住んでいる県ドクターに心を支えてもらい、とても安全に金沢の地へと降り立つ。
この経験についてはそういうことをしたという事実のみで終わっている。やはり達成感はなかった。乗り越えるという目標にもしないだろう。空を飛ぶ機会なんてそんなない。高いところは怖い。変わらない。怖い。
次は4の門が待っている。いままで怖かった外を自分の足で歩くということ。怪我をして約1ヶ月、歩くことをしなかった。歩き始めて2週間ほど経ち、退院が迫ってきたときに理学療法士さんに相談したことだ。
「私はこの病院から出る術を知らない」院内を歩き、出口から出て駐車場まで歩く。
外を歩くというのは中々に難易度が高いことだった。休む場所もわからない、いつでも座れるわけでもない。
ひぇーとなる気持ちを持っていたがこれもしっかりサポートしてもらい、数分の屋外歩行訓練を心を安定させてできるようになった。
5の門は外でもリラックスだろうか。
退院をして、病院以外の場所に行くようになった。それ以前は1番近くのコンビニくらいが限度だったのが、今は大きなお店で買い物をしている。歩くスピードはまだ遅い。そしてすぐに疲れるのでスーパーくらいが自分の足で歩ける大きさの限界だ。
外出をするにあたりいくつかの準備は必要なものの、外出が1日で最大のイベントからまあ少し緊張はするけど日常のひとつというくらいまでレベルが下がった。
外で完全にリラックスは難しいけれど安心できる時間は増えてきている。
慣れない場所に行くときや大きな病院の受診は緊張が高まり、「大丈夫かな」という不安はある。だが、日常生活で感じる外出の精神的疲労は軽くなったと実感している。そして、その精神的疲労は好きな時間や食事、睡眠などの満足度の高い行いをすることで回復できている。
外出に関するいろんなことが前より楽になった。そういう点では生きやすいと思う。選択肢が増えた。家にいてなんとでもなると思ったことはない。家にいてもどこかの何かを利用している。ひとりでは何もできない。システムを作った誰かに生かされていた。外に出られることで利用できる何かが増えた。例えば本屋さんとか。好きな本だけを選ぶならネットで購入でも良いのだろうが、本屋さんに行けば魅力的な書籍がたくさんだ。店員さんが作る空間に心が踊る。楽しい本がたくさんで、ここは楽しい場所と思える経験ができる。五感すべてで楽しいを味わえることが嬉しい。花見も行った。綺麗な写真を見るだけで満足していた部分もあるが、桜を見るというのは目だけではないと思った。何より感動したのは木々の香りだ。空気を吸って緑を嗅ぐ。それは故郷に似た香りでもある。久しぶりだと思った。誰かの手入れによって1番綺麗な季節をもっとも美しい状態で迎えている木々。「いいな」と思ったところに足を運ぶことで自分がそこに入る。遠くから見ているだけではわからないことがたくさんある。それらを知っていくことが嬉しい。
食事が満足度の高い行いになったことで、外食のプレッシャーも減った。ストレスがあると真っ先に食に影響する。食べられなくなる。食事にプレッシャーを感じて食事を心から楽しむこともできなかった。お腹は空くけど食べたいものがわからないというのを10年くらい過ごしただろうか。今もまだ食べたいものが瞬時に浮かばない。それでも、お腹が満たされることで心も満たされる心地よさを知った。食を楽しむ心の帰還を祝おう。

試しの門をすべて開けられたわけではないがなんとかここまで来れた。そしてたくさんの門を開けたが解放感に溢れるとか、今なら何にでも挑戦できるとかそういった気持ちにはなってない。地道に一歩ずつだと思う。これからも一歩ずつだ。どの場面も重たかった。すごいことをやったんだと誇るものはない。こういうところは忘れていないんだな。前とおんなじ自分だ。それでも前より生きやすくなったという実感がある。いろんなことが楽になった。羨望を向けていただけの穏やかな日常に歩み寄れただろうか。
私が忘れたことによってできたこと、それらの経験から得たものの1番の収獲は「小さくしていくこと」だろう。主治医は大事な考え方だと言ってくれた。
不安を果てしなく長い時間保持してきたと思う。区切ることができず、ずっと抱いていた。不安がないときも探すようにしてまた不安を手元に置いた。
だが、満たされる時間を過ごすことで不安から離れる時間を作ることができた。同じ気持ちを長く持っていられないものだと主治医は言った。時間と共に小さくなるものだと。これまでの私は時間の経過と共に小さくなっていくものに熱心に水をやり、大きくなるように育て続けてきたのだと思う。そうやってずっとあるものにしてきた。
しかし、今回の地震でその育ててきたものの世話を焼けない時間を過ごした。そして世話の仕方を忘れた。面倒を見ない間に枯れさせたのか、地に戻り、私を作る栄養となったのかそれはわからない。 

私がこうなれたのはすべてのときに必ずどこかで救いがあったからだ。使い切った心をぬくもりによって満たしてきた。もう無理だと放棄して閉じ籠もりたいときはたくさんあった。そこで心が折れることなく今日に繋がっているのは誰かの何かが私を繋ぎ止めてくれたからだ。それが自分を作り直してくれた。
これまですべての感情を不安というフィルターの向こうに感じていたけれど、大きな地震でこれまでの不安が全部ぐっちゃぐちゃになりよくわからなくなった。整理整頓をして準備をして自分が選んで挑戦するものが、避けられない展開で次々と訪れた。そのたびに限界を感じるが、どこかのタイミングで必ず修復された。体と心が何かによって必ず救われる。どこにいても不安を小さくすることができていた。それを実感することができた。それを繰り返してきた。
その結果、前とは違う不安の捉え方をする私になった。
不安を感じるたびに緊張が走るが、不安に支配される時間は短くなった。待機の場面で不安が訪れたらスマホを触ってみるとか、水を飲むとか。人と対面しているときだったら環境音に集中するとか。自分を不安に向けずに心をどこかにずらす。隣に不安がいても、違う気持ちの方で行動の選択をする。そうやって落ち着くことができたらマル。もし緊張が続いていたとしても、帰りの車に乗るときには落ち着いてたりする。そして帰ってごはんを食べて満たされたらもうそれは終わりだと思える。同じ場所に行くときまたと不安になる私もいるが、その日の最後がそれらの後腐れない状態になっていることでなんとなく今日も大丈夫だろうと思うことができる。

春が来た。期待していた春ではない。いつもの春とも違う。知らない春だ。それでもこの春をとても大切に思う。私にぬくもりを授けてくれた人の笑顔が私にとっての今年の春の訪れの証だろう。
頭の中で笑顔が咲いている。1人ではなくたくさんの笑顔が見える。
私がこの恩を、自分のぬくもりで誰かへと手渡せるときが来るのだろうか。わからない。わからないけれど、それでも欲が出る。
感謝と共にその誰かを思い返すときに見える笑顔。かっこいいと心が求めている。いつか私もかっこいい人たちのように笑うことができたらと焦がれる。これまで臆病になりどんな場面もどんな人の姿も遠いところから見ていることしかできなかったけれど、これからの私は踏み出す一歩を止めなければ誰かの隣まで歩み寄ることができるはずだ。私が目指すやさしさの方向性は誰かの記憶にいる自分が笑っていること。思い出す人々の表情が笑顔、これほど恵まれていることはないだろう。今日までを振り返って強くそう思うのだ。だから、誰かの記憶にいる私が笑顔でいられるようこれからを考えていかなければならない。
次の春は受け取ったやさしさの種を自分なりに育て花を咲かせられたときだろう。自分自身の成長が重要だ。種は確実に受け取った。理想ももう知っている。見えている。栄養となるものを獲得し、自分の土壌を豊かにしなければ。勝手に芽吹くのを待つだけの春ではなく、花を咲かせるために水をやり、育む。私次第だ。
これからいろんなことをしなくてはならない。それに迷うこともあるだろう。やさしさなんていらないと感情を捨て、有益かどうかで物事を判断するような心を持つかもしれない。寄り添うとかそういうことを忘れてしまうこともあるだろう。
それでもひとつ、己の満足のために誰かの心を慮れない間違いだけはしたくない。これだけは必ず守りたい。
咲かせたい花の理想を何度も思い返し、育み続けよう。たくさん浮かぶ笑顔。忘れるな。どんな境地に立っても心を麻痺させるな。諦めるな。
いろんなやさしさを受け取ったが、すべてにおいて共通することは、今、目の前にいるあなたに向けたということだろう。
短大時代の恩師の言葉を思い出す。「『いま、ここ』それを大切にしなさい。どんなときも今、あなたの目の前にいる人に向き合うことを大切にしなさい。」気を付けていたつもりだった。忘れたことなどないはずだった。自分のキャパシティーに限界を感じるようになると向き合うつもりでも目の前のできごとが入ってこない。次へと考えることができない。嫌悪と罪悪感を残し、仕事を辞めた。恩師の言葉をもう大切にすることなどないのだろうと思った。
過去に向き合う側にいた私が、向き合われる側になり、その言葉が息を吹き返した。先生が語ったことは仕事のために限った言葉ではないのだと。患者として過ごした日々で、向けられたやさしさにいつも心をあたためられてきた。病院という施設の中で仕事だからというやさしさだけではないことを知った。やさしさが退院したあとでも残っている。向けられたやさしさが私の中で生きているのだ。恩師の声でその言葉が聞こえる。もう一度考えを深めてみよう。
私の生活において何か特別な出会いをすることはない。目の前にいる人はこれからもきっとこれまで大切だった人たちだ。その大切な人と過ごす時間を愛しいものにしたい。これからも続く時間を愛しく。大切な人だからやさしい時間を多く過ごしてほしい。どこにいても。どんなときも。
そして、共に過ごせるときにあたかい時間になるようにまずは私は笑顔でいよう。
やさしさを手渡すというのはまだ難しいから、今の私にできることはやさしさの理想としている人たちが見せてくれた花のように咲く笑顔を心がけることだろう。笑うことから始める。

心の中で咲く花はどんな花になるだろうか。敷き詰めたように小さな花がたくさん広がるだろうか。目を見張るような大輪になるだろうか。それとも木として育ち、どっしりと構えて下から見上げて見る花になるだろうか。色もカタチも大きさも全部違う花が咲く景色を想像する。やさしさの色、ぬくもり、やわらかさは全部違ったものだった。それでもやさしさとして全部心に残っている。そのようにして、きっと。
心に咲いた花々を愛しいと思えるとき、私なりの方法で誰かにぬくもりを手渡すことができていることを願う。

「笑顔のループ」AAAの曲。
活動を休止していたとしても、今も私の生活にAAAの曲があるから寂しさはあまり感じていない。私より年齢が少し上のとてもかっこよく美しい人たち。AAAの音楽はいつも私の前にある。今回もAAAの曲が前を歩き私はそれを追うのだ。これまでの輪から外れてしまったと思う私が次に入る輪はそこがいい。傍観者にならず、客にならず、そこで生きていきたい。

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