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「地域を去る」前提だからこそ、活動で気を付けたこと
*こちらの記事は、2024年10月15日に実施したオンラインイベント「地域の思いを実現するために、まちづくりの黒衣に徹する ~復興を住民と共に進めるコーディネーターの仕事の流儀」でお話しされた内容の一部を抜粋したものです。
ゲスト:二宮 雄岳さん
神奈川県横浜市出身。
東京農業大学農学部を卒業し、大手飲食チェーンのマネージャーを務めたのちに地元の信用金庫に入庫。法人新規開拓部門、本部コンサルティング部門で勤務ののち、2014年に退職し、岩手県釜石市の復興コーディネーターの委嘱を受け、仮設住宅から本設住宅への移行期のコミュニティ支援活動、復興公営住宅の自治組織設立などを担当。2016年より復興支援員運営組織の統括マネジメントを兼務。岩手県被災地支援者コミュニティコーディネート事業地域コーディネーターとして、岩手県全域の災害公営住宅入居者コミュニティの支援スキーム導入支援を行う。2020年より公益財団法人釜石・大槌地域産業育成センター業務執行理事としてなりわい再生支援、移住定住促進支援事業などを担当。2024年任期満了により神奈川の自宅に戻り、9月よりコミュニティ・コーディネーターとしてエンパブリックに参画。自称「復興公営住宅をいちばんピンポンした男」。
質問:「地域を去る」ことを前提したときに活動で気を付けていたことは?
(ファシリテーターからの質問)
コーディネーターの目標は、地域の人たちが自立して地域を運営していくというのは最もだなと思うと同時に、いかにこちらの持っている熱を住民の人に伝えていくのか?ということも大事だよなと感じました。
釜石で活動されている時、その場に移住することは考えたことはありましたか。
また、 自分はその地域を去ることを前提にしていた場合、活動する中でどんなことを気をつけていたのでしょうか。
「当事者にならないこと」を決めていた
「移住」という言葉を聞くと、多くの人は住民票を移し、その土地に根を下ろして暮らすイメージを持つかもしれません。しかし、私の場合は少し違います。
住民票は移さなかったので、行政的には「移住」には当たりませんが、実際にはその地域に住居を構え、ほとんどそこで生活していました。家に戻るのは月に1〜2回程度、忙しい時は3ヶ月間一度も帰れなかったこともありました。
そのため、地元の方々からも「二宮さん、どこの地区の出身?」と聞かれたこともあり、「いや、実は神奈川なんです」と答えて驚かれることもありました。
それは、それだけ地域に溶け込み、地元の人々と密接に関わる生活をしていたということだと思います。
ただし、私は最初から「定住するつもりはない」と決めていました。これは、「当事者にならない」という立場を意識していたからです。
当事者になってしまうと、自分自身の利益や都合を優先してしまうリスクがあります。そうなると、本来の支援活動の目的が見失われる恐れがあります。
だからこそ、私はあくまで「仕事」として取り組み、「成果を出して去る」という覚悟を持っていました。自分が地域にいる間に成果を上げ、その後は地域の人たちが自ら活動を続けていけるようにすることが私の目標でした。
活動の中では、もちろん地元の住民の方々と密にコミュニケーションを取りながら、一緒にプロジェクトを進めてきました。
しかし、支援者である私たちが中心となってしまうと、私たちがいなくなった途端に活動が止まってしまう可能性があります。「支援者がいなくなったからできない」ということにならないように、最初から「私たちの活動は時限的であり、いずれ私はいなくなる」ということを地域の方々に伝えていました。
これは、地域の人たちが主体的に考え、行動できるようにするための意図的なアプローチでした。
たとえば、プロジェクトを進める中で、「この活動は自分たちでやるものだ」という意識を持ってもらうために、積極的に意見を出し合う場を設けました。そして、「支援者がいなくなっても自分たちだけで続けていけるように」と、地域のキーパーソンやリーダーに役割を持ってもらうようにしました。
その過程では、「本当にこれでよいのか?」と時に厳しい質問を投げかけることもありましたが、これは考えるきっかけを持っていただくためのものです。
また、支援が続いている間は、地域の人々と共に計画を細かく見直し、「どうしたら自分たちだけでこの活動を持続できるか」を話し合いました。さらに、日本IBMさんとも共同で、私たちの活動を地域に移管するプロジェクトを立ち上げ、最終的には市に提言書を提出するなど、支援の「出口戦略」を意識して取り組みました。これは、活動が私たち支援者に依存しない形で、地域の中で継続していけるようにするための重要なプロセスです。
「皆さんにはもっとここにいてほしい」という声をいただけることは、とてもありがたいことです。
しかし、私は常に「最終的にはいなくなる」ということを明言し続けていました。「あと1年で私はいなくなるから、その間にできるだけ多くのことを学び、自分たちで動けるようになってください」と話し続けてきたのです。
これによって、地域のみなさんも徐々に自立への意識を高め、自分たちの力で活動を続けていけるようになっていきました。
私たちコーディネーターの役割は、ただその場で問題を解決するだけではありません。いなくなった後でも、地域の人々が自ら考え、行動できる仕組みを残すことが本当の意味での「支援」だと考えています。ですから、常に未来を見据えて、「どうやって自分たちだけでやっていけるか」を一緒に考えることが、私の大切な仕事だったのです。
「よそ者だからこと」できる役割を見つける
地元出身のコーディネーターが、地域の方々に厳しい意見を言うのは簡単ではありません。なぜなら、地元の人たちは、これからもその地域で暮らし続ける必要があります。意見の対立や軋轢が生まれると、地元での生活が難しくなることを恐れてしまうのは当然です。
ですから私が「よそ者」として、あえてその役割を引き受けてきました。
「もし私の意見が気に入らなければ、遠慮なく言ってください」と伝えていました。私はこの土地に住み続けるわけではないので、「いらない」と言われたら帰ればよい。だからこそ、私は厳しいこともはっきり言えました。
「本当にそれでよいのか?」と、地域の人々に問いかけ、一石を投じることが私の役割だったのです。
ある時、市の福祉担当課の職員との打ち合わせで、「私は、この街で年をとっていくわけではないので、将来のこの街の介護保険がどうなろうと私には関係ない」とと言ったことがあります。聞いた方は「なんと不遜な」と思われたかもしれませんが、伝えたかった思いは、「職員のみなさんはこの地域で年を取っていくわけですから、自分の将来を考えた上で、どのような仕組みが必要なのかを『当事者』として真剣に考えてほしい」ということです。それは目の前の課題を単に事務的な立場から見るのではなく、自分事として問題に向き合ってもらいたかったのです。
厳しい意見を言うことは、決して楽しいことではありませんし、時には「うるさい」と嫌われることもあったと思います。
しかし、私の役割は「憎まれ役を演じること」でもありました。
ただ、もちろん優しく寄り添う役割を持った方々も多くいるので、彼らがフォローしてくれることで、私の厳しい意見が地域にとってポジティブな刺激になれば、と考えていました。
コーディネーターの仕事は、地域に溶け込むだけでなく、「よそ者」としての視点から、地域の課題に鋭く切り込むことも重要だと思います。
自分がいなくなった後でも、地域のみなさんが主体的に考え、行動できるようにするためには、厳しい指摘や意見が必要な場合もあります。
だからこそ、私はあえてその役割を引き受け、地域の人々が将来に向けてよりよい選択ができるようにサポートしてきました。