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融ける男

「すみません、木材の売り場はどこですか?」
見知らぬ男性の声を背後に聞きながら、彼は心の中でため息を吐いた。

いつもこうなのだ。
制服を着ていないにも関わらず、店員に間違われたことは数知れない。
彼は決して目立つ容貌ではない。むしろ非常に地味というか、印象に残らない顔立ちをしている。その地味さが、彼をその場に融込ませる性質を与えているらしい。初めて訪れた先で地元民と間違われて道を訊ねられることもしばしばである。傑作だったのは、イギリス旅行中に大英博物館を見学した帰りに、他の観光客から声を掛けられた時だ。
「すみません、大英博物館はどっちでしょうか?」
彼は快く答えた。今しがた歩いてきた道のりを説明するのはたやすいことであったから。
観光客は丁寧にお礼を言うと、彼にこう訊ねた。
「こちらに来て長いんですか?」

彼は微笑むとこう回答した。

「ええ、今日で3日目ですよ」


 そんな彼の評判をどこで聞きつけたのか、一人の男が彼の元を訪れた。彼自身の印象は薄いのに、その能力に着目できたのは稀有なことだったのかも知れない。
「印象に残らない。その場にとけ込める。あなた程この役目に相応しい人物はいない」

彼の新しい人生が始まった。ある国の諜報員としての人生だ。
当局が用意したプロファイルを元に、その場に居ても違和感のない人物を演じながら、様々な機密情報を手に入れるのが彼の仕事だ。
諜報員は、彼にとって天職だった。凡庸で地味な彼自身とは別の、様々な人生を生きることは彼の心を昂揚させるものだったのだ。
彼はあらゆる人間を演じた。他の人物を演じている間だけは彼の存在は確固たるものであり続けた。

 しかし、彼は沢山の仮面を被り過ぎた。演じている間だけ生き生きと存在していても、役目が終われば何の痕跡も残さずに消える人生。そんなことを繰り返すうちに自分が何者か見失い、悩み始めた。
そしてある時、彼は一つの答えに突き当たってしまうのだった。

自分は、何者でもなくなってしまった。

彼は、姿を消した。
当局が手を尽くして探し出そうとしたが、それは不可能な話だった。


彼はこの社会、人々の間に、融けてしまったのだから。

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エンプティ・オーブン
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