
【No.17】本当の意味での自由
この一連の家族内戦を通して得た、新しい考え方はたくさんあるのだけど、特記しておきたいのは「自由とは?」についてだった。すぐ忘れてしまいそうだから、1記事使って記録しようと思う。
私の得た自由の感覚
私は1年間家族だと思って、姑に直接伝えられることはお伝えして頑張ってみたけど、キッチンに立つたび振り向いてまで、それでなくても時間のない調理の手を止めてまで聞かされる「姑の負の言霊を聞かない」世界線を選ぶ自由が、私にはあるという思いに至った。
人生の節目はいつも痛い
人生初のひどいぎっくり腰で1ヶ月寝込み、原因不明の強烈な眩暈に襲われ突然前触れもなく街中で倒れ、また次の1ヶ月寝込んだ数ヶ月。体が不自由になり動かなくなり、できることといえば自分の心を見つめるぐらい。その時間のお陰でようやっと決別する決意ができた。
ここまで来ないと気づけない
うつ病の夫、体調不良で不登校になってた次女と末っ子、最終的には唯一元気だった長女も登校できない日が増えたあの頃。私だけでもエネルギー高く保たないと一番大事にしたい私たち夫婦の家庭がダメになってしまうと切実やった。寝込んでる間動かせない身体の代わりに心動かした。本当に優先すべきは何?本当に大事にしたいことは何?
そして至った結論。
「まずは自分自身を整えなくては。」
もし明日までの命だとしたら
やりたいことは何?
やりたくないことは何?
この質問が湧き上がった。
私のエネルギーを下げ、かつ私の毎日に最も必要のないもの、排除すべきは何?って自分に聞いたら、姑の負の言霊やった。
自分のための自由と平和と愛とは
姑の不平不満愚痴悪口を聞くぐらい、普通の大人ならできて当然だから、私もやらなくちゃ、とこんなことぐらいが平気じゃない自分が弱い、ぐらいに自分を否定してる感覚すらあったよね。あぁ、平気ぶってきたけど、こんなにきつかったんだ、無理させすぎたんだ、私。自分自身の心の歪みに気づいてあげられずにこんなに擦れ減っていた。そんな性質の自分をまず自分自身が認めることが最初だった。
夫の顔が浮かび、3人の子供たちの顔が浮び。彼らに何か助けが必要でも、何か話を聞くときも、体を作るご飯を作るのも、そして自分自身の欲求を満たしてあげる時も、カピカピのグダグダの私には満足にできなくなるくらい、くだらない姑の負の言霊を聞き続ける意味は?
「愛のために動きたい私 VS 姑のご機嫌取りしなきゃならない私」
そんなもの、姑のへそを曲げないようにすることと天秤にかける価値すらないのは明らか。
だから、できるだけそれを聞かないで済む方法論を一つずつ試そうということに意識を向けることができた。相手を変えようとするのではなく、自分自身でできることを一つずつ。加減を探るために一つ一つ。姑は、私に嫌われたと幼稚園児のような結論にしか行きついてないようだったけど、それも彼女の自由。
本当の意味での自由。誰に何を思われても、自分自身を救う道を自分自身の為に選び行動する自由は誰にもあるはず。何もないところから問題を作り上げるのは姑の勝手だけど、それを受け取らない自由を選んだのだ。
私的・自分軸・他人軸とは
いつからかわからないけど、いつの間にか自分の中にある「こうでなければ」という無意識の中の制限。本当にそうか?とも見つめ直すことすらやってない。結局はその時の自分を信じ、自分が思う豊かさの方向を感じ直して見定めて、どうするかを決めるしかない。その時重要なのが、その決断の軸が自分軸なのか他人軸なのか。誰かのご機嫌損なわない為に決めたことは他人軸。ほぼ自動的にやりがちなことだと思うけど、気をつけたいところだと思っている。
自分にとっての豊かさへの道筋。いつもどうするを聞く相手はちゃんと自分自身であるか?そう言うことの積み重ねが、「丁寧に生きる」なのではないか。そして、本当の自由とは、他人軸のない自分軸の選択を、自分自身の為にすることだと思っている。
私的・他者と自分を切り離す考え方
つい近い存在であればあるほど相手を正したくなってしまうけど、姑がそういう生き方を選ぶのは彼女の人生。どんな方向であれ、その人生を選ぶのも彼女の自由だな、私はそれを受け取らない自由があるよね、という考えに至ったことで、彼女のあり方と「私」を切り離して感じることができるようになったことの収穫は大きかった。