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【No.3】エネルギー泥棒の子育て



家族や身内が最も犠牲に

そして矛先は、家族や身内に対しても同じように向けられた。息子(私の夫)、娘(義理妹)や婿(義理妹の夫)、姑の夫(亡きお義父さん)、親戚の人たち、ご近所の人、姑の友達ほぼほぼ全員の悪口聞かされてきた。これで嫁の私の悪口、言ってない訳ないですよね?実際、義理妹のところに遊びに行くたび、我が家の文句を言って来てるのはそもそも知ってたけど。うちでも義理妹家族の文句言ってるからね、普通に考えてそりゃそうでしょうね、ってやつ。


息子に向けた言葉たち

「あの子はやること遅いのよ、妹はすぐやる子だけど。」(常に誰かと比較してる)
「あの子は私に似てグズなの」(自分を引き合いに出したら言っても大丈夫やと思ってる)
「あの子は弱いから」(子供の頃の病気を理由づけて身体の弱い子と位置付ける)
「あの子は頭はいいはずなんだけどねぇ」(他は悪いって言ってる)
「あの子はいい子すぎて友達のいいように使われてる」(実際使ってるのは姑本人やし褒めてない)
「あの子は優しすぎるから」(だからダメってことを言いたい)

私がこれまで聞いてきた私の夫、つまり姑の息子に対する姑による言葉たち。こんなもんじゃない。新婚の時期の私は、少なからず夫に不満を持ったまま、まだちゃんとその心の声を夫本人に伝える勇気も技術もなく、第一子の出産も結婚後すぐだったこともあって余裕がなかった。これらの姑の言葉たちを「そうかも、そうなの」なんて同意する場面も何度もあったことを、数年後懺悔することになる。不器用な夫ではあるけど、でもいつも優しく一生懸命であることは絶対やし、「好きなの?嫌いなの?」って自分に聞いてみても、自分の答えはいつでも「大好き」やった。自分だって完璧ちゃうやん。それでも「好き」な部分を好き合って、「だめ」な部分を補い合うのが人間関係。そうでもして一緒にいたいかどうかしかない。そう思うようになってから、姑の私の夫に対するレッテルたちが本当に嫌で嫌で。姑は、夫の悪口を言うことで、「嫁のあなたの味方よ、あなたの気持ちは私が一番理解してるわよ」と示したかったと言うのが本質的な作用じゃないかと思うけど、私は、私の知らない若い時期の彼の姿を肯定的に聞きたかったし、この人は心のうちでは我が子を否定して子育てしたんやと思うと切なくなった。だから全然ありがたくなかったことは今になってはっきり言える。


奇跡の間違い電話

決定的だったのは、姑が義理妹の家に遊びに行ってる時に電話かかってきて、「もしもし?」って言っても応答なくおかしいと耳そばだててたら、どうも間違い電話。こちらつながってることも知らずに会話がダダ漏れ。内容は我が家の文句と夫(自分の息子)の愚痴と、さらには夫の仕事仲間の名前まで出して悪口言っているのがライブ放送状態に。天罰よね。こんなことあるんだと思って夫婦で顔見合わせて驚いた。わかっちゃいたけど、やっぱり生で聞いちゃうと気持ちしんどいやん?ほんとに愚かすぎてため息出た。でも夫もこれでよくわかったみたいで、夫が自分の嫌をしっかり認識でき、自分の母親がどんな本質を持ってるかを知る具体例を身をもって生々しく知ることができた、良き出来事ではあったなと振り返ってる。

もう笑えます。それでも私に好かれてるって思える自信、どこからくるんやろ?上手く懐いてると思ってたんでしょうかね?いつも奢ってあげてるから?子育て目一杯助けてるから?いつもめちゃ気使ってるから?

もちろん、人に感謝するとか、人を想って何かを施すとか、ほんとに善意でやってることもある人やし、全ての良き言葉達が全部嘘とは言わないし、実際私たち家族に対しても私という嫁に対しても、いっぱいやってきてくれたことは事実として存在してるけども、ぜーーーーんぶおじゃんにしてる、自分で。良いことを言ったりやったりした後でも、必ずその事や人を批判するような発言を必ずしてるから。近しい関係ならなおのこと必ず批判が入るのが特徴。


エネルギー泥棒を親に持った子の成り立ち

夫は、そういえばこう言う場面でこんなこと言われて「ん?」って引っかかってた子供の頃を思い出したと、嫁とのこの一連の分析の過程で、自分の感じた違和感の正体を理解し始めた。子供だったら誰しも親なしに生きられない時期があるからね、仕方ないと言えば仕方ないけど、エネルギー泥棒の多すぎる家族の価値観に合わせすぎた子供期が長すぎて、40代にして「私はだ〜れ?」状態の夫だった。

夫の祖父がこの姑の上をいくエネルギー泥棒の元締めみたいな人で、夫に東大目指させられたりお金に意地汚かったり、わかりやすい古臭くてネガティブな方の昭和価値観を押し付けられることが多かった故、平和を保つことを目的に事を選んできて、無駄に不得意をやって結果が出ず心折れてきた結果、自信ないわけじゃないけど自己肯定感が低いようなところがおそらくあって、つまり、本当に自分がどうしたいかで事を決めずに来たんやね。

お義父さん亡くなった後のごちゃごちゃを対応していく過程で、夫は違和感を感じ始めていた。私は、私が口に出すと私の声の方が夫の中で強くなってしまう傾向を感じてたから、夫にはできるだけ姑の違和感と不信感には触れない努力をしてたんやけど(自分の感覚で自分のペースで発見していって欲しかったこともあり)、全部難儀を押し付けられた上に事後処理の責任も負わされたというのに、一生懸命やっても難しいことだらけ。でも上手くいかないことに対して全くの他人事な姑の無責任で心無い言葉たちにとうとう夫も怒ることが増えた。ふだん温和な人が、顕著に感情を表してた。私的には「やっと気づいたか」やったけど、ここはゆっくりいかんと夫が壊れると思い、間に入ってなだめたり事前に伝えることで予測される衝突を回避したりと調整役をやってた数年。姑の中では、自分が放った言葉達の罪深さなんて気づきもせず、「最近あの子(夫)、すぐ怒る💢」と私に陰で言い、あくまで悪いのは怒らせるようなことをしょっちゅう言ってる(かもしれないとも思わず)自分ではなく、すぐ怒る息子という認識やった様子を見て、私はさらに呆れることになった。

同居になってからの私の苦悩については、鬱予備軍の夫には話せへんかった。自分の中でできることをやった上で、それでもダメやった場合のみにしようって決めてた。結構ギリギリまで気づかれへんよう1人で耐え戦術を考えた(うすうすなんかおかしいことはわかってたらしいけど苦笑)。でも、夫の精神状態の話もしてあるにも関わらず、嫁の悪口を言いたいがために、そんな状態の夫に告げ口し始めたのは姑やった。自分の息子の精神状態より、自分の辛さを訴える。何より「私は悪くないのに何よ、あなたの嫁はこうなのよ」と味方につけたかったんでしょうけど、見事に自分の本質を息子に気づかせる行為となったのは言うまでもない。

だって、夫が母親から嫁の文句聞かされて、「お母さんがこんなこと言ってきたけど、ほんとなの?何があったの?」と聞くことになり、私が敢えて避けてきた夫婦の会話が生まれ、私はそうなると説明せざるおえない結果になり、私のこれまでの観察と違和感と分析と結果を伝え、私の歴然とした目的と戦略を説明することになる。ただ悪口を垂れ流してるだけの彼女の感情的で独りよがりな幼児のような言葉たちと比べて、夫がどちらに理解を示すかは分かり切ってる結果やったよね。ようは、息子を味方につけたくて私を思い通りに動かすために文句を言うたび、いかに姑がエネルギー泥棒であるかの解説をする機会を私に作ってる結果となったわけ。私が彼女の悪口を一切聞かないと決めた後の、私の心。そんな彼女の言動が更なるエネルギー泥棒選手権の記録更新となり、私の心と身体の拒否反応を引き起こし、もう戻ることは一生ないクシャクシャにした紙のシワが増える一方やった。


インナーチャイルドの傷

私の夫(姑の息子)はこのことに全く気づかずこれまで生きてきたみたいで。もっと言えば、本当は感じてた「ん?」ぐらいの違和感をきちんと認識し分析し言語化することができないまま流れてきてしまっていた。私自身も含めて誰しも若い頃には「あるある」やけど、それに気づき始めることが反抗期なんちゃうかなぁと思う。でも従順で反抗期もなかったという夫、元々の素地が平和主義すぎる故、育つ過程でいろんなことをなかったことにしてきたらしいことが、だんだん浮き彫りになってきたんよね。本当は存在する心の傷をないことにすることが、自分を守る術やったんやろうと夫婦で話した。無意識にそれが彼のシステムの基盤となり、本当の自分の声を聞くことができんくなって、何をやってもうまくいかへん、んで姑に批評批判され、自分でも自分に批判的になり心が荒むということに。表向き、特に問題のない家族で、子供たちも普通といえば普通やし。っていうかむしろ二人とも(夫と義理妹)いい子すぎるし。だけど実際の家族像は、狭く柔軟性のない価値観と視野をもとに発された負の言霊が与えた子育ての繊細さを表す一例やなと思う。


心の傷を自ら知るということ

だから、自分でも問題なく育ったと思っていても、なんか人生上手くいかんなーってなってる大人は、少なからずこういう繊細なインナーチャイルドの傷が癒やされないまま存在してて、何かを取捨選択する時の判断基準を狂わせてたり、自分に対するレッテル貼りの原因になってたり、なくていい思い込みが鎮座してたり、他者に対する心もちに影響してたりして、そういうちょっとした誤作動が積み重なって、ハマるはずの歯車に大きなズレを生じてるんではないかと思ったんよね。だから、上手くいかないことがあったり、悲しかったりめちゃ怒ったりしてる時は、その表面的な出来事の内容ではなくて、その負の感情の原因を求めて自分の内を探るチャンスをくれてるんやとも思った。その出来事の具体的な犯人を探るのでなく、自分がこの出来事のどの部分に感情を揺さぶられたのかということを、具体的にわからんくてもとにかく探ることで、自分でも気づかんかった心の傷に気づいて、じゃ、自分はどうしたいのか?を知るきっかけになるんではないかと思んよね。

だから今は、この一連の我が家の内乱は、夫のインナーチャイルドの傷に気づき、本来の自分を取り戻す大事なプロセスであったし、私にとっては、「自分が本当はどうしたいか?」「何が嫌なのか」を明確にし、自分の生きる姿勢を再認識し、どんな立場であれそれをやり通す力と考え方を養ってくれたとは思っている。

この文字数に自分でも圧倒されるけど、このエネルギー泥棒の逸話はまだまだ続く(苦笑)。


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