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29 会えるうちに会いに行こう

高校生になる前の春休み、これから忙しくなることがわかっていたので、家族でフィリピンに帰ることにした。母の実家はフィリピンの首都のあるマニラではなく、少し離れた島、ミンダナオ島のダバオ市ということろにある。今回の目的は、帰省もあるが、母の育ての親である、ひいおばあちゃんに会いに行くためだ。ひいおばあちゃんは、普段ダバオの市の山奥に住んでいた。元気ではあったが、高齢だったので、親戚が定期的に山から都市部に連れてきては、健康チェックをしたりしていたのだ。母親は、ほとんどひいおばあちゃんに育てられた。すごく口うるさくて、ちょっとでも段差に登れば危ないといい、小言が多い人だったが、愛情深く、母親は大好きだったのだと思う。

帰省してすぐに、親戚のところに一時的に来ていたひいおばあちゃんを訪ねるために、ジプニーに乗って会いに行った。その親戚の家は、私も初めて訪ねる場所だった。細い道を通ると、母はすぐに声をかけられていた。お、珍しい人が帰ってきたな。その日本人は誰だ「コンニチハ、アリガト」片言の日本語で話しかけられた。私はタガログ語は喋れないし、ダバオの言葉、ビサヤ語も話せないので、あやふやな英語で返すしかない。村からの洗礼を受けた感じで、村の奥に進めば、進むほど後ろに人だかりができていた。

狭くて暗い、路地を抜けると、そこには大きな庭があり、ひいおばあちゃんがコンクリートのブロックの上に座っていた。久しぶりのひいおばあちゃんは、もう記憶が怪しいのか、なかなか反応しない。私の母が一生懸命話しかけてようやく思い出した。そのとき何を話したかは覚えていないが、母はきっと楽しい昔話と、日本での暮らしをひいおばあちゃんに伝えていたのだと思う。小一時間の話だった。私はきっとまた会えると思っていたくらいだった。帰る時間になり、村を抜けてジプニー乗り場まで行く道で母はこう言った。多分これが会えるの最後だったと思う。私は言っていることがあまり理解できず混乱した、母親は涙を浮かべていた。そうか、そんなに頻繁に行ける場所じゃないし、今は生きているけど、もう会えないかもしれないんだ。ならもっとじっくり話して一緒に過ごせばいいじゃないかと思ったけれど母はきっと辛くなるからそうしなかったのかもしれない。うしろ髪引かれる思い。それでも前に進まなくてはならない現実を受け入れながら、砂埃が舞う道を母と私は泣きながら歩いた。 

数年後ひいおばあちゃんは亡くなった。この時が本当に永遠の別れになってしまったのだ。会いた人には、会えるうちに、会っておこう。

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