
29.螺旋(1) - ii
「28.螺旋(1) - i 」より続きます。
コレッジョのパルマ大聖堂の天井画<聖母被昇天>は、巨大な凹面の天井に描かれていました。
観者は、巨大な螺旋状の雲・光・天使たちの渦巻きの下で、その渦巻きスペクタクルに巻き込まれたような感覚を全身で受け取るであろうことを、確認しました。
また観者は、大聖堂入口から近付く場合には、主役の聖母マリアが特権的な正対する位置を占めていて、まるで「上昇しているさなかにある」かのように見える、ということを、確認しました。
さて。
その際、全てを均一に平等に写す写真をよしとする「画集」などでは、かえって立体感や、画家の意図や工夫などが、わかりにくくなることがあると、お話いたしました。
別に写真が悪いわけではありません。それを見る側に想像力を働かせる必要があるということです。
その例をさらにいくつかご紹介します。
1.ラファエロ<キージ家礼拝堂天井装飾>
(1)画集
画集に載っているのは大抵このような写真です。
真ん中にいるのはキリストです。
ローマのサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂に入って、左側二つ目の礼拝堂のなかにある天井画です。
アイディアと全体のデザイン設計はラファエロによるものです。
これは真下から見た写真となります。
幾何学的な構成が美しく、端から端まで均一によく見えます。
同じく真下から見た写真、少し範囲を広げて撮った写真ならば、こうなります。
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しかし、実際には、
これは「大きな凹面の天井画」です。
(2)実際の見え方
礼拝堂入口のアーチの下あたりから見上げると、このようになります。
所詮これも写真なので(こんなこと言っては身も蓋もありませんが……)、
何がどう違うのか、すぐにはピンと来ないかもしれません。
(ちょうど真ん中にぶら下がっているのは燭台です。)
燭台をよけてちょっと脇から見上げると、こんな風になります。
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質問です。
想像してみて下さい。
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AとBのどちらの写真が、
自分の頭上で「キリストが垂直に立っている」感じが出ているでしょうか。
↓
↓
↓
B です。
Aは、クーポラの真下で撮った写真です。
Bは、礼拝堂入口のアーチの下で撮った写真です。
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下の図6をご覧ください。
この天井は、前回のコレッジョの天井画同様、入口アーチの下から少しずつ見えるエリアが広がっていく、という見え方をします。
芸術家ラファエロが、全体デザインを設計するにあたって「理想的鑑賞ポイント」と想定しているのは、天井の真下ではなく、この入口アーチ(黄色実線)の真下(赤円の位置)です。すべての見学者がここを通ります。
観者がこの赤円のところに立って頭上を仰ぐ時、入口アーチの弧(黄色実線の弧)はキリストの登場する円窓の円(黄色点線の円)と、ちょうど内接します。
この瞬間、天上のキリストは、もっとも垂直に立ったように見える状態で、我々と正対し、我々と見つめ合うのです。
ラファエロは、そのように立体的デザイン設計を行っています。
画家の工夫や意図を十全に理解するためには、「画集」的な写真を見る時、大きさや方向性、立体性について、このように、さまざまに想像力を巡らす必要があります。
2.コレッジョ<聖ヨハネの幻視>天井画
(1)画集
パルマのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂のドームに描かれる天井画です。
画集に載っているのは、主に、真下から見たこのような写真です。
前回のパルマ大聖堂<聖母被昇天>天井画に先駆けて、1520年から1524年の間、同じ画家コレッジョが、同じ都市パルマの、別の聖堂のために手掛けた作品です。
パトモス島の福音書記者聖ヨハネがキリストを幻視するシーンが描かれています。中央に浮いているのが、ヴィジョン(幻)として出現したキリストです。
(2)二枚の写真
二枚の写真をご覧ください。
Bは真下から撮った写真です。
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A は、どこから撮った写真でしょうか。
(白黒写真しか用意できませんでした。すみません。)
↓
↓
↓
Aは、このドーム入口のアーチの下あたりから撮った写真です。
(3)A:入口アーチの下から
実は、画家は二つの観者グループを想定して描いています。
一つ目は、一般信徒です。
一般信徒のために想定されている「理想的鑑賞ポイント」は、入口アーチの下あたりです。そこからは、天井画はAのように見えることになります。
下の図をご覧ください。
入口アーチはこの写真の上側の部分です。
赤丸の位置が、アーチを入場しようとする観者の真上の位置になります。
真下から撮ったときよりも、キリストの足下側の幅が広くなり、キリストの頭上側の幅が狭くなったことにお気付きでしょうか。
観者がこの位置に立つ時、キリストはよりいっそう高く跳びたっているように見えます。より一層光の輪の中心にいるように見えます。
一般信徒はこのように、この位置において、頭上に、キリストを、あたかもここに現前した幻のように、仰ぎ見ることになります。
一般信徒はこの瞬間、聖ヨハネの体験を今この場で追体験することになり、つまり、幻視の「当事者」となるのです。
(4)B:真下から
もう一つの想定されている観者グループは、ベネディクト修道会会士たちです。
彼らはこの天井の下に設えられた聖職者専用座席に座り、この天井を見上げていたことでしょう。
するとそのとき、一般信徒からは全く見えなかったモチーフが現れます。それは、聖ヨハネです。幻視する張本人です。
これは、入口アーチ下からはちょうど見えない位置にあります。
入口アーチのすぐ上に描かれているからです。
聖ヨハネ(黄色円)が見えるという事実は、一体何を意味するのでしょうか。
修道士たちは、幻視のみを見る一般信徒とは異なり、「これは聖ヨハネの見た幻視である」という物語の文脈全体を見ることになります。
つまり、キリスト教の知識や教義が十分にある修道会会士たちに対しては、「いま頭上に展開しているのは聖ヨハネの見ている幻視である」という知的理解に合致する見え方が用意されているのです。
この時、聖ヨハネとともにキリストの姿を天に仰ぐ会士たちは、「聖ヨハネが幻視をしている」という状況の目撃証人でもあり、また、聖ヨハネとともに幻視を見るキリスト教の同志仲間ともなります。
一般信徒に対しては、Aの場合のように、感覚や感情に訴えるべく、幻視の「当事者」となるような見え方が用意されており、一方、修道会会士たちに対しては、Bの場合のように、知性や知識に訴えるべく、幻視の「目撃者」となる見え方が用意されているのです。
3.尾形光琳<燕子花図屏風>
(1)画集
方向性や立体性について想像をめぐらす必要があるのは、何も天井画だけではありません。
最後に、尾形光琳の<燕子花図屏風>です。
大抵の画集や案内書にはこのような写真が載っています。
一双(二枚で一セットの意、a pair のこと)を上下にして、平板に撮った写真です。
でも、ほんとうは「屏風」です。
折り曲げて、立てて、並べて使う、あの「屏風」です。
尾形光琳本人は、この作品がこんな風にペタッと「絵画」のように見られることは、想定していなかったと思います。
(2)実際の見え方
「屏風」としての実際の見え方という観点で言えば、例えば以下のような写真の方がより適切かもしれません。
立てられています。折り曲げられて凸凹があります。上下でなく左右に並べてあります。
このように「屏風」としての正しい置かれ方をした状態で、見えない部分があっても頓着せず、真正面からではなく少し横から撮影した写真の方が、尾形光琳の狙った立体的群生の意図をよりよく理解できるかもしれません。
例えばこの写真では、燕子花の高さを結ぶと、奥に向かって一列に並ぶ斜線が現れます(下の図14の白線)。
恐らく画家が十分に考察したうえで作り出しているはずのこうした見え方を、「画集」の平板な写真のみから想像することは、相当難しいことです。
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このように、画家の工夫や意図を十全に理解するためには、
「画集」的な写真を見る時、
大きさや方向、立体性などについて、
さまざまに想像力を巡らす必要があるのです。
(参考文献)
以下の本は、
・前回のパルマ大聖堂のコレッジョ<聖母被昇天>天井画、
・今回のローマのラファエロ<キージ家礼拝堂天井装飾>、
・今回のパルマのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂のコレッジョの<聖ヨハネの幻視>天井画、
で扱ったような「見え方」の問題を論じています。
ジョン・シアマン『オンリー・コネクト・・・、イタリア・ルネサンスにおける美術と観者』、翻訳:足立薫・石井朗・伊藤博明、ありな書房、2008年。特にドームについては第四章(243-312頁)。
( 原著: John Shearman, "Only Connect...Art and the Spectator in the Italian Renaissance", Princeton U.P., Princeton, 1992. esp. Chapter 4 : Domes, pp. 149-189. )
この本については、「14.軸の転回(1)- ii 」でも紹介しています。
最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。