240903 たまに泣いてたまに転んで 思い出の束になる
こんばんは、いかがお過ごしでしょうか。
もうあれが夏だったか冬だったか思い出せないくらい朧気な記憶なんだけど
中学3年生くらいの時に赴任してきた古典の先生が結構面白い人で
(大体国語の先生っていうのは変な人が多いんだよね)
よく授業中いろんな話をしてくれたんだよね。
その中の一つに昔の恋人の話があって当時教室は滅多にないその変わった先生の昔の恋の話に少し盛り上がったんだよ。
先生は恋人が好きな物を好きになる努力をしているうちに恋人よりもそれを好きになったり詳しくなってしまう現象が多々起きる、バンドや画家や漫画ありとあらゆるものが、知る時は必ず恋人がきっかけなのにいつの間にか恋人よりも好きになっている、って言ったの。
その先生は授業がめちゃくちゃ上手くて、授業の内容と雑談を絡めるのがあまりにも自然だったからその恋人との思い出の話も多分その時やってた授業と関係してたんだろうけど
わたしはそれを聞いて今まで他人から聞いた中で一番愛の話だと思ったんだよな。どうなんだろう。大人になった今ではちょっとよく分からなくなっちゃったけど。
その先生は他愛のない記憶にあんまり残らないような下らない雑談から奥深い歴史の話まで沢山話してくれた。昔の文豪みたいな佇まいだった。わたしはその頃毎日愛ってなんなのかなあって思っていたからその話を何故か鮮明に覚えていた。
好きな人と頭のてっぺんからつま先まで同じになりたい
今思えばそれはちょっとだけ歪な愛の形だったのかもしれない。
でもみんな好きな人が出来たらまず何が好きか聞くよね。普段どんな音楽を聴いてどんな映画を見てどんな場所に行ってどんなものを食べるのか。
あれって何でだろう。わたしもよく聞かれる。恵麻ちゃんって何が好き?って。わたしって何が好きなんだろう。
高校1年生のときに修学旅行でオランダに行った。生涯死ぬまでにもう一度行きたい国堂々たる第1位、オランダ。それは12月の、ものすごく寒い時期でヨーロッパはどこも雪で真っ白だった。ドルを使う国しか行ったことがなかったわたしは初めてユーロを見たので、パッと換算が出来なくて買い物は全部恐る恐るだった。景色は綺麗で目に入るもの全部が美しくて、だけど欲しいものだけがなかった。
お土産を買っていいよと言われた時間でわたしは無意識にミッフィーの木靴の置物を手に取っていた。オランダでは木靴が有名で、ミッフィーはオランダ生まれだ。
すごく可愛い、白と青の小さな小さな木靴。母親が喜んでくれたらいいなと思った。
わたしの中でミッフィーはママが一番好きなものだと思っていたけれどそれは今となっては分からない。
あの木靴が今も実家で飾られてるかも分からない。だけどあの人には飾ったものを仕舞うという習慣がないからきっとわたしが日本に帰ってきて木靴を飾った日からそのまま鎮座していることだろう。
それを手に取った時、わたしは何故だか古典の先生がしてくれた昔の恋人の話を思い出したのだった。
わたしには沢山の好きなものがある。でもきっとそのほとんどがわたしの好きだった人たちが好きだったものなんじゃないだろうか。好きな食べ物も好きなバンドも好きな作家も好きなキャラクターも。
だけどいつの間にかきっとその人たちよりも好きになって、そのことを忘れてしまうくらい好きになって
そうやってわたしは形作られてきたんじゃないだろうか。
きみも、もしかしたらわたしから影響されて好きになったものがあると思う。
もしかしたら今ではわたしよりもよっぽど好きになっているかもしれない。
そしていつかわたしが好きだったから好きになったということを忘れてしまうかもしれない。
そういう愛を、わたしはきみに与えることが出来ているんじゃないかと思って
それはとてもなんだか、嬉しいことのような
そして少しだけ寂しいことのような気がした。
先生がその話をしたとき、わたしはその先生が面白くて好きだったから何か一つだけ先生が好きだったものをずっと覚えておこうと思った。他のことはもうほとんど忘れてしまったけど本当に一つだけ覚えている。先生はサルバドール・ダリがすごく好きだった。授業で何回も言うから覚えた。わたしはダリ、普通なんだけど先生が好きだったことは覚えている。卒業以来1回も会ってないけど、数年前結婚したらしくてクラスメイトからお祝いの動画メッセージを頼まれた。先生はわたしのことを忘れていると思ったので困惑したけれど確かにかなり深く関わった学年だっただろうし頼まれたからには断れないので動画を送った。それは無事に結婚式で流れたらしい。わたしが、先生がサルバドール・ダリが好きだったことを卒業して10年以上経った今でも覚えているように先生ももしかしたらわたしのことを覚えているかもしれない。覚えてないかもしれない。
わたしは結構、それはどっちでもいいなと思っている。
わたしのこと自体は忘れられてもいい。たとえばいつの日か言った言葉や、わたしが好きだといったものがこれから先遠い未来まで誰かの人生の中で生きていたら
もしわたしが忘れられてしまっていたとしてもすごく幸福なことだと思う。
そしてまた誰かから誰かへと紡がれていったら、きっとわたしはずっと永遠に生きていけると思う。