戦争への道は雰囲気で敷き詰められている
ウクライナの戦争がこれほど報道されてもなお「平和の大切さを知りました」ではなく「軍拡の大切さ、国防や武装の大切さを知りました」となるのが現代ニッポンなのかもしれない。
チェルノブイリ/チョルノビリやザポロージエ/ザポリージャといった原発やその跡地が戦場になったせいで「核の平和利用」は不可能であると証明されたどころか、当の日本国内で起きた福島第1原発事故も決して終結してはいないはずなのにも関わらず最近取り沙汰されるようになった「核共有」を代表に、その他新聞やテレビやWebにてコメンテーターが日本の再武装に関する話をこちらが食傷するほど投げつけてくる。
こうしてあれよあれよといううちに憲法が改正され、日本の核武装や徴兵制復活にシビリアン・コントロールからの脱却を含めた再軍備や先制攻撃の正当化、そして「衰退する」とこれまで言われてきた日本の国力維持を正当化するための他国への侵略戦争が次から次へと「雰囲気」で受け入れられていくのだろう。「集団的自衛権の行使」に始まり「地政学的」だの「戦略上」だのといったふわっとした理由もなんとなくつけられて。
さて侵略戦争が行為として認められるなら、「団塊の世代」ほかベビーブーマーの誕生のように兵力増強のための出産が奨励される。「日本は衰退するなんていやだ」と散々議論してきた輩も、これで出生率が回復するとみるや否や急速に支持し出す。
さらに赤木智弘氏の「希望は戦争」という言葉に代表されるように、今管理職や権威ある地位に着くはずがこれまで辛酸を舐め続けてきていると自他称する「ロスト・ジェネレーション」(ロスジェネ)こと団塊ジュニアが抱えるとされる破滅願望も、第二次世界大戦期の日本の「玉砕」イメージと重なり、来たる「戦争」にて完遂されうるだろう。そこに第二次世界大戦の「反省」(実際はあってないようなものだが)による「平和」を至上のものとする前世代の価値観の否定だとか、シバキ思想やイビツな優生思想が加わり「無能な男は戦場に行って間引きされろ、その代わり命に代えて手柄を立ててこい」という論調が生まれる。
そしてこうした「雰囲気」により日本は再び戦争への道を歩み出すー表題の「戦争への道は雰囲気で敷き詰められている」とはこういうことなのである。きっと第二次世界大戦へ歩み出していた日本も、こうした雰囲気をどこかしこに抱えていたのかもしれない。
ところで、今日日本へ到着した難民に対しても、小島慶子氏が以下の記事で言うように心から人としての同情を寄せている日本人はどれほどいるのだろうか。
「難民として来たる若い美女を東欧パブのキャストにして金儲けの材料にしよう」「こんなブサイク/ブスでも金髪碧眼の難民と結婚してユーラシアンのかわいい子供を作ろう」だのといったレイシズム丸出しの輩は別として、それまで敵対意識も何も抱えていなかったが急に西欧北米諸国が「敵」と言い出したから右に倣えで「敵」としたロシアを揺さぶるための「地政学的」ないし「集団防衛上の」(どちらもその言葉の使い手は雰囲気で使っている)ナンチャラなパフォーマンスの材料としか思っていない人が官民含めて大半だということに1ユーロ賭けてもよい。かつての「河豚計画」のユダヤ人の政治利用や、昨今の中国に揺さぶりをかけるための右翼のチベット人やウイグル人の政治利用(「鳥居をくぐって国家神道の神の前に拍手し火葬や豚肉食を甘受するムスリムや仏僧」しか認めない姿勢)と同根である。
これもまた「雰囲気」でしか難民を受け入れていない証左だろう。しかしいざ難民が定住するようになったら日本人は軋轢を起こさず共存、共生できるのだろうか?これは言うまでもなく何もウクライナ難民に限らず、古くはインドシナ諸地域、最近ではシリアやミャンマーなどから来た難民にも言えることだが、よもや皆様は「ウクライナ難民は皆民主主義国家から来た白人で、中国人や朝鮮人/韓国人やムスリムやその他のカラードのガイジンに比べれば野蛮ではないので、日本人と共存共栄できて、鳥居と山門をくぐるまでに同化もしてくれる」とお思いだろうか。
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