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小説『Yellow』(2)

二 
 
 翌朝。瞳子は道人のアパートで目を覚ました。すでに道人は仕事に出かけている。深夜2時までかけて自転車を修理し塗装してくれたのだ。きっととても疲れているだろう。 
 道人は瞳子の自転車を、思い描いた通りの黄色に塗ってくれた。それはまるで魔法のような手腕で、黄色い塗料の中にわずかに垂らされた黒い滴が、秘密の隠し味のように思えた。
 思えばとんでもない迷惑をかけてしまっている。どうやってお返ししたらいいのだろう。いつまでこの家にいていいのだろう。 
 家のものは自由に使っていいと言われていたので、インスタントコーヒーをいただき、コンビニで買ってもらった菓子パンで朝食にすることにした。すると、ちゃぶ台の上に一枚のメモが置かれていることに気づいた。 
『とーこへ 今日は人がくるから、その人のいうことをきいて』 
小学生が書いたような、のたうった文字で書き残されたメモ。漢字は苦手なのか、あまり使われていない。学校の勉強は苦手だったんだと言っていたような気がする。それはともかく、人が来ると言ったって、何時に誰が―警察か児童相談所に報告されたか―瞳子は菓子パンとインスタントコーヒーを咀嚼しながら、思いを巡らす。悠長に思えるかもしれないが、道人によって瞳子の逃避行がゲームオーバーになるのなら、それでもいい気がした。 
 
 昨日着替えに借りたメンズサイズのTシャツとジャージを脱ぎ、もともと着ていたパーカーとジーンズに袖を通す。洗面所で顔を洗い、これまた昨夜買ってもらった歯ブラシにわずかに歯磨き粉をつけると、きっかり5分間歯を磨いた。 
 道人の部屋を見回す。8畳一間にキッチンと浴室。道人の持ち物といえば、少年ジャンプの流行りの漫画にパチスロの雑誌、灰皿に小さなテレビ。洋服の類は小さな押し入れに置かれたハンガーラックに収まる程度しかない。簡素な生活を送っているようだが、この部屋で目を引くのはキッチンだ。ピカピカに磨き上げられたコンロに丁寧に並べられた調味料。料理は苦手ではないと言っていたが、日常的に料理をしているのが瞳子にも分かる、「活きた」キッチンだった。 
 そして―。 
「タマ、おいで」 
にゃおん、と気のよさそうな茶トラ猫が一匹。それが道人の相棒だった。あまり人には懐かないと言われたが、なぜか昨夜は瞳子の傍らで眠ってくれた。呼ばれた茶トラは瞳子の膝に頭をこすりつける。瞳子の胸に温かいものが広がっていく。道人と夕食を食べたときに感じたものと同じ感覚だった。 
 
 ピンポーン、と安アパートのチャイムが鳴る。午前10時きっかりだった。パーカーの襟元を整え、そっとカギを開け、ドアを開くと、そこにいたのは警察官でも児童相談所の職員でもない、美しい女性だった。 
「あなたが瞳子ちゃん? ああ、名前の通りね、大きな瞳。素敵ね」 
 その声の響きに全くの敵意が感じられないことを、瞳子は感じ取っていた。この世の中には私を嫌いな大勢の人と、私を好きになってくれる少数の人がいる。彼女は間違いなく後者だ。 
 それが野梨子さんとの出会いだった。 
 
 野梨子の左ハンドルの車に乗せられて、瞳子は物珍しそうに街並みを眺めていた。 
「道人くんはね、私の相棒のこの車を直してくれるの。彼にしかできない術があるのよ。ほかの人には任せられないわね」 
野梨子は近くの大学の先生―ジュンキョウジュといった―であり、道人の店の顧客だと名乗った。道人とは友達なのだとも。しかし、21歳のつなぎ姿の道人と40歳の講師然とした野梨子は、いかにも対照的な組み合わせに思えた。 
「道人くんに頼まれたの。かわいい子猫を拾ったから、どうすればいいか教えてくれって」 
 
「ところで、今日の新聞読んだわ」 
外を眺めていた瞳子の視線が、運転席の女性の顔に注がれる。 
「この年にもなると、勘も鋭くなるものね。ビンゴでしょ。どうする? 保護されたい? それとも逃げる?」 
その言い方は、決して瞳子の行いをとがめるものではなく、純粋に一人の人間としての意見を聞いてくれているように思えた。 
「私は……逃げなきゃ。逃げたい。逃げたいんです」 
信号待ちの一瞬、瞳子と野梨子は見つめあった。 
「わかったわ。協力する」 
「でもなんで……」 
瞳子は初めて自分から口を開いた。 
「わたしも、逃げたことがあるからよ」 
野梨子はまっすぐ前を見つめてつぶやいた。 
 
『民間養護施設で集団性的暴行が発覚』 

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