小説『Yellow』(3)
三
「ほら、かわいくなったじゃない。すごく素敵よ、そのショートボブ」
野梨子さんに最初に連れていかれたのは、美容院だった。逃げたいのならまず外見を変えるべき、という野梨子さんのアドバイスがあったからだ。どんな髪型にしたいかと問われて、思いっきり短くしてくださいと頼んだのだ。そして出来上がった鏡の中の自分を見て、瞳子は大きな目をさらに見開いた。
「素敵かどうかはわからないけど……でも、好きです、この髪型」
「さすがね、冨田くん。ずっと私の髪を担当してくれてるのよ」
冨田と呼ばれた若い美容師は、いやあ、こんなイメチェンを担当させてもらえて、楽しかったっす、と答える。肩先で整えられた野梨子の美しいストレートヘアは、普段の手入れのたまものなのだろう。
「次は洋服ね」
瞳子は大手量販店の試着室で、野梨子に差し出された洋服をあれこれと着せられていた。まったくもってただの着せ替え人形になっているとしか思えなかった。試着して服を買うのなんて、初めてだ。
「トップスが四着に、ボトムスが三着くらいは欲しいわね。いくら逃亡生活だからって、お洒落をしない理由にはならないわ。むしろ普通の女の子の格好をしていたほうが、見つからないものよ」
瞳子がおずおずと試着室のカーテンを開ける。
「あの、こんなに足出したことないんですけど……」
ショートパンツにゆるりとしたボーダーのトップスを着た瞳子は、不安げに野梨子を見つめる。
「まああ。やっぱり21世紀に生まれた子は腰の位置が高くて足が長いわね。うらやましいわ。どんどん出しちゃいましょうよ。あと、このサロペットとカットソーも着てみて」
瞳子にはファッションには疎い。しかし野梨子が選んで買ってくれた洋服は、確かにお洒落だと思った。しかし、私にはこんな格好をする機会なんてあるんだろうか。私がこんな格好をしていていいんだろうか。道人は―どう思ってくれるだろうか。
「服はこの場で着替えていきましょう。瞳子ちゃん、次は下着よ」
大量の買い物袋―靴から化粧水、生理用品まで―を野梨子の車に積み込んでから、二人は山を少し上ったところにあるカフェで遅い昼食を取った。お洒落なカフェに入ったことのない瞳子は、まるでドラマの世界みたい、と、その居心地の良さに居心地の悪さを覚えた。小高い丘のテラスから、盆地の街並みを眺めながら、瞳子は先ほどのやり取りを思い出していた。
あなたスポーツブラしかつけていないのね、と言われたとき、瞳子は恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。施設で買い与えられていたのはそれだけだったのだ。
「大丈夫、ちゃんと選ぶから。怖がらないで」
性を怖がらないで。そう野梨子は付け足した。
本当にありがとうございました。お金はアルバイトしてお返しします、と切り出した瞳子を、野梨子はさえぎった。
「何言ってるの。私こう見えてもそれなりに稼いでるんだから、そんなの気にしなくていいわよ。それに、今はまだアルバイトなんてしちゃだめよ」
「……野梨子先生は、私が何者か分かってるんですよね」
視線を街並みから外さず、瞳子は尋ねた。
「新聞記事を読んだ程度だけれど、何を経験したのか、少しは分かってるつもりよ」
野梨子はカプチーノを一口すする。つられて瞳子も、クマの絵柄のアートが施されたカフェラテに口をつける。
「私のこと、悪い大人だと思ってる?」
瞳子は視線を野梨子に移した。
「本当は警察に報告したほうがいいのかもしれない。だけどね、瞳子ちゃん、私は世間一般の正しさに従うつもりはないの。そういうものの危うさは、あなたが一番分かってるでしょう。あなたが安全に暮らして、傷を癒して、幸せになるためにはどうするべきかを考えてるだけなの」
だから、と野梨子は続ける。
「道人のアパートで暮らしなさい。できるだけ身を隠したほうがいいけれど、びくびく怯えながら生活する必要はないような気がする。なぜかね、私、あなたは見つからないと思ってるの。逃げられると思ってるの」
「なぜそこまで優しくしてくれるんですか」
瞳子は率直な疑問をぶつけた。それは自分についてではなく、野梨子という人をもっと知りたいと思ったからだ。
「そうね。私は子どもが持てなかったから、娘を持ったみたいな気持ちでいるのかもしれないわ」
あるいはお姉さんね、ちょっと年は離れすぎてるけど、と、野梨子は苦笑した。その言葉に嘘はないように、瞳子には思われた。ただ、何か重要なことを言っていないようにも聞こえた。逡巡したあと、瞳子は言った。
「暴行のこと、道人くんには言わないでもらえますか」
私が汚れてるって、道人くんには知られたくないんです、と、瞳子は付け加えた。
『集団性的暴行、数十年にわたって行われた可能性』