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小説『Yellow』(1)

 一
 
逃げなきゃいけない。 
どこまでも逃げなきゃいけない。 
 
 でももう自転車は壊れてしまって、おなかはペコペコで、そろそろゲームオーバーなのかもしれない。 
 瞳子(とうこ)はうつむきながら、繁華街とも呼べない規模の飲食店の立ち並ぶ夜の街を歩いていた。 
 施設の仲間たちが、今までの『脱走』の最高記録は甲府だと言っていたのを思い出して、向かった街だった。少なくともタイ記録は樹立できたのだと、わずかに胸を張ってみる。 
瞳子は美しい少女ではない。彼女の容貌で目を引くのは、背中の真ん中まで伸びた黒い髪だが、それは決して丁寧に伸ばされたものではなかった。おそらく散髪さえ許されない環境で生きてきた、そんな異様さを感じさせるものだった。しかし、ぱつんと切りそろえられた前髪だけが、彼女の唯一の矜持を表しているかのようだった。 
 
「あら、こんな時間にお嬢さん一人で大丈夫?」 
声をかけられて足を止める。60歳くらいだろうか、眉毛の垂れ下がり方でわかる。いかにも優しくおせっかいな女性だ。 
「おうちの方が心配してない?家はどこなの?」 
家出をするときに何より厄介な存在は、こういう『親切なおばさん』なのだ。 
「ええと、あの……」 
何とか言い訳を考えようと声を絞り出したとき、背後から声が飛んだ。 
「おいなつみ、何やってんだこんなところで。家帰るぞ」 
振り返ると、金髪頭が目を引く、二十歳を超えているであろう青年が立っていた。160センチの瞳子が見上げるほどの長身だ。 奥二重の向こうの眼差しには愛想と険呑さが両立していた。
「すみません、俺の妹なんすよ。まったく年頃の娘はすぐフラフラ遊びに行くから困っちゃいますね。あざっした」 
あら、まあ、じゃあ、と声を上げ続けるおばさんを後にして、青年は瞳子の自転車を引きながら歩きだした。 
「あの、ありがとうございました。あとは自分で帰れます」 
焦って声を上げる瞳子に、青年はニヤリとした目を向けた。 
「帰る気ないならそんなこといわなくていいよ」 
ぽつりと独り言のようにつぶやいた後、瞳子に声をかけた。 
「あのさ、俺が自転車直してあげるよ」 
瞳子は足を止めた。 
「チェーン修理とパンク修理と、泥除けの曲がったのは直せるよ。何なら色も変えちゃう?っていうか腹減ってない?」 
 
 ものの三分で天津飯を平らげた瞳子を、道人(みちと)は呆れた顔で見ていた。 
大食い早食いには自信のある道人だが、目の前の大盛り激辛チャーシュー麺は、まだ三分の一しか減っていない。食べたいものはあるかという道人の問いに、間髪を入れずに「天津飯」と答えた瞳子を、大手激安チェーンの中華料理店に連れてきたのだ。 
「なんで天津飯が好きなの?」 
深夜12時を回ろうとする閑散とした店内を見回しながら、道人は聞いた。 
「私が食べた中で唯一おいしかったものだから」 
ふうん、と、道人は麺をすすりながら、横目で瞳子を見た。一番おいしかったもの、じゃなくて、唯一おいしかったもの、なのね。 
空になった器に視線を落としたままの瞳子に、声をかけ続ける。 
「餃子も注文する?」 
「ううん、おなか一杯」 
あれだけの天津飯でおなか一杯になるというところが子供らしくて、道人の顔にわずかに笑みがこぼれる。 
「名前は?」 
「瞳子。瞳の子と書いて、とうこ」 
「ひとみ? そんな漢字あるのか? まあいいや、とーこ。おれは道人。みちと」 
クルマ屋の名前にぴったりだろう? そう言ってふにゃりと笑う青年は、まだ少年といってもいいあどけなさを残していた。なぜかぎくりとする。あるいはどきりとしたのか。 
「ところであんた、何歳?」 
「十六歳」 
 あはは、と、なぜか道人は笑う。
「家出モノ特有の悲壮な覚悟ってのは、隠せないもんなんだよ」
そして、数行の言葉で自らの生い立ちを瞳子に伝えた。 
 母親を早くに亡くしていること、父親に暴行を受け続けていて、十六歳で家出をしたということ。住み込み付きの自動車工場に飛び入りして修行し、二十一歳となった今は、車の整備工場で板金塗装職人として働いているという。瞳子には仕事の詳細は分からなかったが、十六歳で旅立ちをしたという共通項を得て、道人という男に親近感を覚えた。 
「……自転車さあ」 
「うん」 
「何色にしたい?」 
「黄色」 
「天津飯みたいな?」 
「もっと濃い色、卵の黄身みたいな」 
ああ、と道人は納得したような顔をした。 
「ああいう黄色はね、黄色の塗料にほんの少しだけ、黒を混ぜるんだよ」 
そこでようやく瞳子は顔を上げた。 
「黒?」 
「そう、黒」 

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