母ごはん

多くは語らない母の言葉と濃い焼酎のソーダ割り。
自分の人生の半分はそんな瞬間に閉じ込められているのかと感じる。

小学校高学年〜中学校時代は今までの人生の中で1番と言っていいほど、極貧な生活を強いられた。家はごく普通な長屋の一軒家風な家屋で、1人で娘2人を育ててきた母にしては立派な広い家だった。賃貸だけど。小学校の頃、姉が母と喧嘩して家を出てからは、次女の私は母が運送業で夜中まで働いている間掃除や、洗濯、食事も1人で行っていた。真夏の夜にゴキブリが出た日には1人で格闘して、おかげさまで今ではゴキブリに対してのトラウマは人に自慢できるほど立派なものとなった。(寝ている時に服の中に入ってきた時はほんとに死ぬかと思った。)

中学校に入るか、そのくらいのころ。同棲していた8個上の姉が彼氏と別れて泣きながら帰ってきたころ。私の人生の中では今でも稀に見る貧困状態にぶち当たった。ガスが止まるのは毎月のこと。ガスが止まったとて、美味しい熱々のご飯が食べられないのはそこまで苦ではなかった。

電気も通らず水道も止まった時があった。

泣きながら近所の公園に水をくみに見にいった日もあった。私は恵まれない地域の子供と同じなのかと思った。家族で持ち寄った1円玉が120円になった時は、それを持って近所のスーパーに食パンを姉と2人で買いに行った時は振り切れて笑えたくらい。けれど、家族3人で笑っていられたからその幸せは何にも変え難いことだったのだと大人になってから感じられるようになった。

中学生だったその時は家庭のこともあり、友達だと思っていた人達からの壮絶な仲間外れもあり、学校の窓から飛び降りようかと思った日もあった。やはり、その時も辛いながら自分を女1人で育ててきた母の顔と、笑って楽しく話してくれる姉の顔が出てきた。大人になった今でも自殺を考えたその瞬間を覚えている。

大人になって、母はどんな恋愛をしてどんなドラマがあって自分が生まれたのだろうと、考えることが多くなった。

母に今までの人生を問うとわたしには話したくないという。生まれた意味をそこで問いたいと思っても永遠と母の口からは出てこないのだろうと思うと何故だか悲しくもあり、人生をいくら一生懸命生きたところでその意味は一生わからないであろうとすることに少しホッとした自分がいた。
LINEの通知が来て開いても、コロナ対策の県の公式ラインだけの業務的な内容で、愛されたかった人からはLINEも来ないし、愛した方が良かったかもしれない人からはブロックをしたからLINEもくるはずない。そんな人生の破片に悲しくも、それでもいいと感じてしまう自分もまた悲しくて。いつかそれを愛おしいと思える自分になれたらいいなと思う。

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