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「笑坂&吉野大夫ツアー」(6)
【ツアー18】 登山道
旧道の油屋と本陣のちょうど中間あたりに登山道の入口があって、ゆるい勾配の坂を登っていくと、やがて千メートル林道に突き当たる。千メートル林道の先は国有林で、登山道はその間を抜け、ずっと浅間の麓まで続く。石尊へ登るにもその道を行くのであるが、ふつうここから浅間へは登らないらしい。最短距離には違いないが、嶮し過ぎる。だからふつうは下山専用の道で、ここから登るのは営林署のジープか、石尊行のものだけだという。
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もっとも、追分の人びとにとっては、石尊は朝飯前の山らしい。タラの芽の季節には、さっさと登ってタラの芽を摘んでくる。山葡萄の季節には、さっさと登って黒い小さな粒を摘んでくる。登るというよりは、ちょっと行って来るといったところらしい。行きは一時間、戻りは三十分もあればということだった。
【ツアー19】 千メートル林道
千メートル林道は、標高千メートルの地点を東西に走る林道である。わが家はそこより約五、六十メートル低かった。しかし浅間を見ることが出来た。然るに無人のコートの辺りは、高さにおいて千メートル林道を超えている。にもかかわらず浅間を見ることが出来ないのは、前方に、あたかも目隠しのごとく落葉松林があるからだった。
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わたしが龍の鬚を発見したのは、落葉松林の手前を三石へ向う細い林道の左手に、とつぜん出現する崖の下だった。(中略)
そして駆け下りて来たのとは反対側の斜面に向って群生する龍の髭が発見された。
わたしは、思わず歓声をあげた。
「ほう!」
そして、あたかも手招きでもされたように龍の髭の方へ向って歩き出した。いや、実さい、龍の髭はわたしに向って、そのとき手招きしたのである。
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【ツアー20】 分去れ
分去れは一尺ばかりの高さに土をもり上げた、細長い三角地帯である。ちょうど舳先のように見えた。そして舳先が水を分けるように、道はそこで二つに分かれていた。すなわち、舳先の常夜灯に向かって、右に行くのが旧北国街道であり、向かって左に行くのが旧中仙道である。
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この分去れの模様は『ふるさとびと』に書かれた通りである。常夜灯のうしろには、赤子を抱いた石の観音像があぐらをかいており、その他いろいろな供養塔も残っている。しかし、まわりはもはや『ふるさとびと』の追分ではない。この三角地帯のうしろの方に、「牛馬千匹」と腹のあたりに刻まれた不思議な観音像が立っているが、そのすぐ裏はカーウォッシャーなのである。
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【分去れと供養塔】
分去れは、二尺くらいの高さに土を盛り上げた、細長い三角地帯である。
全体が芝生で、そこにはいまでも、『ふるさとびと』に書かれた松並木の名残りがあった。実際わたしは、その下でよく寝転んだものである。ちょうど腰かけるのに都合のよい平らな石もあった。馬頭観音は、この三角地帯にではなく、北国街道をわたしの山小屋の方へ折れ曲がってゆく、その角あたりに移されている。供養塔は、三角地帯の一番奥の方に立っていた。胸のあたりに「牛馬千匹飼」と書かれた、細長い観音様のような立像である。
【常夜灯と子抱地蔵】
石の常夜灯は、三角地帯の先端に立っていた。問題の子抱き地蔵はそのすぐうしろにあった。石の台が何段もあって、見上げなければならない高さである。あぐらをかいた像そのものも、でっぷりとした大人の等身大に近いと思う。その膝の間に赤児を抱えている。確か、左腕に赤児の頭をのせていたと思うが、その抱き方は、なるほど生まれたばかりのキリストを抱いたマリアの抱き方を、思い出させるような気もする。しかし、子抱き地蔵の頭は、どう見ても男だった。
【子抱き地蔵の背中に刻まれた文字】
もちろん、すぐにマリア観音だとわかってしまえば、マリア観音の意味もなくなるのであるが、子抱き地蔵の背中に刻まれた文字は、はっきり読み取れなかった。何度か後ろから読んでみたが、わからなかった。作者もわからない。いつどこで作られたかもわからない。いつ、どこから、どうしてここへ運んで来て据えたのかもわからなかった。しかし、それらのことは、たぶんいずれはわかるとおもう。いまのわたしにわからないだけなのである。
(「天下泰平 國土安全 祜唱法師」か?)
【子持地蔵】
更科は右 み吉野は左にて 月と花とを 追分の宿
追分宿の西端分去れ(長野県史跡の、「信濃追分」である)には、たくさんの道しるべがある。その中で最も見事な道標の一つで、民謡追分節で唄いはやされた歌である。子持地蔵(安永六年の建立で、隠れキリシタン像即ちマリヤ観音といわれている)の近くにある碑に台石の正面に刻まれている歌で、最も流麗な達筆で書かれている。但し歌の作者も書いた人も不明である。他の三面には神社仏閣や、主要都市に至る里程等の手引き書きがある。(中略)食売女たちは旅のお客を見送りながら、この優しく美しい子持地蔵を拝み、旅先の里程など話し合ったりして別れを告げたことと思われる。
(続く)