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「笑坂&吉野大夫ツアー」(12)
【番外22】 旧小諸城址の懐古園
しかし小諸では、別にどこといって見て歩くわけではなかった。確かに旧小諸城址の懐古園は最初は珍しかった。しだれ桜というものをわたしはそこではじめて見たのである。
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【番外23】 揚羽屋
『千曲川のスケッチ』に出て来る一膳めし屋の揚羽屋に入ったのも偶然である。バス通りに面した何の変哲もない大衆食堂で、最初はわたしは冷し中華か何かを食べたのだと思う。店の一隅に畳を四、五枚敷いた場所があり、土地の人らしい親子連れが何か食べていた。そして、わたしの腰をおろした椅子のうしろにガラス戸のついた小さな押し入れのようなものがあり、何気なくのぞき込むと、フチなし眼鏡をかけた見おぼえのある藤村の写真が目に入ったのである。(Y9)
『千曲川のスケッチ』の揚羽屋とわかってからもわたしは何度かその食堂に出かけた。最初のときの冷し中華が口に合ったのだと思う。麺の黄色と鳴戸の桃色ときゅうりの緑が、まるで三原色の見本みたいに見えなかったせいもあった。三原色ふうの甘たるさもなかった。(Y10)
揚羽屋には、五十がらみのおかみさんと、その娘らしい女がいた。娘は婚期を少しばかり過ぎた年頃に見えたが、あるいは婿養子を取っているかも知れないと思った。もちろん、どちらともわからなかったが、嫁に来たのではないように見えた。空いたテーブルで雑誌など読んでいる様子でそう思われた。丸味のない体つきで、美人というのでもないが、どこか垢抜けていた。適当にわがままで、自分から男を選ぶ女ではないかと思った。(Y11)
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【番外24】 揚羽屋のカツ丼
横山先生は揚羽屋のことを知らなかったらしい。少なくとも、まだ出かけたことはないようである。横山先生はわたしの話を、例の如くぎょろりと目玉をむいてきいておられた。そして、早速出かけたらしかった。(Y12)
「で先生、何を食べられましたか」
「うん」
「冷し中華ですか」
「いや、それがね」
「まずかったですか」
「カツ丼だよ、君」
「ははあ、カツ丼もありましたか」(Y14)
その後わたしは小諸に出かけたとき、揚羽屋に立ち寄ってカツ丼を注文した。(略)丼の蓋を取ると、ぷんとソースのにおいがした。はあ、横山先生が黙っていたのはこのせいだな、とわたしは思った。飯の上に並べたトンカツにソースのかかったカツ丼だったのである。箸を突込むと飯にもソースがしみ込んでいた。(Y20)
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カッ丼の写真は2008年5月のものですが、揚羽屋は2016年4月に一旦閉店し、2021年にニューアルオープンした際にオーナーが変っているので、美味しかったソースカツ丼の味が継承されているかは不明です。
【小諸市新店情報】
— 軽井沢ナビ【公式】 (@karuizawa_navi) November 30, 2021
創業明治18年。
島崎藤村の一ぜんめしやとして知られる揚羽屋が、復活しました。
いつの時代も街の食堂として多くの人に愛されてきた揚羽屋。
そのあり方を受け継ぎ、心をこめたお食事で、おもてなしします!https://t.co/O8QLZbpDD2 pic.twitter.com/OoKEF46Cp1
『わが旅わが信州』
『わが旅わが信州』は季刊「信州の旅」創刊号から第三十二号までに掲載された作品の中から、百三十六篇を選んで収録したもので、後藤明生氏の作品も三篇収録されていました。また、平岡篤頼氏の「追分会のこと」には、明生氏が深夜の神社で寝込んだエピソードが再登場しています。
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「追分会のこと」
県内のあちこちの別荘地にも似たような会があるかも知れないが、これほど酒豪か揃っている会は、まず他に類があるまい。そういう本人が、飲み出したら朝まででも騒いでいるのだから、あまり人のことを言えないが、それでも大橋健三郎先生(アメリカ文学)のように、小川のなかで酔いを醒ましたことはないし、作家の後藤明生氏のように、神社の境内で寝こんだりしたこともないので、一応、自分のことは棚上げにしておく。(中略)例年の役員会、総会、さよならパーティ、役員の総会(?)、といった具合に、一夏に三、四回夏に集まる程度である。少くとも公式には-―。
その時だけは大っぴらに羽目をはずす。集まったから飲むのか、飲むために集まるのか、判定に苦しむところだが、最初後者であったのが、時代が移り変わるにつれて、前者になったのだと考えるとわかりやすい。変てこな言い方だが、追分会の性格というものを論じる際に、この事情を無視すると話がこんぐらがる。
「民謡・信濃追分」
『わが旅わが信州』には、小説『吉野大夫』に登場する今川憲次氏の「吉野太夫と追分宿」(Y159)は残念ながら載っていませんでしたが、「民謡・信濃追分」という文章があり、追分馬子唄のこと(松前の殿様が遊女にこの唄を習い江差追分の母体となった)など、興味深いエピソードが載っていました。
徳川時代参勤交替のみぎり、松前の殿様は、舟で直江津へ来て北国街道から中山道を通って江戸へ出たものだという。当時浅間山麓に軽井沢、沓掛、追分という三宿あった中で追分が最も殷賑を極めていたのと、此処に遊女も多く、中には才芸たけた遊女もいたので、大名は多くはこの宿で泊ったという。
(中略)
今も追分の老人達の間に残っている言葉に「お伝馬」というのがあるそうである。昔の大名行列が通る度に村民に割りあてられた賦役の名残りである。馬子達は荷を積んだ馬の手綱を曳き乍ら次のたて場迄の旅の一日の労働を終え、帰りは一杯きこしめしていい気分で馬の鈴に合わせて馬子唄を歌い乍ら帰って来たものだという。
(中略)
この馬子唄をたまたま追分に滞在した松前の殿様が聞いてすっかり興味を抱いてしまい(略)そして習い覚えた追分馬子唄をお土産に北海道に持ち帰って流布させたのが江差追分の母体であるという。
「『わたし』のゆらぎ―後藤明生『吉野大夫』における時間と語り―」
小説『吉野大夫』に関しては、その錯綜した時間について様々な解釈がなされているようで、例えば、鈴木孝典「『わたし』のゆらぎ―後藤明生『吉野大夫』における時間と語り―」では小説に登場する各事象を時系列に再配置し分析を行っています。
又、分析に当たっては小説内の出来事のみを対象としていますが、『吉野大夫』連載の約一年前に書かれた「アカシヤの木の下で」というエッセイによれば、吉野大夫に関する調査は、連載の少なくとも二年前には、すでに完了していたことが分かります。
昨年、物知りの土屋老人(わたしの山小屋の管理人でもある)に連れられて泉洞寺の桜井住職を訪ねてからは、ますます謎が深まったようである。
泉洞寺では、吉野太夫の過去帳を見せていただいた。(中略)そして岩井伝重氏の『食売女』『江戸時代東信濃宿村の歴史』などを教えられて読んだが、やはり吉野太夫の名は見いだせなかったのである。
(中略)しかしわたしが今年の六月に追分に来たのは右のようなわけだった。つまり、吉野太夫なる遊女がどうやら架空の人物らしいとわかりはじめてから、それを小説に書いてみたいというわたしの気持ちは逆に強くなったようである。それで夏まで待ちきれず、とにかくあの墓のあたりをもう一度うろついてみたいと思って雨の中を追分へやって来たのだった。(中略)
いまは追分も夏の真盛りで、アカシヤの花はもちろん跡形もない。わたしの小さな山小屋を覆う数本のアカシヤは、いまや葉ばかりで、まるで大きな傘のようだ。その下に椅子を出して腰をおろし、わたしは自分が小説に書こうとしている吉野太夫を、ときどき空想している。ただし、まだ一行も書いていない。
小説『吉野大夫』の成立過程を時系列で追いかけてみると
1978.8「アカシヤの木の下で」(サンケイ新聞1978.8.12)
→昨年(1977)泉洞寺を訪ね、吉野太夫の過去帳を見せていただいた。そして岩井伝重氏の『食売女』『江戸時代東信濃宿村の歴史』などを教えられて読んだ。
1979.9「吉野大夫」一章(「文体」VOL.9)
1979.12「吉野大夫」二章(「文体」VOL.10)
1980.3「吉野大夫」三章(「文体」VOL.11)
1980.4「入院雑記」(「本」)
→1980.1.30-2.25 十二指腸潰瘍で山川胃腸外科に入院
1980.6「吉野大夫」完(のちの五章、六章、七章「文体」VOL.12)
1980.7「吉野大夫注」(のちの四章「文学界」)
→「拝復、先日は遠い所からまことに結構なお見舞いを有難う。手紙に続いて、翌日スコッチが到着しました。」(「入院雑記」と「吉野大夫」一章、二章、三章?を読んだ知人からの手紙への返信というスタイルで書かれている。)
1980.5.20「信濃追分の吉野大夫」( サンケイ新聞 )
→季刊「文体」に連載した『吉野大夫』がやっと終った。
1981.2 単行本『吉野大夫』(平凡社)
→「吉野大夫注」を四章、「吉野大夫」完を五章、六章、七章と再構成
そして、「アカシヤの木の下で」(1978.8.12)の約二年後には、
季刊「文体」に連載した『吉野大夫』がやっと終った。九号から十二号(六月一日発行)まで書いたから、ちょうど一年がかりだったことになる。吉野大夫のことを、「アカシヤの木の下で」という題でこの文化欄に書いたのは、確か二年前の夏時分だったと思う。そしてそのときは、この小説をまだ一枚も書いていなかった。いったいどういう小説にしようかと思案中だ、と書いたような気がする。
(略)わたしの『吉野大夫』は、彼女に関する手がかりの一つ一つが、次々に消えてゆく小説になってしまった。つまり、点が線になってゆかない。まわりだけがあって中心がカラッポという、ドーナツ状の小説になったが、だからといってわたしは、追分の土地に伝わる吉野大夫伝説そのものを否定しようとは思わないし、また別の機会に、今度は純フィクションとしての吉野大夫を書いてみたいなどとも思っている。
と、フィクション版の吉野大夫の執筆についても言及されています。
又、小説の書出しは、季刊文芸誌「文体」掲載時には
吉野大夫のことを書いてみようと思う。もちろん書くからには小説のつもりで書く。しかし結果はどんなものになるか、わからない。果して小説になるのかどうか、また、どんな小説になるのかもわからない。。なにしろ吉野大夫は、中仙道追分宿の遊女である。
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と、「小説のつもりで書く」ことが努力目標になっていますが、これが単行本になると
『吉野大夫』という題で小説を書いてみようと思う。といっても、誰もがよく知っているあの吉野大夫のことではない。京都島原(本当は六条だということらしいが)の名妓吉野のことではなく、同じ江戸期でも、中仙道は追分宿の遊女だったという吉野大夫のことなのである。しかし、結果はどういうことになるのか、皆目わからない。
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と、「小説」として書くことが宣言されています。
また、鈴木孝典氏の論考によれば小説『吉野大夫』には「と思う」という記述が合計二一〇箇所確認でき、「記憶の不透明性・再現不可能性を明示している」との事でしたが、この「と思う」には「事実」のアイマイさと「記憶」のアイマイさとの二つの意味合いがあると思われます。すなわち、1978.8.12に「アカシヤの木の下で」が書かれた一年前に「吉野太夫に関する調査はすでに完了していた」「ただし、まだ一行も書いていない。」とあること(また、例えば、冒頭のソースカツ丼のエピソードは『眠り男の目 追分だより』の1975.12.1に既に書かれていたことなど)から推測すると、「と思う」という記述は「吉野大夫」という遊女の実在を「噂の構造」の中に拡散霧消していくために意図的に用いられていたとも考えられます。
又、「吉野大夫」の各章は「わたし」を主語とする口語体、「吉野大夫注」のみが「僕」を主語とする書簡体で書かれているとのことですが、後者は前者の解説(種あかし)となっており、しかものちに四章として『吉野大夫』に取り込まれたことで、この「小説」の厚みがグッと増しています。
「吉野大夫注」が書かれた経緯については、例えば、中村博保氏の
G君、君からの手紙にあった「文学界」のエッセイ、早速買って読んだ。たしかに、古典を口語訳するということは、考えれば考えるほどむずかしいことだ。君は「雨月物語」を現代語訳するのに、ゴーゴリの「鼻」や「外套」を訳した時と同じくらい苦労したと書いているが、外国文学よりは、むしろ厄介ではなかったかと思う。相手は、同じ日本語だからだ。君が書いているとおり、古文を口語文法によって逐語訳すれば、口語訳ができあがるといった簡単なものではない。訳文に見当違いや、誤訳さえなければいいといったものでもない。相手には相手の〈文体〉があって、機械的な逐語訳では、当然のこととして、その〈文体〉は形を喪うからである。
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があり、その往復書簡の続きだったとも考えられます。(この書簡は、秋成研究者で後藤明生氏の友人でもある中村博保氏が『雨月物語』の現代語訳を終えた後藤明生氏のエッセイ「修辞的と文体的」(文學界 1979.5)を読んだ感想として書かれたものです。)そして、「僕」(後藤明生氏)は、
この花田の気持ちもまことによくわかる。そして彼の『吉野葛注』も面白かった。同時にまた、谷崎の気持ちもよくわかる。そして彼の『吉野葛』も面白かった。したがって、ここにおいてぼくは、ぼくの『吉野大夫』についての君の指摘を、ほぼ全面的に受入れようと思う。そして、その証拠として、この君への手紙を、目下ぼくが書きつつある『吉野大夫』にぼく自身が付けた「吉野大夫注」ということにしようと思うのである。」
となります。
先ほど、「吉野大夫」の各章は「わたし」を主語とする口語体、「吉野大夫注」のみが「僕」を主語とする書簡体で書かれていると述べましたが、これらはむしろ小説を書くプロセス(「吉野大夫」に関する探索や会話自体)を小説化したメタフィクションと言うべきかも知れません。従って、各章に散りばめられたエピソードを時系列で追っても整合性は無いということになると思います。
後藤明生氏の小説は「アミダクジ式」と言われますが、『吉野大夫』は様々なエピソードをむしろ「数珠つなぎ式」に結び付けた小説で、それらを結びつけていたのは作者の「自意識」ということになるかも知れません。
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あとがき
『笑坂』『吉野大夫』を読み返し、その舞台裏を自分の目で確かめてみたいと思い、居ても立ってもいられない気持ちになって、一泊二日の旅に出たのが四月下旬。追分宿の真ん中、「信濃追分文化磁場油や」に「油やSTAY」という素泊りプランがあることを知り、即、申し込みました。
中公文庫版の『笑坂』『吉野大夫』で、場所を特定出来そうな場面に付箋を貼り、googleやYahoo!のマップに書き込みを行うと、かなり多くの地点が明確になりました。
その地図を「文化磁場油や」のスタッフの皆さんにお見せしたら、「吉野大夫の墓」や「明生橋」に関する貴重な情報や資料を頂くことが出来ました。又、お貸し頂いた電動アシスト自転車とヘルメットは現地調査の有力な助けとなりました。
大変お世話になり、ありがとうございました。
(終わり)