14さいのわたし
無事に、今日も 今が一番幸せに生きてます🎵
3/1(金)@本郷BONART p.m.19:10-
弾き語りソロ p.m.19:10-22:00
ちょうどうまく、日に合いました(笑
通常通りなので、お気軽に来てね🎵
明日は、ちょっと選曲が、わたしの個人的趣味曲を多めにお届けするかもしれません❤️
東京都台東区浅草の浅草病院で産まれ
三社様(浅草寺横の神社)に名前をつけてもらい、
仲見世脇、五重塔の袂にある浅草寺幼稚園に行き
浅草六区公園町会に家とお祭洋品店があり
年中無休、お休みは夏休みの2泊3日の御宿だけ週末は浅草の家に泊まり、毎週花屋敷で遊びお財布を毎週拾っては六区交番に届け、
平日は、昭和通りと靖国通りの交差点辺りにある
、本家、千代田区神田のお家で暮らし、学校からチャイムが聞こえてから玄関でて
桜が1000本、千桜小学校で、一学年33人のクラスの友とクラス変え無く6年間一緒に過ごし
初めて自分で買ったレコードは、誰かの英雄ポロネ—ゼ。LP。今でも持っている。
クラッシックピアノを浅草寺脇の、手を卵にしないと引っ叩かれる先生に6年間習い、
厳しい先生は発表会で他の子はキャッチーな曲選曲してあげるのに、私には聞いた事ない地何楽章みたいな地味な曲だった。
ドレスは土地持ちおばあちゃんが買ってくれて。誰よりも良い素敵なものだった。
地味な、なんかあまり気が乗らない選曲と、
派手な衣装で臨んだ発表会を終え、
鍵盤の上に置く手の形は卵持ってる形の丸以外は、即手をひっぱたく先生は、
音楽の道に行くべきだと母に言い、
母に、絶対に音楽の道に進ませるべきと言った。
卵形じゃないと引っ叩く先生は、
ピアノの基礎の他に、
私にピアノの日と聴音を本格的に毎週学ばせた。
クイズみたいで、楽しかったし、
何より、手を引っ叩かれない日なので
その日が好きだった。
でも、何回も引っ叩かれても私はレッスンに行くのがすきだった。自分で行きたいと行ったピアノ。
卵を持ってる形じゃないと引っ叩く先生は、引っ叩くときは私はびっくりするけど、 決して怖くはなかった。
今でも顔を覚えていて、
良いとこをよく褒めてくれた。
卵先生は、引っ叩くときは、一切の容赦はしないけど、それが愛だと、きっと私には伝わっていた。
母の前でも、手が卵の形じゃないと、母もびっくりするくらいピシャリと引っ叩く。
私は、卵先生が怖くなかったから、なんど引っ叩かれても、一度も、ピアノレッスンを休みたいと思ったことはなかった。
神田の家では、小学校から帰ると、
ルパン三世を見て、その後ピアノの練習をした。
その頃から、「ルパンルパ〜ン♪」って言ってるのかと思ったら、
後に、作曲者大野雄二さんに「ルパンザサ—ドだっちゅ〜の!」って、北野タケシの様につっこまれる遊びをよくしていたが。
父が浅草のお店から毎日神田に帰ってくるけど、
ピアノの練習していたら怒られるから
帰ってくる前の19時には終わらせなければならなかった。
父親は音楽の中学進学を反対した。
でも、母がその卵先生に伝えると
いくども、いくども、いろんな学校を紹介して母に熱心に、音楽の学校へ進ませるべきだといい
父は、普通の一般的な私立進学でいいと言い、
卵先生と母は、とても残念がって、諦めた。
おとなしく口数少ないわたしは
ほんとは、ある音楽の中学校へ行きたかった。
でも、反対する父、お金を出すのは父
毎日浅草のお店で母も働いていたけど
神田3代目の本物江戸っ子に、そんな話し合いは通用しない。
それから、母が幼稚園の時に、母のへそくりで買ってくれた48万円のYAMAHAのピアノは
神田のウチのリビングで、
もう、蓋を開ける事はなかった。
中学校は、制服可愛いコンクール1位と温水プ—ルの2点で選んだ学校へ行き、
水泳部で毎週皇居5.5キロをランニングし、その後冬もプ—ルでブレスト50m✖️5を3セットとか泳いで、なんだか部活だけ楽しかった。
13歳くらいの時、英語の先生に好きな曲の歌詞の訳を聴きに行き、普段、早弁している私の、
突然の勉強に興味でた私にびっくりされた。
その先生以外は、大嫌いなタイプだった。
小学校の平日は、秋葉原駅前の歩道橋で(あれは異常に揺れるのです)遊びといえば、
「揺れる〜!」って、友達とはしゃぎ、
もう花屋敷で遊ぶ子供も終え、週末も本家神田で過ごすようになり
少し大きくなったわたしは
もう、蓋が開く事のないピアノと、
コンクリートで静まり返った、物音しないこの神田の街の、誰もいなくて少しひんやりした2階の部屋で、床の間に鎮座する鎧に見つめられながら(三体ありました。怖すぎた)いつもドキドキし、
まもなくすぐ、
その床の間に三体飾ってあった全身鎧たちは、
ある日、兄の新品のステレオセットに代わり、
大きなスピーカーからは、
初めて、わたしへ音楽が流れて来た。
ドキドキは、いつの日にか、
いろんな静かな1人のワクワクに変わっていた。
そのうち、たったひとりの日曜日の午後は、
ひとり好きな歌詞を、机に向かいひたすらノ—トに書き、想いにふけるのが好きだった。
レコードを眺め、カセットデッキ編集し、
床の間に置いた、床の間いっぱいに収まってた大きいステレオで、レコードを聴き、
大きな声で松田聖子のアルバムの歌詞を、歌って覚えていた。
いろんな場所へ旅行に行けたり、
空想の恋人とデ—トする気持ちになったり
歌詞の中を旅しているのが、最高に楽しかった。
いつの日か、音程をコピーしたり、歌詞を覚えたりその歌詞を想像したり
全部、わたしには、楽しい遊びだった。
わたしはひとりだったけど、
楽しい日曜日だった。
中学校二年生くらいのとき、鶯谷の塾に行ってた。塾のときは時間的に遅いから
塾の帰りは浅草の家から父と神田の家に2人で帰る事にしていて、
塾から帰ったら
父は倒れていた。
私は、いつもの様に、神田に先に帰ってる母に電話し、神田からタクシーで母が来るまで
近所の喫茶店の友達のお店に助けを求めに走った。
救急車が来たと同時に、母が来た。
私は、今、
一番幸せな、事に身を置ける事になっていた。
成人して、大人になってからは
気がついたら、
歌を生業にしていた。
そして、今、
その歌に、添えるピアノが、私を支えた。
好きな歌を歌い、みんなと音楽の中で旅行に行く。
恋をしたり、季節を感じたり
母がへそくりで買ってくれた、当時48万円の、
とても良い音がするYAMAHAのピアノ。
(その時代のYAMAHAピアノ良い年代)
そのピアノはようやく、
我が家で一番広い自宅防音スタジオ音楽部屋に、
身を置き、自慢げに、私とハノンをやり始め、
あの頃歌った歌と、音を紡いでいる。
ようやく、ピアノのレッスンにもう一度行く日を迎えれる2024春。
あの、静まり返った日曜の午後の様に
歌詞を読む私が
今では、わたしの職業になり、
今までの、私の全ての人生が
わたしを支える。
ありがとう わたし!
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