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われわれは何処から来たのか われわれは何者なのか われわれは何処へ行くのか


 この深遠なる問いかけは、ゴーギャンの絵のタイトルとして有名ですが、ゴーギャンひとりのアイデアだとは思えません。そこで、出典について調べてみました。


Wikipediaでの表記は、
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?

フランスの画家ポール・ゴーギャンが、1897年から1898年にかけて描いた絵画のタイトル。

 といった説明があって、その下に「背景」としてこんな意味のことが書かれています。

 ゴーギャンは、11歳から16歳までオルレアン郊外のラ・シャペル=サン=メスマン神学校の学生であり、同校には、オルレアン司教フェリックス・デュパンルーを教師とするカトリックの典礼の授業があった。デュパンルーは、神学校の生徒たちにキリスト教の教理問答を植えつけ、正しい教義に基づく霊的な影響を与えようと試みた。そして、この教理における3つの基本的な問答が、「人間はどこから来たのか」(Where does humanity come from?)、「どこへ行こうとするのか」(Where is it going to?)、「人間はいかにして進歩していくのか」(How does humanity proceed?)だったのである。
 ゴーギャンは、のちにキリスト教に対して激しく反発するようになるが、デュパンルーに教え込まれた教教理問答は、終生忘れることはなかったようだ。


 「三つ子の魂百まで」というやつでしょうか。まあカトリック圏で生まれ育った人なら大なり小なり聖書の知識が血肉となっているのは当然かとも思うんですが、『聖書』には、たとえば《ヨハネによる福音書》の第8章にこんな記述がありますね。


 パリサイ派の人々が(イエスに)いった。「あなたは自分についての証しをしているが、その証しは真実ではない。」
 イエスは答えて言われた。
「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。」

 ほかに、こちらはwikiには書かれていないんですが、トマス・カーライルの『衣装哲学』の影響じゃないかという説もよく聞きます。
 この本、ずっと昔に岩波文庫から翻訳が出てますが、手元にないので、ネット上から、べつの訳を拝借しましょう。


「思索型の人々にとっては、驚異と不安を感じながら、私は誰であるのか、“私”と呼ぶものの本質は如何、というあの解答不能な質問を自らに向かって発する時間……瞑想的な・甘美な・しかも厳粛な時節が、いずれやってくる。[……(中略)……]私は誰であるか、この〈私〉はなんであるか。声であるか、動きであるか、ひとつの現象であるか。[……(中略)……]しかし私はどこからきたのか。どういうふうにしてきたのか、どこへ行くのか。その答えは、われわれの身辺のいたる所に転がっている。それは、千姿万態を有し、さまざまな声調をもって現われながら、しかも調和のとれている大自然の中に、あらゆる色彩と動きをもって書かれ、あらゆる歓喜と悲泣の調子で発声されている。」(トマス・カーライル著、宇山直亮訳『衣服の哲学』)


 なるほど。名文ですね。しかしこのくだり、キリスト教というよりも、どこか仏教的な匂いがするなァ。


 ゴーギャンは、読書家の知人からよく本を借りており、その中に『衣装哲学』も入っていたという考証もあるようです。


この件を、グノーシス主義との関わりで考察してみた別記事。




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