真実のカタチ
たまに見る、名探偵のコナン君が好きだ。
あの子は「真実はいつもひとつ」って言って、点が線につながった名推理をする。あれはあれでとてもスッキリ爽快な、お通じのいいヒーロー物語。
だけど、実際のところ「真実はいつもひとつ」だとは思わない。
「真実」は様々な人生を送ってきた人々が、それぞれ認識し理解した事の集合体であって、言わば正○角形をつなげてできた多面体のようなものだと思う。その多面体が本当の真実なのだとしたら、私たちにとってそれはとても分かりにくいものだが、その中には共通点もある。きっと、その共通点を「真実のひとつ」と言うのだと思う。だから、人によって認識が少しずつずれてきて、果てには対極の考えが存在することになるのではないか。
真実はひとつではないが、「ひとつ」にしなければいけないのは、何かを進めなくてはいけないからである。
その必要がないのなら、相手にとっての真実は、こう。私にとっての真実は、こう。お互いに認め合うことができれば、それでいいこともある。
今回の件で、会社には迷惑をかけた。
そのせいで自分は悪く思われているのではないか。
でもそれが真実かどうかは、休んでいる限り確認のしようがない。そもそも、自分がこうなったことは100%私の責任だとは到底思えない。1日の業務量がパンパンであるにも関わらず、膨大な業務量のプロジェクトに関わらなければならなかった。月の残業時間などここでは言えないが。新しい人も採用されない。周りも、業務のサポートをお願いできるほどの余裕はまるでない。まぁ、どこにでもあるといえばあることで、私にその耐性がなかったと言われればそれまでである。ただ、私が素直にそう思えないのは、この5年もの間、今よりもキツイであろうパワハラや仕事の山場をいくつも乗り越えてきた自負があることも大いに関係していると思う。
もちろん、今は勘違い以外の何物でもないのだが、それでも、そこらの根性なしとまとめてもらっては困る、と内心では毒を吐いている。
加えて、「まーどこにでもあるよね」というのは、ただひたすら耐え我慢せよと言うこととほぼイコールでありなんの慰めの言葉にもならないので、今後使わないことをお勧めする。
とはいえ、履歴書上はそう見なされてもおかしくないという自覚もある。ましてや、私はそれだけの自負をいいことに、音を上げなかった結果がこれなのだ。
会社が何かを反省しているかどうかは知らないが、私の一番の失敗はこの部分にあって、これを機会に少しでも改めなくては…と思っている。