こちら後宮、華の薬湯屋【第一話】
あらすじ(ラストまで)
補足:みどころ(キュン・エモさ)
① 主人公・海里は中性的な美人なのですが、男性に免疫がないため男湯を見るのが恥ずかしく、「顔に醜い傷があるから」と嘘をついて麻袋を被って湯屋の仕事をしています。
アクシデントが起こって、麻袋が脱げた海里の顔に顔を赤くしてしまう男性陣のシーンはとてもエモいと思います……!
② また、海里は宦官というテイで働いています。それゆえ海里にドキドキしている男性陣は、「自分はそういう性癖(BL)だったのか……?」と悶々としてしまいます。
女バレしそうなハラハラシーンも随所に盛り込んでいきます。
③ 勘のいいキャラクター(楊星)は途中で海里が女だと気がつきます。海里にちょっかいを出しつつも、ピンチでは陰から助けます。好意を自覚してからは一途にアプローチしますが、結局「一番の友達」の域を超えることができず、献身むなしく最後は身を引く切なさがあります。
④ 南照・春鈴といった年少組や、覇天というモフモフなど、和み要素も盛り込んでいきます。
⑤ 全体的にはラブコメっぽい感じですが、湯屋や薬剤師といったお仕事的な側面もメリハリをつけて読者の感情を揺さぶるように描いていきたいです。作者は薬剤師なのでガッツリ本格的にすることも可能です。
補足:主要キャラざっくり紹介
安田海里
年齢:25
性別:女
見た目:長い黒髪、茶目。中性的な美人。(仕事中は顔に袋を被っている)
主人公、薬剤師。
田舎の漢方薬局の一人娘ゆえ、箱入り気味に育てられる。男性に免疫がない。背が高くまな板のような体型が災いし、宦官だと間違われる。
世間に疎く単純なところがあるが、前向きで頑張り屋。
華遼
年齢:26
性別:男
見た目:黒髪・赤目。
軍神とも呼ばれるイケメン皇太子。愛想がなく無口なのは、物心ついたときから戦場に駆り出され続けたせい。
臣下を守るため、いつも最前線で戦う。そのため服の下は傷だらけ。
海里の裏表ない性格と薬によって、次第に心を開いていく。
楊星
年齢:25
性別:男
見た目:銀髪、金目
華遼の側近兼護衛の武官。自身も皇族。
穏やかなイケメン。海里をいじると面白いので、よく姿を現す。
覇天という神獣を乗り物にしている。
南照
年齢:14
性別:男(宦官)
見た目:赤毛、灰目
湯屋の従業員。しっかり者。
海里にドキドキするが、自分はそういう性癖なのかと苦悩する。
第一話
雲一つない青空に、響き渡る蝉の鳴き声。
店先からガラス扉越しに見えるのは、畦道と青々とした田んぼの繰り返し。いつもと一つも変わりない風景に、わたしは大きなあくびをした。
「じゃあ、海里。お願いね。十八時には帰れると思うから」
「行ってくる。お客さんは来ないかもしれないが、いらっしゃったら対応を頼んだよ」
店の奥から出てきたのは、両手に大きな鞄を持った父と母。
高齢であるとか身体が不自由で店に――安田漢方堂に来ることができないお客さんのために、ご自宅まで薬を届けに行くのだ。
「わかった。行ってらっしゃい」
店を出て駐車場に向かう二人の背中を見送る。
エンジンをかける音がして、砂利をタイヤが踏みしめる音と共に、店の前を一台の軽自動車が通り過ぎる。助手席から手を振る母に、手を振り返す。
関東某県にある有名な温泉地。そこから車で30分もいけば、そこはもうド田舎と言って差し支えない。
そんなド田舎の田んぼの真ん中にぽつんと立っている漢方薬局。それがわたしの実家、安田漢方堂だ。
あるのは由緒だけ。売り上げはカツカツだし、地域の人口は年々減っているし、この先どうなるんだろうって少し心配してる。
父さんも言っていたけど、たぶんお客さんは来ない。ごくたまに、体調を崩して高速道路を降りてきたような観光客が来るだけ。それだって温泉のハイシーズンである冬が多くて、夏なんか誰も来ないのだ。
「ふふふっ。じゃあ早速続きをやろうかな!」
わたしには、両親がいないときの楽しみがある。
それは、昔の資料に出てくる漢方処方を再現することだ。ご先祖様が残した資料や、図書館で借りた歴史書に出てくる見たこともない処方を、材料を集めて調合するのである。
両親、特に母さんに見つかったら「そんな暇があるなら、夕飯の下ごしらえとかお風呂掃除でもしておいてちょうだい!」って怒られる。だからこれは自分だけの秘密だ。
受付台の下に隠した木箱を取り出し、かぱっと開ける。
中には、いくつかの生薬が入っていた。
「草烏頭二分、白芷二分、当帰二分、川芎二分。華岡青洲が開発したという麻酔薬、通仙散! ああ、どんな使い心地なのか早く試してみたい……」
ここまで苦労して材料を集めてきた。最後の材料である曼陀羅華も、現在乾燥させているところ。
かつて、通仙散を試飲した華岡の妻はその毒性のあまり失明したという。しかし華岡は開発を続け、全身麻酔の薬として完成を成し遂げたのである。
「花岡さんが人生をかけて開発したお薬。いかほどのものなのか、考えるだけでも身体が震えてくる……っっ!!」
もちろん、失明するわけにも昏倒するわけにもいかないので、一口ぺろっと舐めるだけにするけれど。
ほくほくした気持ちで、母さんに見つからないように棚の上で乾燥させている曼陀羅華の様子を確認することにする。
「よっと」
安田漢方堂に在庫している生薬は約二百種類。それらを保管している大きな木製の棚は横にも縦にも長く、ハシゴを使わないと上の方の棚には手が届かない。
店の隅に寝かせてあるハシゴを掛け、いつものように右足から登り始める。
天井すれすれのところで、ようやく大切な曼陀羅華が目に入る。新聞紙の上に置いた白っぽい花に触れるとかさかさとした手触りで、順調に乾燥が進んでいるようだった。
「あと三日くらいかな。ふふっ、楽しみ楽しみ!」
さあ、降りてもう一度木箱の可愛い生薬を眺めよう。
そう思って右足を下の段におろす。――――が、右足は空を切った。
「――――あっ」
踏み外した、と気づくにはあまりに遅かった。
どこまでいっても右足の裏が梯子を捉えることはない。両手を伸ばしているはずなのに、どんどんハシゴは遠ざかる。眼鏡が吹っ飛び、視界がぼやけると同時に頭に強い衝撃が走った。
そこでわたしの意識は暗転した――。
◇◇◇
目を開くと、雲一つない青空が広がっている。視界の隅には木々が映り、少し肌寒い。
店中に充満している漢方の香りはせず、代わりに森の新鮮な空気のにおいがする。
「えっ……? ここは一体……痛っ!!」
体を起こすと、ズキンと頭が痛む。
こめかみを押さえながら立ち上がる。周囲を見回すと、やっぱり森だ。
でも、見覚えがない。家の近くの森なら、しょっちゅう駆け回っていたから覚えているはずなのに。
「ええ……? どういうこと? しかも寒いし。蝉はどこに行ったのよぅ」
今は八月。いくら北海道だってこんなに寒いはずがない。
長袖の白衣の下は、安田漢方堂オリジナルの作務衣。この格好で寒いだなんて、季節が違うとしか思えない。
さく、と草を踏みしめて歩き出す。
青く茂る木々を眺めながら、明るい日が差すほうへ向かっていく。
十分ほど歩いたところで、開けた場所に出た。
誰かが休憩していったような跡がある。炭化した焚火の残りに、麻袋、食事のかすが散らばっている。
「もしかしてキャンプ場? そんな場所、近くにあったっけ。……あ、あっち。森が開けてる」
すぐそばに、木々が終わって空が見えているところがある。
どうやらここは小高い場所になっているらしい。そこから見渡せば少しは現在地に着いてヒントがあるかもしれないと、そろりそろりと崖に近づく。
――見下ろした先に広がっていた光景は、日本ではなかった。
「えっ……?」
反射的に目が見開かれる。
山あいの盆地。見下ろす町には碁盤の目のように通りが走っている。中心部には目立つ赤い屋根をしたお城がいくつも建っていて、市街地には小さな屋根が無数に見える。
それらは日本家屋ではなくて、歴史の教科書で見た中国の建物みたいだった。
眼下に広がる、異国情緒あふれる街並み。
膝の力が抜けて、へなへなとその場に座り込んだ。
「中国、中国、中国……?」
それ以外の言葉が出てこない。
一体全体、わたしはどうして中国にいるのだろう? ついに十分ほど前までは、実家の漢方薬局で店番をしていたはずなのに……。
これは夢だ。そうであってほしい。もはやそう思うしかなかった。
しかし、わたしの鼻をつく森の青々とした香り、耳に入る知らない鳥の鳴き声、そしてこちらに近づく複数の話し声は夢にしては現実的すぎる感覚だ。
「――話し音?」
ハッとして我に返る。
よかった! ここはどこなのか、どうやったら家に帰れるのか、教えてもらえるかもしれない。
話し声と足音がする方に向かって、ふらふらと歩き出す。
「――でもよう。今回の女どもはあんまり上等じゃねえなあ」
「仕方ねえだろ。どこも取り締まりが厳しくなってんだ。皇太子様のお陰でよお」
「質が駄目なら数で値を引き上げるしかねえ。あと一人二人追加したいところだ、一人でうろついてる女を見つけたら騒がれる前に掻っ攫え。いいな」
「「へい!!」」
どくり、と心臓が跳ねた。
粗野な言葉遣いに、野太い大声。この男たちは、女性を攫って売りさばくことを生業としているようだ。
――見つかってはいけない。わたしの脳内でうるさいほどに警報が鳴りまくっている。
「急いで逃げなきゃ……!」
――とはいえ後ろは崖だ。音が近づくのは左方向。
であれば、逃げ道は右方向しかない。男たちの進行方向にあたるが、大丈夫だろうか。走る音に気付かれて追いかけられれば、運動音痴のわたしに勝ち目はない。
「仕方ない。……隠れよう」
一瞬で決断する。どんどん声が近づいてくる。これ以上考えている時間はない。
わたしは近くに落ちていた麻袋を頭からかぶり、腰ほどの高さの茂みに身を隠した。どうか気づかれずにやり過ごせますように。そう必死に祈りながら。
かくして男たちの話し声はすぐそこまで来た。息を殺し、早く時よ過ぎろとぎゅっと目をつむる。
「ったくよー。妓楼に行く足しにもならねえなあ。おい宇軒、女どもが遅れてるぞ。早く歩くように言え」
「あい! おらお前ら、もうちっと早く歩けねえのか。後宮まであと二刻はかかるんだ、もたもたすんなあ!」
どうやら男たちに捕まった女性たちも一緒に歩いているらしい。全く声が聞こえなかったから分からなかったけれど、可哀そうなことだと胸が痛くなる。
――というか、ちょっと待て。今この人、妓楼だの後宮だのって言った? そんなもの現代の中国に無いよね? えっ、もしかしてここ、そもそも現代ですらないってこと!?
すうっと血の気が引いていく。
そして、悪いことは続くものだ。
「待て。あれは何だ?」
近くでぴたりと足音が止む。
「……白い布、ですかね? なんか不自然な出方をしとりますが」
「茂みから布が生えている、なんて馬鹿なことがあるか? ……ひひっ、天は俺らを哀れに思ってくれたらしい。……おい克軒、見てこい。あの震える布をな」
「へいっ!」
そこでわたしは初めて気が付いた。
長い白衣の裾が、隠れている茂みからはみ出していることに。
(ひえっ!! お、終わった……っ!!)
頭隠して尻隠さず。緊急事態にもかかわらず、そんなことわざが頭に浮かんだ。
ガサガサッという荒々しい音がして、誰かがわたしの肩を掴んだ。その力強さから、自分はもう逃げられないのだという絶望が胸を覆いつくしていく。
「おいおい、柔けえぞ。こりゃあもしかして女か? さあ、こっちへ出てこい!」
「ひええっ!」
勢いよく茂みから引きずり出される。
恐る恐る顔を上げた先には、にやつく三人の男がいた。
薄汚れた麻服を身にまとい、ぼさぼさの髪に無精ひげ。ろくでもない人間であることが一目で分かるなりである。
そしてその後ろには、数名の女性たちが暗い表情で佇んでいる。
(み、見つかった……! 殺される? 売られる? どうしよう……っ!)
こんなところで死にたくない。
苦労して薬剤師になってまだ一年。わけもわからない世界でこんな人たちに殺される最期なんてあんまりだ。
ぎり、と歯に力が入る。
男たちを睨んでいると、にやついていた男たちの表情が、一転つまらなさそうなものに変化した。
「――――なんだ。男か」
「ですねえ。女にしてはデカいし、乳も尻もねえ」
「それにしても変な服を着てるなあ。初めて見たぞ、こんな格好。もしかして異民族か?」
(――――――はいっ??)
――「男」。
男だと思われている??
ごろつき三人組は輪になって議論を続ける。
「残念ですね、頭領」
「馬鹿。えらく整った顔つきだし、金にはなるぞこれは」
「そ、そうですね! 連れていきましょう!」
(ちょっと待って。男として捕まるわけ!?)
話の方向性が怪しくなってきたことに戸惑いを隠せない。
でも、男と間違う気持ちも分からなくはなかった。
彼らの指摘通り、わたしは胸も尻も薄っぺらだ。身長は170もあるし、声も低め。顔も中性的なほうだと自負している。
一応髪は長いけれど、いまどき長髪の男性だっているしなあ。こうして考えてみると、女性らしさって何だろうという問いは非常に難しい――。
わたしが哲学していると、男の一人がガハハと下品に笑った。
「ははっ。驚いて声も出ねえようだな。初々しい坊ちゃんだ。おい宇軒、見たところ大丈夫そうだが、一応確認しろ」
リーダー風のごろつきが、頭の弱そうな宇軒に指示を出す。
「へいっ!」
返事だけは百点の宇軒。
右手をわきわきさせながらこちらに近づいてくる。
(確認? 一体何を?)
確認というからには、危ないことではなさそうだけど。
身を固くしていると、宇軒はえいやっとわたしの股間を掴んだ。
「――――――――!?!? ちょっと! 何すんの!!」
(なんだこいつ! 変態なの!?)
顔に熱が集まり、慌てて宇軒の右手を振り払う。
しかし、彼は平然とした様子でリーダーに報告する。
「ついてません。自宮済みみたいですな」
「ふん。どこかの屋敷で働いていたのか? まあ、取る手間が省けていいな。すぐに売れる」
「少々声が高いが、そういうのが好きな奴もいるからな。あそこでは女みたいなやつも需要がある」
(――何を言っているの? この人たちは??)
女なんだから付いている訳がない。というか、男だと思っているのに付いてないほうがいいってどういう意味なの?
色々と訳が分からないけど、余計なことを質問したらまずい気もする。
(……話していた内容からすると、女だとバレたら後宮に売られてしまう)
そんなの真っ平ごめんだ。こちとら中高大と女子校育ちで、ろくに男性と話したこともないのに。好きでもない人と、それ以上のことを日常的にするようになるなんて、絶対に無理!
(男のままやり過ごせば、少なくとも後宮入りは免れられそう。労働力として売られるんだろうけど、その方が逃げ出すチャンスはありそうじゃない?)
はい決まり。
わたしは男です。
アレは付いてませんが、それでいいみたいなので好都合。
そう腹を決めれば、気持ちも落ち着いてきた。
ここはどこなのか、これからどうなるのか。分からないことが多すぎるけど、今は流れに身を任せることにした。
腹を決めたわたしは、暗い表情をした女たちの列に並ぶ。抵抗はしない、という意志表示のつもりだった。
その様子を見たごろつきたちは下品に笑った。
「おっ。分かっているようだな」
「賢い選択だぜ兄ちゃん。宦官の力じゃ俺らに敵いっこねえからな」
「じゃ、出発するぞ」
ざっ、ざっと草を踏みしめながら、一行は何処かを目指す。
――ふと空を見上げれば、青から茜色へと続く穏やかなグラデーションになっていた。
(もうすぐ夕暮れか……。父さんと母さんは外回りから帰ってきたころかな? わたしがいなくて怒ってるかな……)
はあ、と深くため息をつく。前をゆく女の人が、気の毒そうな表情でちらりと振り返った。
「……ありがとうございます」
心配してくれたように思えたので、お礼を伝えておく。彼女は何も言わずに前を向き直った。
どこだかもわからないこの世界。
けれど、その夕焼けは、日本のそれより不思議と美しく見えたのだった。
◇◇◇
わたしたちが連れて行かれたのは、崖の上から見えたお城のような場所だった。
龍の彫刻が施された正面の赤い門ではなく、裏口のような場所を通って中に入ると、すぐにみすぼらしい小屋があった。
そこでわたしたちは売り飛ばされた。
「女が5人と、自宮済みの男が1人だ」
「あいわかった。これが報酬だ」
チャリンチャリンという硬貨の音に頬を緩ませた3人組は、要は済んだとばかりにさっさと去っていった。
わたしたちを買い取った胡散臭そうな男は、こちらに向き直って面倒くさそうに言う。
「女どもは後宮の下働きとして入れ。下女房はこのすぐ裏手だ。おまえは、そうだなぁ……」
わたしに目を留めて少し考える男。
「……ああ、湯屋だな。婆さんが死んで困ってるって言ってたから、それがいい。おまえは後宮の湯屋番だ」
「ゆっ、ゆやばん?」
「そうだ。この道を真っ直ぐに行って、2つ目の角を右に曲がれ。その突き当りが湯屋だ。今は南照ってのが一人でやってるから、仕事はそいつに教われ」
男はそこまで言うと、ひらひらと右手を振って小屋に戻ろうとしたので、慌てて引き留める。
「あっ、あのっ! わたし、後宮じゃなくて外で働きたいんですけど!」
「あぁ? いまさらそんなこと言われたってこっちも困るよ。だってお前はここに売られたんだから。俺じゃなくて自分の不運を恨みな。……それとも何か? 後宮でなんにもせずに、野垂れ死ぬことを希望しているのか?」
男が胡乱げに目をぎらつかせたので、反論の言葉はぐっと喉に詰まる。
「いいか。一度ここに入ったら、勝手に逃げ出すことはできない。売られた瞬間から、お前は皇帝陛下の所有物になったんだ。自分で汗水たらして金を稼いで、ここで暮らしていくしかないんだ」
それはどこか、男が自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「分かったならさっさと行け。俺はメシを食うからな」
小屋の扉は無情にもバタンと閉まる。
残されたわたしと女性たちは、特に言葉を交わすわけでもなかった。
それぞれに深いため息をついて、うつむきながら、自分の働く場所へと向かっていったのだった。
◇◇◇
「ここが湯屋かぁ……」
目的の場所には迷うことなくたどり着いた。
城内も碁盤の目のように道が走っているから、ある意味わかりやすい。
新しい職場となった湯屋は、あずき色をしたそこそこ立派な二階建て。建物の隙間から、もうもうとした湯気が夜空に立ち昇っている。
中からは背中を流すような水音や、時折笑い合うような声がかすかに聞こえてくる。
後ろからやってきた男性陣が、わたしを追い越してどんどん中に入っていく。
一人がわたしの肩にぶつかって眉をしかめる。
「おい、ぼさっと立ってんじゃねえよ。邪魔だ邪魔だ」
「すっ、すみません!」
チッ、と舌打ちをする彼らは桶と布を小脇に抱えている。
「……日本でいう銭湯みたいな場所なのかしら?」
どうもそんな感じだった。
まったく知らない職業ではなかったことに少しだけ安心して、わたしは湯屋ののれんをくぐる。
「こんばんは。今日からここで働くことになった海里で――」
「あっ! 新人の方ですか!? うわぁ、助かった! ありがとうございますっ!! とりあえず番台をお願いします!!」
橙色の作務衣を着た小さな子が、チラッとこちらを振り返って叫んだ。
そしてすぐに、慌ただしく仕事に戻っていく。
「忙しいのねえ。あんな小さな子まで働くなんて、そうとう人手不足なのね」
ちょっと気の毒になり、わたしはすぐそこの番台にのぼる。
この湯屋は日本の銭湯と同じようなつくりになっていて、入り口のすぐそこに番台がある。男と女が左右に分れていて、それぞれの脱衣所の先に浴場があるといった位置関係だ。
ふぅ、と一人用のボックス席のような番台に腰を下ろすと、とんでもない光景が目に入った。
「――――男湯うっっ!!!!」
裸、裸、裸!!
いや、銭湯だから当たり前なんだけどっ!!!!
なぜか女湯の脱衣所はガラガラで、男湯のほうは大勢の男性でにぎわっていた。もちろん、衣類は身に着けていない。どこもかしこも肌色だらけだ。
「ちょっとちょっと!! こんなの無理無理!!!!」
慌ててポケットに入れていた麻袋をズボッと被る。ここに来る前、森で拾ったやつを捨てずに持っていてよかった。
目の部分の布目を指で少しだけ広げて視界を確保する。さすがに何にも見えないと仕事にならない。
「はぁ~。びっくりした。ろくに男子と絡んでこなかったのに、いきなりこれはハードルが高いって……」
視界がかなり狭められたことで、バクバクいっていた心臓は落ち着きを取り戻していく。
わたくし安田海里、二十五歳。自慢じゃございませんが、男性経験は皆無でございます。
過保護な両親によって、中学高校大学と女子しかいない学校に通ってましたからね!
就職したのも実家の小さな漢方薬局だから、私の中での男子の姿は小学校で止まっている。
ここ十年以上、父親以外の男性と会話したことすらないのに、いきなり成人男性の裸体の群れを目の当たりにするのは刺激が強すぎる。
――とはいえ、よくよく目を薄くして確認してみると、男性とはいえ股の間にあるべきものがないように見えた。
(……ああ。きっとこれが自宮済み、ってやつなのね)
つまり、物理的に生殖器を除去してしまうということだ。
何でそんなことをするのだろうと一瞬考えたが、ここは後宮。つまり皇帝の奥さんたちが住まう場所だということを思い出す。
皇帝以外の男はいらない、ということなのだ。
(すごい考えよね。ブツを切って取ってしまうなんて。すごく痛そう)
小学校の男子は、野球ボールが股間に当たっただけですごく苦しんでいたけど。
それを切り取るだなんてことをしたら、気絶じゃ済まないのではないだろうか。
考えていると自分まで痛みを感じ始めたため、まあいいやと思考を放棄する。
男の裸をなるべく見ないようにしながら番台で仕事をする。
湯屋に入ってきた客は、麻袋を被ったわたしをみるとみんなギョッとした顔をするものの、
「新入りです。顔に醜い傷跡があるので、皆さんを不快にさせないためこれを被ってます。よろしくお願いします」
と伝えれば、なんとなく納得した顔をしてそのまま脱衣所に進んでいく。湯屋の使用人の事情など、誰も気にしていないのだ。
我ながらうまい理由を思いついたとホクホクしながら、必要以上に男性の裸を見ずに済むことにほっとした。
客の流れが一段落したとき、先ほどの橙色の作務衣を着た子がちょこちょことやって来た。
賢そうな男の子だけど、栄養が足りていないのか手足は細い。
そしてもしかしたら、男の子だけど、男性じゃないのかもしれない。こんな小さな子にそんなことを考えたくないけど……。
「すみません、今は男湯のピーク時間でして。ご挨拶が遅れました。僕は南照と言いま――。って、海里さん!? なにを被ってるんですか!?」
「あなたが南照? この湯屋を一人でやってるって本当? すごい激務じゃないの」
南照に顔を隠す理由はないので、わたしは麻袋をとる。
驚き顔の南照に笑いかけると、彼はなぜか顔を赤くした。
「ちょっと事情があって、あんまり男湯の方を見たくないんだよね。でも、女湯の方ばかりを見ているのも変でしょう。だから仕事中はこれを被ることにした。大丈夫、お客さんには顔に醜い傷跡があるって説明してるから」
顔バレはいいが、女だとバレてはいけない。男性風の口調を意識しながらわたしは答えた。
南照はもごもごと口を小さく動かしてなにか言いたそうにしていたけど、わたしは「これからよろしく!」とそれを勢いで押し流した。
「それで、もう店じまいの時間? 明日は何時に起きたらいい? わたしの部屋はあるのかな」
壁に掛けられた時計を見ると、もう日付が変わりそうだ。
今日は色んなことがありすぎたからすごく疲れている。身体の方ではなくて、主に心の方が。
布団に入って、ゆっくり状況と心の整理をしたかった。
しかし、南照はため息とともにとんでもないことを口にした。
「何を言ってるんですか。この湯屋は二十時に開いて、翌朝八時まで営業ですよ。そのあと湯の掃除や薪割りなどをして、僕らが寝るのは昼餉の後です。起床は……そうですね。仕事に慣れるまでは十七時にしましょう」
「19時間労働に5時間睡眠!? ぶっ、ブラック企業じゃん!!!!」
「なんですか、それ」
首をかしげる南照だが、わたしは思わず意識が遠くなりかけた。
日本にもあるような銭湯なら、どうにか働くこともできそうだと思ったけれど。ここは予想以上にハードな職場っぽい。
再び湯屋の入り口が開いた音がして、わたしは勢いよく麻袋をかぶる。
仕事終わりの宦官のピークが終わると、朝方は勤めを終えた妃嬪のピークがやって来る。
まぶしい陽の光に目を細めながら入口ののれんを下ろすころには、全身くたくただった。
「あのー……。大丈夫ですか? 海里さん。残り湯、浸かっていいですよ。僕はいつも男湯に入ってますから、すみませんけど女湯でいいですか?」
「……ああ、うん。ありがと」
哀れなものでも見るような、遠慮がちな南照の声。
最後の力を振り絞って相槌を打ち、ゾンビのように女湯へ向かった。
無心で身体を洗い、湯船に身を沈める。
薪はもう消してあるから、ちょっとぬるいけど。それでもやはり、お風呂はいい。身体と心の奥の方から、熱いものがじわりと溶けていく感覚になる。
「……わたし、これからどうなっちゃうんだろう」
漠然とした、しかし大きな不安。
けれども、それより何より今の自分が求めているのは睡眠だった。
湯を出たわたしは2階の寝室に上がり、布団に入って3秒も経たずに夢の中へ落ちていったのだった。