こちら後宮、華の薬湯屋【第二話】
「海里さーん! 薪はもっとじゃんじゃん入れてください。開店に間に合いません」
「足りなかった!? ごめんっ! あっ、薪の在庫がない! 急いで割らなきゃ!」
「十五時までに売上金を出納殿に持っていってください。今日が締め日なので。その足で御膳房に寄って夕餉をもらってきてください。今のうちに行っておかないと、昨日みたいに食いっぱぐれます」
「出納殿!? それどこ!? やばいな、まだ脱衣所の掃除も終わってないのに」
――湯屋の仕事は目が回るほど忙しかった。
前任のお婆さんが亡くなってから一か月ほど、南照はこれを一人でやっていたらしい。そりゃあ育ち盛りなのにやせ細るわけだ。
この国の名前は黎。
大陸一の大きな帝国で、華皇帝という偉い人をトップに三千万人の国民が暮らしている。
昔の中国に似ているものの、全くの別世界だった。
そういう状況をよくよく噛みしめて寂しく思う暇がないほど湯屋が忙しいのは、果たして良いことなのか悪いことなのか。
でも、銭湯というものに馴染みがあったのは幸いだったと思う。湯屋は忙しいけど、仕事そのものは理解しやすかった。
――けれど、そうやって気の緩みが出た時にこそ、事件は起こるものなのだ。
湯屋で働き始めて二週間目の、たぶん火曜日っぽい日のこと。
開店直前の後宮湯屋につかつかと入ってきた役人は、運悪く入り口近くにいたわたしを見るなり怒鳴り声をあげた。
「近頃、湯屋の掃除が行き届いていないと妃嬪から苦情が入っている! 新人の分際で仕事に手を抜くとはいい度胸をしているじゃないか!」
「へっ!? そうなんですか。すみません、以後気をつけます」
とりあえず謝ったけど、掃除はきちんと毎日やっている。
でも、なにぶん建物が古いので、部屋の四隅にはカビが生えているし、傷んだ床板はところどころ木の繊維が飛び出したりしている。
それを全て清潔にするというのは、ただでさえ人手が足りない今の湯屋には不可能なことだ。
「……あの。もちろん掃除は頑張りますが、正直できる対応には限りがあります。建物を修繕してくれたら、根本的な解決になると思うんですが」
すると、役人はみるみる顔を真っ赤にして激高した。
「宦官の分際でワシに口答えをするな! 修繕してもらえば自分の仕事が減ると思ったのだろう! おまえのような者が何かを願い出るなど百年早い! この怠け者がっ! 気味の悪い麻袋など被りおって!」
役人は手を振り上げ、そしてわたしの頬を打った。
相手は小柄だったが、それでも男性の力だ。頬にじんじんとした熱を感じながら、わたしは床に倒れ込む。
「海里さんっ!? どうしたんですか!?」
騒ぎを聞きつけた南照が駆け付け、役人に土下座をしてぺこぺこと頭を上下させる。
役人は彼に向かってもグチグチとなにか小言を言っていたが、その様子はしだいに涙で滲んでいく。
わたしのなかで、ここ二週間必死でこらえていたものが、ぷつりと音を立てて切れていた。
(もう嫌だ。どうしてわたしはここにいるの? 元の世界に戻りたい。父さんと母さんに会いたい。薬剤師の仕事はもう二度とできないの?)
麻袋をかぶっていてよかった。無様な泣き顔なんて誰にも見せたくない。
役人がドシンドシンと足音を立てて帰っていった後も、わたしは涙を止めることができなくて、その場に座り込んでいた。
「海里さん。大丈夫ですか? 怪我してないですか? あの手の役人の言うことは、思うところがあっても黙って聞いておいた方がいいですよ。あいつら、宦官のことなんて人間以下だと思ってますから」
優しい南照が手を差し伸べてくれたけど、その手を取る気持ちになれなかった。
なにもかもがもう、どうでもよくなっていた。
そんなわたしの様子を見て、少しの間があった後、南照は穏やかな声を出す。
「……今日はお休みにしましょう。僕が1日湯屋を回しますから、海里さんは気分転換でもしてきてください」
ぽん、と麻袋の上から頭に手らしきものが置かれた。
それはあっという間に離れていき、彼は足早に自分の仕事へ戻っていった。
◇
「南照はわたしよりよっぽど大人ね。今日だけは、ありがたく休ませてもらおう」
すっかり日が暮れて、空には美しい双子の月が姿を現している。
わたしは南照の言葉に甘えることにして湯屋を抜け出し、ふらふら歩いているうちに、広大な敷地の隅にある丘にたどりついていた。
ちょうどいい岩の上に腰を下ろす。
肌寒いけど、静かでいい。
双子の月を見上げると、その静謐さに心が凪いでいくけれど、同時にここは地球ではないことを改めて思い知らされ、じわりと瞼に涙が盛り上がる。
昼間に我慢していた涙を、わたしは解放した。
憚ることなく声をあげて泣き、わたしが恋しく思うものに向かって寂寞の念を叫んだ。
◇
好きなだけ泣いたらいくらかすっきりした。
正気を取り戻したわたしは、途端に一人で頑張ってくれている南照が申し訳なくなり、湯屋に戻ろうと立ち上がる。
「もうお帰りかい? 君の叫び声は、実に素直で面白かったのだけど」
穏やかだけれど、夜空を貫くような鋭さをはらんだ低い声にはっとする。
「どっ、どなたですか? どこにいらっしゃるんですか?」
散々喚き散らしていたので、人が来ていたことに気がつかなかった。
けれども、いくら辺りを見回してみても誰もいない。
「ふふっ。面白い顔だね。ここだよここ。上を見てごらん」
「うっ、上ですか?」
弾かれるように空を見上げると。
そこには巨大なモフモフにまたがった男性が浮いていた。わたしと視線が絡むと、一人と一匹はふよふよとこちらに向かって下降してきた。
「あははっ。そんなに目を丸くしちゃって。化け物でも見たような表情をしているけど、違うからね?」
モフモフからひょいっと軽やかに下りた男性は、わたしの正面で涼やかに笑った。
透き通るような銀色の髪に、しっかりと光を宿した金色の瞳。しなやかな狼を思わせる佇まいに思わず目が惹かれてしまうのは、きっとわたしだけじゃないだろう。
着ている衣類は上等そうだし、腰には大きな剣を佩いている。後宮でよく見かける宦官や役人の類ではないことは明らかだった。
「あっ、あなたは誰ですか? どうしてこちらに?」
「名乗られるまえに名を尋ねられるのは初めてだな。ふふっ。君、やっぱり面白いね」
どうやら自分はまたミスしたらしいと気がついたけど、この男性は怒るどころかくすくすと品よく笑っている。
「えっと、すみません。ここには来たばかりなので、ルールをよく知らないんです。……わたしは安田海里です。後宮の湯屋で働いてます」
「へえ、湯屋で? なるほどね。それであんなことを叫んでいたわけか。まあ、大変だよね。家から出て来たばかりで上司の理不尽に振り回されてさ。わかるよ」
男性はうんうんと頷いたのち、自らの名を名乗る。
「俺は楊星。で、こっちは覇天。また会う機会があるか分からないけど、これも何かの縁かもしれない。まあよろしくね」
差し出された左手を、おそるおそる握る。楊星さんの手は、どこか冷え冷えとした外見とは裏腹に、ほんのりと温かかった。
「よ、よろしくです……」
楊星さんの隣にいる覇天は白い毛並みが美しく、紫色の宝石のような瞳には気高さが感じられた。
このモフモフは自分より格上の生き物に思え、わたしは思わずぺこりとお辞儀をした。
覇天はフスンッと鼻を鳴らし、ぺろりとわたしの手を舐めた。
「おやおや。覇天は君のことが気に入ったみたいだね。僕以外の人間を舐めたのは君が初めてだ」
「そうなんですか? それは光栄です。初めて見る動物ですが、かっこいいですね」
覇天が地面に寝そべったので、そろりと背を撫でてみる。
くるんと巻いたしっぽがゆらゆらと左右に振れているので、嫌がられてはいないみたいだ。
「背まで撫でさせるなんて。まったく覇天。神獣の名がすたるよ」
楊星さんが呆れ声を出す。
「神獣、ですか?」
「そう。この国の一部の人間は、覇天のような神獣を乗り物にしている。有名な話だと思うけど、見るのは初めて?」
「初めてです! 空を飛べるなんてすごいですね。気持ちよさそう」
「……乗ってみる? 覇天がこれだけ懐いているから、きっと許してくれる」
「えっ!?」
驚いて楊星さんの方を見ると、彼はいたずらっ子のような笑みを浮かべていた。冗談のような言い方だったけど、その目を見れば、本気だということが伝わってくる。
わたしが口ごもっていると、彼はうーんとわざとらしく首をかしげる。
「どうやら君が、親元を離れてここに来て寂しがってるみたいだったから。これは俺なりの励ましってやつになるのかな。あいにく俺は、じっくり話を聞いて励ませるタイプじゃないからね。神獣の背中に乗せてあげることしかできない」
「……あ、ありがとうございます……」
心配してくれたことに対するお礼だったのだけど、楊星さんと覇天は、それをYESの返事だと受け取ったみたいだった。
覇天はおもむろに立ち上がってわたしの襟を食み、ぽいっと背中に放り投げた。そして、いつの間にか覇天にまたがっていた楊星さんが抱き留める。
「よし、覇天。久しぶりに遠乗りに行こう! 俺たちもいつもこき使われているから、たまには息抜きをしないといけない」
『ギュイッ!!』
「えっ、ちょっと! あの、実はわたし高い所が苦手で! あっ、うわっ、ひえええええええ!!」
覇天がグッと地面を踏み込んだ次の瞬間、わたしたちは勢いよく夜空に飛び出した。
最初こそ楊星さんの背中にしがみついてぶるぶる震えていたけれど、いつの間にか間近に迫る星や月の美しさに心を奪われて、遠乗りが終わって湯屋に戻ったときには、心は一つの陰りもなくすっきりと晴れ渡っていた。
だからわたしが意気揚々と湯屋に入っていったあと、楊星さんが覇天に
「あの者を調べろ。行動は隠密に。我が主にも気づかれてはならぬ」
と囁いていたことなど、知る由もなかったのである。