私はグループディスカッションができない。
今年5月、昼下がりの市ヶ谷駅を出て、某センターに向かうわたしの足どりは重かった。その日は某企業の2次選考の日で、初対面の就活生たちとグループディスカッションをおこなう日だったのだ。わたしは就職試験のグループディスカッションがとても苦手で、ほとんど毎回落ちる。苦手な理由は、考え方の前提まで決められていて窮屈なのと、「あなた、普段そんな喋り方してないでしょ!」とツッコミを入れたくなる大学生と話をしなければいけないからだ。自分が普段そうするように話さないのは、違和感しかない。
某企業のグループディスカッションは開始から2時間後くらいで終わった。うまくいかないのはいつもどおりだったが、違和感はいつもの比ではないくらいに大きかった。このまま黙って帰れそうになかった私は、道路脇のカフェに思わず飛びこんだ。よくカフェゼミ(長岡研究室主催の、まちに開くオープンゼミ)でお世話になっているCafe Katyというカフェだ。いつもお会いしてご挨拶をするくらいだが、今日はどうしても話がしたかった。
就活のために「自分を取り繕う」のは、誠実ではない
わたしの違和感は、「就活用に自分を作り上げてきた就活生」がどんどんグループディスカッションを進めていくことにあった。進め方や時間配分をうまく調整しながら、与えられた問題を解いてくというのがよくあるパターンだ。こういうのを上手くやってのける人が受かるんだろうなあと思いつつ、わたしはいつも、その波にうまく乗れない。確かに、グルディスが得意な人は与えられた問題を器用に解くが、そういう人ほどワークに対しての自分の本音を言わないから、自分も話そうと思えないのだ。思ってもないことを言いあって、器用にグループディスカッションすることに意味なんてあるのだろうか。わたしは、そうは思えない。
Cafe Katy 店主の中村さんは、就活のために「自分を作る」という行為をしている人は多いんじゃないだろうか、とおっしゃった。就職試験に受かるために取り繕い、受かったら、取り繕った仮面を脱いでどこかに捨てる。たとえば、国家試験のために勉強して、受かったらもう勉強をしないのと同じように。そして面接官は、目の前の就活生が「その人の本当の姿」なのか「就活のために作られた姿」なのかは、たった20~30分の面接では見破れないらしい。グルディスでもそうだ。
「就活のために自分を取り繕う」というのは、嘘をついているようで、わたしにはなかなかできない。面接準備をきちんとするのは大事だと思うが、必要以上に自分をよく見せようとする行為は、面接官にも同じテーブルで話す就活生にも、誠実ではないと思う。(ちなみにその某企業からは、数日前にお祈りメールがきた✋)
あれ... 第3の自分って
さてここで考えたのは、先日のカフェゼミの記事「サードプレイスなカフェって素敵だけどさ」で触れた、場所と振るまいの話。(実はこの記事、続編なのだ。)
上の図の、1が家庭での自分、2が職場や学校での自分、3が本来の自分。カフェやサードプレイスと言われる場所では、この「第3の本来の自分」を出せるそう。
ー引用「サードプレイスなカフェって素敵だけどさ」
「役割を演じる自分」と「本来の自分」の違いはどこにあるんだろう。
Cafe Katyでのわたしの行動をメタで見ると、Cafe Katyはサードプレイス的な役割を担ってくれて、わたしは本当に思っていたことを中村さんに吐きだした。それが3のわたしだとするならば、選考会場でグループディスカッションに身を投じていたときのわたしは、外で役割を演じていた2のわたしだ。黒いリクルートスーツを身につけて、髪をうしろでひとつしばりにして、「就活生」を演じていたわたし。
「役割を演じる自分」と「本来の自分」の違いは、その場に社会的に求められている(と思っている)役割があるのかないのか、の違いかもしれない。
家でなら、親として求められもっと細かくするなら、「役割を演じにいこうとしている自分」なのかも。演じにいこうとする理由は「とりあえずみんなそうだから」というのが多い気がする。たとえば就活なら「とりあえずみんな黒いリクルートスーツだから自分も着る」みたいな。役割を演じにいこうとするというのはこの場合、個性を忘れて型にはまろうとするということ。3の「本来の自分」に対して、全然誠実ではないなあ。
おわりに
あしたからは、ちょっときれいめな私服で説明会に行ってみようか。そんなことを思いながら、学生限定でワンサイズアップしてもらったカフェラテを、いっきに飲みほした。