医療法人が「サーカス」をやる意味。誰かが生きる輝きに、みんなが少しずつ手を伸ばし合う。
2020年から私が関わっている「ほっちのロッヂ」では、昨年2023年から、長野県松本市を中心に活動するサーカスアーティストの金井ケイスケさんがプロデュースする、サーカス事業に関わっている。そして、昨年は医療的ケア児が4メートルの上空を飛んだ。
ほっちのロッヂは、福井県に本拠を置く医療法人社団オレンジが運営している。その医療法人が長野県軽井沢町に展開する文化部門で、サーカス事業を企画運営している。ここまで情報が混み合うと、取材を受けても途中をだいぶ割愛してしまう。
映像を見せながらこの話をいろいろな人にすると、いろいろな反応が返ってくる。なかでもよくあるのは、こういう反応だ。
誰かのいのちに対して責任を取る。なんとなく現代では、その責任がすべて医療にあるように錯覚している。
でも、誰かが「こうしたい」「こうありたい」と自分のいのちを生きようとしている時、それをストップする権限が誰にあるのか(いや、ない)。というような話について、今日は書き留めておきたい。
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シオンが空を飛んだのは、色々な経緯がある。まず、去年5月に開いた「エアリアル」という空中芸を体験できるワークショップで、シオンが楽しそうに体をくねらせて空中を回っていた。その姿を見て、プロデューサーの金井ケイスケさんが夢中になった。
そして、別の時に本人にも聞いた。
「シオン君、金井さんが高いところに飛ばしたいらしいんだけど、できる?やってみたい?」本人は目をまん丸にして、コクリとうなずいた。
そして、ほっちのロッヂに設置したエアリアルで何度も練習した。
「どんな動きができるかやってみて!」
「回ってるねぇ~!」
「楽しい??」
「うにょうにょうにょ~!」
本人も大きな声で雄たけびをあげながら練習に打ち込んだ。疲れた時や怖い時、「ここでおしまい」と伝える自分なりのサインも開発した。
そして本番前、実際に4メートルまで上がってみた。
「うひょ~~~!」と大きい声が出た。
「怖くなかった?」との金井さんの声掛けに、拍手をして答えるシオン。
と、ここまでが一連の流れだ。この流れを見て、誰が「あぶないからダメ」とか、「主治医の許可は?」とか、言えるだろう。いや、言えない。
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最近、持病や医療的ケアと共に生きている人と表現活動をする試みがいろいろ出てきている。これを広げようとする時にハードルになるのが「何かあったら責任が持てない」という、本人以外の人たちの心配だ。
もちろん、本人を心配しての気持ちも込められているかもしれない。でもそれ以上に、万が一「何かあった時」の「自分」を心配していることが大いにあるんじゃないだろうか。それは本人の「やりたい」「こうありたい」という気持ちを無視した、勝手な心配になっていないだろうか。
この心配は、「本人のことを想って」という一見やさしい表現に包まれているから、やっかいだ。その思いが本人の気持ちを結果的に否定しているのなら、ただの偽善だ。
じゃあ「何かあった時」、誰が責任を取るのだろう、ということを考える。イベントに参加OKした家族?参加をサポートしていた支援者?許可を出した医療者?起こっているのは、本人の意志やコミュニケーションのプロセスをスルーした、ただの責任のなすりつけ合いだ。
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人生会議(ACP)という実践がある。これは、自分に何かあった時、医療との付き合い方や自分の望む過ごし方について、まわりの人といつも話しておきましょうという心がけのことだ。
患者となる人と、たいていは「何かあった時」にしか出会えない医療者にとって、本人とまわりの人の間で人生会議が積み重ねられていると、大変役に立つ。人生会議がなされていないケースでも、患者となる人とほとんど初対面の医療者は、よりによって「何かあった時」の責任を握らされている。なんてプレッシャーの高い職業なんだ。
この実践、私の中では「自分らしく生ききるための対話」だと理解している。生ききる、というところが大事で、いろいろな制約を取り払ってでも、妥協せず、やむにやまれず望むこと、ありたい姿に思いをはせることが大事だ。
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人が表現に向かう時、たいていは「やむにやまれぬ」感情が目に見えることが多い。誰が何といってもとにかく出し切りたい、という思いが強く前に出ている。
持病があっても、障がいがあっても、お金がなくても、才能がなくても、表現したいという誰かの気持ちは、本人以外の人が責任をもつことではなく、本人の責任で全うされるべきたいせつな感情だ。その感情にはプラスにもマイナスにも、いのちを「生ききる」ための強い力が宿っている。
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サーカス事業をいろいろな人に紹介する機会に恵まれるにつれて、この世には「何かあった時」の責任から逃れようとする本人以外の人たちによって、本人の表現が奪われてしまっているケースが、まだまだ沢山あるんじゃないかと思うようになってきた。
いのちの責任を最も重く課されている医療業界が舞台の上に手をかざすことで、これまで見えないところに閉じ込められてきた「いのち」の力を再発見することができるんじゃないか。
そうして少しずつ、「いのち」に対する責任を皆で分かち合い、本人の手元に戻していく文化ができていくといい。だからもう少し、文化の側からも、いのちの力に手を伸ばしてほしい。と願って、今年も活動を続けます。