「流されるというよりは、日常を感じたい。」
・・・・・・・・・・・・
【書かないことへの罪悪感も薄れていった頃、そろそろと思い、こうしてまた時が戻ったみたいに書き始める。
平気で書かずにいたこの数ヶ月もの間、人生の転機と信じている出来事があって、私は些細なことを特別に思ってしまう癖があり、3年連続で『今年は特に』と年末振り返っている。今年の末もそうなるだろうか。
最近あるモデルがSNSで
「自分は日常に流されるようにして生きている。あなたの目にはこの世界はどう写っていますか」
というファンからの少々影がうかがえる投げかけに対し、
「流されるというよりは、日常を感じたい。」・・・ホニャララ〜
と反応していた。
モデルは何を成しても様になって私の目に映り、よっぽど羨ましいのかすぐに実生活に取り入れて、6日分くらいは感じただろうか。
今日は日常の新しい発見のはなしをする。
実は今現在、絶賛転職活動中で、火曜に受けた面接の結果を祈るように待っている。新卒での就活の際にも経験したが、企業からの連絡を待つ時間はえらく待ち遠しく、それはそうだ。片想い中の彼に一方的な気持ちを赤裸々にも洗いざらい曝け出し、ちょっと考えさせてと言われてからの返信待ちと何ら変わらないのだから。
ただひとつ経験として今の自分に言えることは、男は彼だけではない。】
・・・・・・・・・・・・・
この記事を書き途中のまま平気で3ヶ月の時が流れていて、
モデルの言っていた「日々を感じる」こともすっかり頭から抜けていた。
今日からまた「日々を感じ」ていく。
最近の自分といえば、夜の蜘蛛は退治してよかったのかと2日前の事を未だに気にしていて、善と悪を取り間違えてしまったかもしれないのだから仕方がない。
風呂上がりのドライヤーを面倒に思いながら、最近かけたパーマのせいで頭が綿菓子みたいにみるみる膨れ上がる。それを見て数日の間、家族はよく笑った。
正面の鏡を見ながら右手が疲れてくる頃、乾いてきた綿菓子頭も見ていられなくなり、不意に視線を落とすと反射神経でドライヤーを蜘蛛に向けて退治していた。
朝の蜘蛛か夜の蜘蛛、どちらかが害虫をやつけるから退治してはいけないと母に教わったが、私が蜘蛛を見かける機会は年に2回ないくらいだ。
私はその度にこの2択の答えをどうしても思い出せない。
一旦こうして振り返ってみると、同じ命ある蜘蛛であることに何ら変わりはなく、それは朝でも夜でも。
どこかに吹っ飛んでいった蜘蛛に未練もあるので、これからは心を入れ替え、同じ一つの命あるもの同士、お互いの生命に関わる行為は控えていくつもりである。
こうして命を感じ、「日々を感じる」。
ps.洗濯物を2回回した。
同じ漢字が2回続くのはこのシチュエーションとあと何があるだろうか。