農業DXの意義
DXの中でも、特に農業でそれが行われる意義を考えてみたい。
工業におけるDXは、管理可能な範囲が非常に広く、そして思い通りの生産工程、品質管理を実現する一般的手法を提供することになるだろう。一方で、農業の、特に生産管理については、どれだけデータ化しても、土壌の質や天気、日照量など、依然として自然任せな部分は大きく残り、そしてそれはいずれも作物の品質に大きく影響する。つまり、データ化することで明らかになるのは、一般的な品質というよりもむしろ、作物ごとの固有の情報であると言え、つまり作物の個性を際立たせるためのデータ化になるという、工業的なDXとは正反対の方向性を持つことになる。そしてさらに言えば、手をかければその分データにも反映しやすく、その点においても、DXによって省力化や自動化を図る工業とは違う志向性を持つことになる。
これは、これまで工業のように大規模化、大量生産を目指して現代化を進めてきた農業にとって、一つの大きな曲がり角になるのだと言えそう。つまり、土地土地の個性や手のかけ具合がデータとして表現されることで、作物の個性化・個別化が起こるという、大量生産とは逆の生産工程が可能になり、いかにその個別性をうまく生かしてゆくかがテーマとなってくる、ということが考えられそうなのだ。
もちろん、そんな細かな個性がデータとして明らかになるまでには随分多くのデータ蓄積が必要となり、果たしてそこまで手間やコストをかける農家がどこまであるのか、ということはあるのだろうが、いずれにしても、方向性としては工業的なあり方とは違うのだ、という基本的感覚を持っていないと、データの使い方、つまりデータに合わせて生産管理をするという工業的手法に陥って、農業固有のDXの意義を大きく損なってゆくことになるということになるだろう。
そんな時代に、例えば品質安定には大きく寄与したのであろうが、F1品種の種を毎年購入して、どこで作っても同じような作物を作るというあり方がどこまで有効なのか、という、産業としての農業のあり方にも一つの転換点をもたらす可能性もある。つまり、植物は環境に合わせて自らを適応させてゆく能力が相対的に高いのであろうと考えられる中で、その能力をわざわざ無くしてしまうようなF1品種による農業生産は、果たして作物の自然に備わった能力を十分に生かしたものになると言えるのであろうか。手をかければ美味しくできて、それによって作物自体が次世代を残す可能性が高まるという自然能力をうまく用いてゆくことで、作物と生産者との間の個別関係性強化から、世代を超えた作物の機能強化のようなことも考えられる局面になっているのではないだろうか。
肥料の配合などについても、化学肥料の多用と有機栽培との違いがデータで現れるというようなことになれば、いかに効果の高い有機の土壌を作るか、ということが作物の味の決め手になる、ということも十分に考えられるわけで、土壌管理の面においても革命的な局面となる可能性がある。それを、大量生産的な、データに合わせて土壌を作る、というような手法をとっていたら、個別性の作物との差はどんどん開いてゆくことになり、データの扱い方次第で商品価値も大きく変わってくるかもしれない。
人の味覚というのは、本来非常に敏感なもので、作物ごとの微妙な味の違いを区別できるような能力はあるのだろうと考えられる。それが品質管理された作物に慣らされることで、味覚自体が麻痺してきたという現代人的特性があるのかもしれないが、それがデータによってそれぞれの美味しいの感覚が可視化されるようになれば、管理された品質の作物では物足りないという消費者側の感覚の違いも出てくるようになるかもしれない。つまり、舌が肥えるという状態がデータによって証明されるような時代になるかもしれず、そういった消費者側の変化も、農業のDXによって起こってくるかもしれない。
いずれにしても、農業分野のDXは、工業分野よりも扱うデータが格段に多いだろうということも含めて、農業分野に限らず、IT業界を含めたさまざまな分野に波及する効果が高い、DX時代の花形産業になってゆく可能性を秘めている。そんな農業DXには今後ますます注目してゆく必要があるだろう。