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【Lonely Wikipedia】マーシャル・プラン

ようやくマーシャル・プラン

マーシャル・プラン(Marshall Plan)は、第二次世界大戦で被災したヨーロッパ諸国の為に、アメリカ合衆国が推進した復興援助計画。通常は提唱者のジョージ・マーシャル国務長官の名を冠してこのように呼ぶが、正式名称は欧州復興計画(おうしゅうふっこうけいかく、European Recovery Program、ERP)という。

聞こえはとても良いのだが、そもそもなぜこれが必要になったか、といえば、

第1次世界大戦の賠償で、ウィルソンが無賠償の原則を言ったが、戦費調達のために英仏はアメリカに多額の借金をしていたので、賠償なしにはそれを返済できず、結果として敗戦国のドイツに巨額の賠償を負わせざるを得なかった。
仕組として、借金返済には正貨が必要であり、それを得る為には輸出をするしかなかった。そのために第1次世界大戦の大きな原因となった貿易戦争、あるいは植民地獲得競争が激化した。外貨の確保のため、どこの国も正貨の流出を抑える必要があり、それが金の輸出禁止につながっていた。
第1次世界大戦のドイツの賠償も外貨で支払うこととされており、世界各国が金を輸出禁止する中、その外貨調達のためにマルクは暴落し、それはドイツ国内のハイパーインフレにつながった。
ルール地方をフランスに奪われて、外貨獲得の手段も失ったドイツは、23年に土地への地代請求権をもとにしたリンテンマルクという非常にユニークな貨幣を発行することでこのインフレを収め、それを受けたドーズ案によってマルクによる賠償支払いが認められるようになった。ただし、この案は賠償総額が決まっていないという恐ろしい仕組で、どこまで払えば良いのかわからない、ということになっていた。
世界経済、特にアメリカ経済は、この打ち出の小槌を手に入れたことで過熱していった。自分たちで働かなくても、無期限に金が入ってくる、と言うことになればそうもなろう。それによってアメリカの株式相場は過熱し、それを抑える目的もあって、賠償総額を定めたヤング案が発表された。賠償年限は長いものの。総額は当初の1/4近くに抑えられた穏当な案で、国民投票の結果94%の賛成を得て発効した。しかし、その国民投票に先だってアメリカで暗黒の木曜日が発生しており、それは、発表されたヤング案によって打ち出の小槌がなくなるという事も少なからず影響していた。この株式暴落は、結局世界恐慌を引き起こし、それはドイツにも跳ね返ってきてナチスの台頭につながっていった。
いずれにしても、この世界恐慌によってドイツ経済は再び停滞し、賠償金支払いも止まった。そのまま第2次世界大戦に突入したので、この賠償金問題は積み残しのまま、第2次世界大戦の経済体制を構築しなければならなくなったのだ。
そこで前回のブレトンウッズ会議でのケインズとホワイトのやりとりとなるわけで、ケインズは戦前から賠償問題を大きな問題であると考えており、それを妥当な額で収めることに骨を折ってきた。一方、賠償支払いは、外貨調達による公債発行により、次第に債務に切り替わっていた。それに対してその債権国アメリカ代表のホワイトは、賠償が止まればそれにつながった債権回収が滞り、それに依存したアメリカ経済も止まってしまうことが明らかなので、債権の回収については全く譲る気配を見せなかった。
その債権・債務をどう処理するかということで、ケインズのICUの案が出たわけだが、結局それは却下され、その代わり、といっても全く代わりにならないマーシャル・プランが出てきたのだ。これは、援助と言っても外貨ではなく、現物支給で、それは7割方アメリカから出ると言うことで、アメリカの輸出市場を確保し、そしてドイツなどの戦災地に関しては、むしろ国内産品の市場を奪うことで、復興を遅らせたとも言える。その上、マーシャル・プランを受けた国にはIMFからの融資が受けられないと言うことになり、ドイツが外貨を得たり、また債務をIMFのものに切り替えたりすることができない、ドイツを追い詰めるためのプランだったと言ってもよい。いわばモーゲンソープランを経済的に実現したようなものであり、百害あって一利なしのものであったと言える。

では、その責任者であるジョージ・マーシャルについてみてみたい。1880年生まれのマーシャルは、ペンシルベニアの出身だが、アメリカの歴史にとっては非常に重要なバージニア植民地に入った英国の伝統を色濃く残すバージニア・ファミリーの一員であるとしている。

上のページに名前がないこともあり、それ自体は個人的にはどうも疑わしいのではないかと感じ、それよりも19世紀初頭に約35年間も連邦最高裁判所長官を務めて、連邦裁判所の優位を確立することで、連邦政府の州政府に対する優越を確保し、アメリカ合衆国を中央集権的にしたジョン・マーシャルと血縁であるということの方が意味があるのではないかと感じる。ジョージは非常に堅物であったとされ、ジョンの権威を身に纏ってそれによるオーラのようなもので出世街道を上ってきたのではないかと感じられる。

そんなジョージ・マーシャルは、早くから陸軍においてそのキャリアをたてたいと考えていたのにもかかわらず、成績がふるわずにウェストポイントには入学できず、家族からも家名を汚すのではないかと心配されていたという。

Marshall's father was active in the coal and coke business. Later, when asked about his political allegiances, Marshall often joked that his father had been a Democrat and his mother a Republican, whereas he was an Episcopalian.

父親が石炭産業で現役(activeとあり、その後に政治的傾向の話が出ているのでもしかしたら組合活動のことを指しているのかも知れない。)だったのにも関わらず、ジョージのバージニア軍事学校の学費を母親が土地を売って出していると言うことから、何かしらの家族事情がありそう。しかも、バージニアの土地ではないので、おそらくバージニア・ファミリーというのはやはり嘘だろう。嘘を纏って出世したとなれば、その常識外れな行動も多少は理解できる。
彼は1902年からフィリピンで軍歴を積んでいるようだが、中身を見てもよくわからない。その後、第1次世界大戦にもフランスで従軍しているようだが、それもよくわからない。
その後1924-27年にかけて中国で第15歩兵連隊の指揮をしたという。この際、25年に馮玉祥の軍隊と戦ったようだ。

1925年は孫文が亡くなった年で、汪兆銘を主席とした広州国民政府が成立し、一方馮玉祥は西北軍を率いて張家口に陣取っていた。汪兆銘の下で政治顧問となっていたミハイル・ボロディンは、この年に馮玉祥に会うために北京まで行っており、さらにはその年の11月には国民党内の西山会議派が北京で会議を開き、 中国共産党員の中国国民党籍の取消し、ミハイル・ボロディンの解雇、汪兆銘の弾劾などを要求していた。つまり、この時期争いごとを起こしていたのはボロディンであると考えられ、それを馮のせいにしているということは、マーシャル自身がボロディンと組んで共産党の国民党内での勢力拡大に協力していた可能性がある。そこで共産党系の人脈を作っていたことが、のちの中国派遣につながるのだと考えると最も筋が通りそう。そして、マーシャルが中国から帰国した27年は、上海クーデターがあった年で、それによって第一次国共合作が崩壊している。つまり、共産党の国民党乗っ取り工作が失敗したことにより、マーシャルも中国にいられなくなり、帰国となった可能性もあるのだ。

その後、特に何かしたというわけでもないのに、1939年に少将、しかも同時に一時的階級として大将になったと言うことだが、軍歴37年目、59歳での少将というのは、戦時下としても異例ではないだろうか。同い年のマッカーサーは50歳の若さで参謀総長になりながら、37年には退官の年となったと言うことでフィリピンの軍事顧問となっている。おそらくこのマッカーサーとの関係で、政治的ライバルと言えるルーズベルトによって引き上げられたのであろう。そのままヨーロッパ戦線を指揮し、44年12月には元帥にまで上り詰めた。

終戦後45年12月から47年1月まで中国の全権特使となり、共産党を国民党政権に参加させるよう奔走し、あげくに蔣介石を徹底的に追い詰めて第2次国共内戦に追い込み、武器の供給を停止して国民党を見捨てて中国を内乱のるつぼに追い込んで帰国し、その功で国務長官となった。それが、このマーシャル・プランに名前を残す、ジョージ・マーシャルという人物であった。

そしてそこからマーシャル・プランへの流れが動き出す。
その流れは、まず47年2月10日にパリで講和会議が開かれ、連合国とヨーロッパのドイツ以外の枢軸国、つまり、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、そしてフィンランドとの平和条約が調印された。
2月21日にイギリスの駐アメリカ大使の一等書記官が国務省に覚書を届けた。それはギリシャとトルコへの援助に関するものだった。講和条約によってソ連占領下のバルカン半島とギリシャ、トルコとの関係が複雑化する中で、イギリスはその負担をアメリカに振ろうとしたものであろう。
3月1日にはIMFが実際に動き出し、ブレトンウッズ体制にソ連が参加しなかったことから、IMF融資をてこにバルカン諸国をひっくり返す、という道もないことはなかったのだろう。そんなこともあってか、3月12日に反共色を強く打ち出したトルーマン・ドクトリンを発表した。5月8日にIMFから初めての引き出しがフランスによって行われた。この間いろいろ議論があったようだが、詳細は今は追えない。
結局、6月5日にマーシャルがハーバード大学で演説し、その中で欧州援助計画の構想が明らかにされた。この演説では、援助の具体的内容が明らかにされず、それによってアメリカが主導権を握りながら、ヨーロッパ諸国が『自発的に』援助を申し出るようになってゆく。そしてそのヨーロッパ側では、主要国のイギリスで、労働党政権が誕生し、財政や外交について十分な見識を持っていたとは思えないアトリー首相とベヴィン外相がこの問題を担当し、一方フランスはようやく取り戻した国土の復興のためには手段を選んでいる余裕はなかった。演説はBBCのラジオ放送によって英国に伝わったため、即座の対応を求められたということもあっただろうが、すぐにフランスに連絡をし、17日から首脳会談が開かれ、援助の受け入れを決めた。フランスはともかく、イギリスが必要としていたのは、債務返済のためのドルであり、現物支給による援助などではなかった。しかし、話の焦点はソ連への対応、そしてその為に援助は国際機関を経由すべきだ、ということに絞られた。それは、ベヴィンが強い反共主義であったことにも大きく影響されていただろう。
結局ソ連を招いて再度話し合いをすることとなり、27日にソ連外相モトロフをパリに招いて外相会談が開かれた。ソ連は、アメリカの影響力の拡大を嫌って、その枠組みには参加しないことを決めた。そして東欧諸国にも参加しないように言い、後のCOMECONにつながると言うが実態は明かではないモトロフプランによって対応することに決まったという。一方で、アメリカは戦中に発足し東欧を中心にした援助を行っていた UNRRA の活動を停止し、東欧への援助は打ち切られていた。


その後の援助形態決定プロセスについてはWikipediaからは余りよくわからないが、とにかく現金ではなく、アメリカからの財やサービスの提供が主となった。

7月にイギリスが英米金融協定の規定に基づきポンドの交換性回復を宣言した。しかし多額の資本流出を招き、わずか1ヶ月余りで交換性の再凍結を余儀無くされた。対してベネルクス3国は10月に逸早く関税同盟を結成し、翌年発効に漕ぎ着けた。

交換性回復で資本流出するという理屈がよくわからないが、金融資本に狙い撃ちされた可能性もある。本来ならば、ドルが兌換比率を切り下げるというのが金本位回復の一番の近道であったのにもかかわらず、それをせずにポンドですらも金本位復帰ができなくなった。この時点でいずれどこかでこの体制が破綻することは目に見えていたと言える。25年間、ドルの金兌換独占体制が続いたことで、ドルが世界中にばらまかれ、基軸通貨となったというのが、このマーシャル・プランに伴うポンドに地位低下によって起こったことだと言える。

アメリカはイタリアとの間に経済協力協定を締結したのを皮切りに、ヨーロッパ各国と順次2国間協定を締結した。その際、援助物資の50%はアメリカの船舶によって輸送すること、援助物資を元に生産した商品を共産圏に輸出しないことなどが定められた。
被援助国は、受け取った直接贈与による援助額と同額の自国通貨を、自国の中央銀行に政府名義で開設した特別勘定に積み立てることが義務付けられた。この積立金を見返り資金と呼び、アメリカが金額を通告すると同時に積み立てることとされた。積立額のうち95%はアメリカの承認を得た場合にのみ使用を許され、財政健全化や生産促進のために支出された。残る5%はアメリカが使用することを前提として留保され、ECAの海外行政費や戦略物資購入費、情報収集費に充てられた。
1951年6月30日までに、見返り資金の総額は約70億ドルに達し、次のように支出された。
* 生産促進 56%
* 国債償還 31%
* その他 13%
見返り資金の使途に関する各国の対応を見ると、イギリス・オランダ・ノルウェーなどでは大部分が国債の償還の為、フランス・西ドイツ・イタリアでは設備投資の為に資金が充当された。
The Marshall Plan aid was mostly used for goods from the United States. The European nations had all but exhausted their foreign-exchange reserves during the war, and the Marshall Plan aid represented almost their sole means of importing goods from abroad. At the start of the plan, these imports were mainly much-needed staples such as food and fuel, but later the purchases turned toward reconstruction needs as was originally intended. In the latter years, under pressure from the United States Congress and with the outbreak of the Korean War, an increasing amount of the aid was spent on rebuilding the militaries of Western Europe. Of the some $13 billion allotted by mid-1951, $3.4 billion had been spent on imports of raw materials and semi-manufactured products; $3.2 billion on food, feed, and fertilizer; $1.9 billion on machines, vehicles, and equipment; and $1.6 billion on fuel.

緊急の食糧支援はともかく、結局その後には軍備を売りつけられることになり、冷戦構造の固定と共に軍需品をアメリカに依存せざるを得ない状況を作られたのが、このマーシャル・プランの中期的な帰結であったと言える。

被援助額が大きいのは、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダの順となるが、対GDP比ではオーストリア、オランダ、アイルランド、ギリシャ、アイスランドとなる。このうち、オランダはドイツから領土の見返りに得た2.8億マルクを加えれば、比率ではトップとなり、更に欧州決済同盟への資金の受益者でもある。反共のため、というのが本当ならば、最初に問題となったギリシャやトルコ、あるいはイタリア、そして対GDP比で名目上トップのオーストリアなどがもっと重視されるべきだったのが、ルーズベルトの先祖の出身地で、ニューヨークを中心に移民分布が広がっていると考えられるオランダが、圧倒的な受益者となっているのだ。これは、その戦争で一体誰が利益を得たのか、という視点では見逃すことのできない事実であろう。

援助の大部分は商品の形で供与された。物資の内訳は次の通り。原材料・半製品33%、食糧・飼料・肥料29%、機械・輸送機器17%、燃料16%、その他資材5%。また、これらの物資の調達先は、アメリカ69.7%、カナダ11.8%、ラテン・アメリカ7.7%、ヨーロッパ(援助計画参加国)4.3%、その他6.2%となっている。
この当時アメリカの商品供給能力は他の諸国を圧倒しており、援助物資は主にアメリカから調達された。即ちアメリカ政府は巨額の資金を負担したが、その多くはアメリカからヨーロッパへの輸出によって国内に還流したことになる。
なお最後に挙げた「6.2%」のほとんどは中東産の石油であった。この頃のアメリカは世界最大の産油国であったが、アメリカ産石油は専ら旺盛な国内需要を満たすために用いられた為、急速に油田開発が進行していた中東の石油がヨーロッパに振り向けられたのである。なお、根拠となっていた対外援助法第112条第b項は、その後の供給量増加を背景として国内産油業者から修正を求める圧力が加わった。結局条文が修正されることはなかったが、解釈の変更によって国内業者にも輸出への道が開かれた。
対外援助による輸出の国内生産に占める比率を商品別にみると、航空機(52%)、綿花(42%)、小麦(40%)、車輛(36.4%)、肥料(33.5%)などが高い比率となっている。中でも綿花と小麦はヨーロッパ市場に提供する余力が充分にあった為、援助物資の中心となった。裏を返せば、このことはヨーロッパがアメリカの余剰生産物の捌け口として機能したことを示している。

イギリスに関して言えば、おそらく綿花も小麦もインドなどのスターリングブロックから持ってくれば、援助に頼ることなく調達できたのだろうが、一つにはカナダがスターリングブロックに参加していなかったこと、そしておそらくオーストラリアやニュージーランドも兌換可能なドルの方を好むようになっていたことから、援助に頼らざるを得なくなったのだろう。資本流出なるものにごまかされることなく、井上準之助のように交換を求められたら全て交換する、という断固とした立場をとっていれば、スターリングブロックが崩壊することもなく、そしてドル基軸制も成立しなかったであろう。戦後の混乱で国を安売りしてしまったという点では、日本もイギリスも同じようなものなのかも知れない。
ついでに、日本への経済制裁としての石油禁輸、といわれるが、これを見ると、国内需要の逼迫からアメリカ自身が輸出を絞りたかったという面があるのでは、という感じも受ける。そして実は海軍の建艦競争的なものは、石油生産の増加したアメリカに煽られた面があるのではないか。このあたり、戦前の流れもまだまだ確認すべき事が多くありそう。
その他、マーシャル・プランは、ドイツをはじめとした西欧諸国の産業構造の変革のための手段に使われるなど、様々な影響があるが、全てを見る余裕がないのでここまでとする。

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Emiko Romanov
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