文脈としての産業

昨日、文脈としてのネットワーク、そして戦略ということに触れたが、ではバリューチェーンとしての産業はどのように考えたら良いのだろうか。

バリューチェーンが閉鎖的になると兵器的になりうることも昨日見た。ネットワークが囲い込まれ、一つの方向性に走り出すと、それは奔流となり、誰にも止められなくなってしまう、ということだ。これは、大企業などによって系列化され、そしてその頂点である大企業自体が利益圧力にさらされると、必然的に、そのネットワーク全体が利益に向かって爆進しなければならないということになり、そんなことが、安定的に仕事の確保できる公共事業、そしてもっと兵器的になれば軍産複合体のようなものへと繋がってゆく。

一方で、コスト削減のためのグローバル化も進み、人によって成り立っているはずの企業が、人件費が安いという理由で立地を変えるという、全く本末転倒な話が当然のように罷り通ることになる。技術は人についているはずなのに、安く思い通りに動く奴隷のような労働力を求めて世界中に展開するのだ。まあ、奴隷に海を渡らせて働かせていた時代に比べれば、企業が出向くようになっただけマシになっているという見方もできないことはないが、いずれにしても、そこにあるのは、技術は人ではなく企業が持っており、それを誰にでも自由自在に植え替えることができるという大変高慢な考えであり、そんな”技術”で真っ当な品質が確保できるわけがないことは明らか。20世紀、特にその末期以降は、質の低いどうでも良い製品が次から次へと造られ、すぐにゴミ箱送りになったという、人類史上、というか地球環境史上において特筆すべき黒歴史として刻まれることであろう。

それは、産業というものが、それぞれの独自の文脈ではなく、利益という文脈に従属するような形で展開してきた帰結であるとも言える。本来的には、産業というのは、それぞれの土地に根ざした技術集積によって総合的な生産力を確保すべく生まれたものであり、技術ありきのものであったと言える。それが、特に第二次世界大戦後であろうと言えるが、ヨーロッパや日本、そして中国など、地域に根ざした長い技術蓄積を持っていた場所が戦火によってことごとく破壊されてしまったことにより、技術が土地から離れてしまい、そしてそれぞれの地に根付いていた技術が、特に直接戦果に見舞われなかったアメリカに集約されることで、どこにでも植え替え可能なインスタントな産業技術というのが形成されることになったのだと言える。そして、それが大量生産文化のベースとなった。その文化においては、微妙な質、それは長い技術進化の過程で文脈的に形成されてきたものであると言えるが、そういったものは切り捨て、わかりやすい技術的成果だけを抽出し、コピー可能な大量生産技術としてきたのだと言える。そして、それは技術進化の過程を切り捨てたものであるがゆえに、更なる技術の発展のさせ方がわからず、社会の方を改造し、技術に人を合わせることで、”技術進歩”を実現してきたと言えるのではないだろうか。

それが典型的に現れているのが、私の理解するところの量子論的技術なのだと言えそう。つまりそれは、新しそうな考えが出てきたら、それを量子論の枠組みで整理した上でコピー可能な形としてトークン化し、そして競争でそれを実現させる、という、文脈なき技術発展プロセスなのだと言えるのだろう。そのやり方で作られたものが、生産者と消費者との間の心の交流を産むのか、つまりそれは本当に消費者サイドで欲しいと思った商品が作られるプロセスなのか、という部分には大いに疑問があり、「新しいすごいものができたぞ、だからお前らありがたがって買え。」というような、消費者も別にありがたくないし、そして生産者も感謝もされない、という、需給の乖離を生み出すことになる。この在り方では、消費者は、その技術が生み出された背景はどうでも良く、とにかく安く早くできるものを求めることになり、生産者も自ら考えて商品を生み出すのではなく、すでにトークン化されてどこからともなく降ってきたアイディアを安く早く作る競争に勝つことで利益を得ることになる。そうなると、新たな技術的展開をするような文脈は生まれず、次から次へと生み出されるトークンに注意を絞ってそれに反応する、という固定的な技術革新しか起こらなくなってしまう。

この反射的生産の罠にはまらないように、20世紀も後半半ばを過ぎ、少なくとも先進国においては一通り必要なものが行き渡った段階で、需要サイドは、いったい自分は何が欲しいのかということを、そして生産者サイドでも何を作りたく、そして何を提供できるのか、という、それぞれ個別の文脈を大事にする方向に舵を切るべきだったのではないだろうか。それができなかったので、全ての製品がコモディティ化し、価格競争にさらされ、大量に作ってコストを下げて大量に売って利益を確保するというやり方に陥ってしまい、それは生産側としてももはや限界で、だから頻繁なモデルチェンジによって買い替えを促すというやり方でしか利益を確保し難くなっているのではないかと感じる。それは、環境面においても問題を発生させているだけではなく、消費者サイドの気に入ったものを末長く使いたい、という感覚とも乖離しており、そのために消費者は目まぐるしい流れの中でどんどん新しい物に買い替え続けるという、道具を使っているのか、道具に使われているのかわからないような状態になっているのだとも言える。

だから、大量生産で利益を出すという仕組みよりも、もっと技術を重視して、プロトタイピングのところで利益が出る仕組みにしないと、生産技術は高まっても、創造性のような技術はどんどん切り捨てられてゆくことになる。つまり、需要と生産が直結し、需要サイドが欲しいといったものを工夫して作り上げる、という部分に焦点を当てて、商品を作り、その段階で大量生産に繋がらなくても完結的に利益確保できるような状態にする必要があるのだろう。あるいは、そこから継続的に修理をおこなって長く使えるような、長期保証契約、あるいはサブスクリプションのようなもので、せっかく作ったものを愛着を持って長く使ってもらえるような状態にすることが求められるのではないか。

大量生産からシェアリングへという流れが脱大量生産の一つのトレンドになっていると言えるが、その間の気に入ったものを所有して長く使う、という需要がすっかり抜け落ちているように感じる。それは、生産が市場から離れすぎてしまっているために起こることだと言え、もっと市場と生産の距離と縮める、つまり、ある一定範囲の地域ごとにプロトタイピングができる程度の産業集積を行い、それによって地域内の需要をすぐ側でつかむことができるようにする必要があるのではないだろうか。それは、中間マージンを省くこともでき、歩留まりが上がることを意味する。一旦中央や本社を挟むことによるさまざまな無駄をなくし、地域内での市場密着プロトタイピングから製品化、そしてアフターサービスまでの長期的関係性を築くことで、地域ごとの特徴ある市場ー技術エコシステムもできることになり、そこから大量生産をしたいという大規模施設をもった会社に下請けに出す、という、付加価値構造の逆転化も可能になることだろう。創造的な部分を地域ごとに確保することで、地域文脈に沿った産業構造が再構築できるのではないかと期待している。産業文脈は、大企業によるトップダウン型のものではなく、地域に基づいたボトムアップ型のものになった方が、多様な文脈が生まれてはるかに豊かな産業社会となることだろう。

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Emiko Romanov
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