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【Lonely Wikipedia】モーゲンソー・プラン
では、ブレトンウッズ会議で座長を務め、ブレトンウッズ体制を作り出した産みの親とも言える、ルーズベルト政権の財務長官ヘンリー・モーゲンソーが、戦後の世界経済についてどのようなプランを持っていたかを考えるヒントを探るために、彼の戦後のドイツ占領計画モーゲンソープランを見てみたい。
モーゲンソー・プラン(Morgenthau Plan)は、第二次世界大戦中に立案されたドイツ占領計画のひとつで、二度の世界大戦において同盟国(中央同盟国・枢軸国)の中心的存在であったドイツから、戦争を起こす能力を未来永劫奪うため、過酷な手法を用いる懲罰的な計画であった。
これは、非常に情緒的な占領計画であり、とてもではないが、戦勝国になろうとする国の財務長官から出るべき案ではない。これは、彼が、戦後世界経済どころか、短期的平和のための案すらまともに持ち合わせていない、全く財務長官に値しない人間であることを示している。
では、ヘンリー・モーゲンソーとは一体どのような人物だったのか。
青年期
1891年、モーゲンソウは不動産業者であり外交官であるユダヤ人、ヘンリー・モーゲンソウの息子としてニューヨークに生まれ、現在のドワイト・スクールに通った。コーネル大学で建築学と農学を学んだ後、1913年にフランクリン・エレノア・ルーズベルト夫妻と出会い、親しくなる。第一次世界大戦中には農業局で働いていたが、1929年に当時ニューヨーク州知事のルーズベルトにニーヨーク州農業諮問委員会と同州の管理委員会の議長に指名された。
He operated a farm named Fishkill Farms near the Roosevelt estate in upstate New York, specializing, like FDR, in growing Christmas trees. He was concerned about distress among farmers, who comprised over a fourth of the population.
彼は不動産業者の息子でルーズベルトのご近所、そして農業に関わっていた、とのこと。経済学的な背景はなく、むしろ農業との関わりが深い。ニューヨーク州は実はかなりの農業州で、そこで人口の1/4以上を占める農家への関心を示していた、ということで、農業を通じた政治的な力を持っていたのではないかと考えられる。そして、ルーズベルトはその力によってニューヨーク州知事から大統領になったのであろう。その論功行賞として、ニーヨーク州農業諮問委員会と同州の管理委員会の議長、そして大統領となった時の 連邦農業審議会の議長から財務長官という急激な出世につながってゆくのであろう。
モーゲンソウにとっての最大の成功は、新たな社会保障制度の確立であった。モーゲンソウは一般収入から社会保障のための資金を支出のではなく、社会保障のための新たな税金を制定しそこから資金を支出することを要求した。また産業の外側にいる労働者が税金を払おうとはしなかったため、社会保障の対象から農場労働者や家事手伝いの人々を除外することも提案した。1935年に社会保障法が制定された。
最大の成功と言うが、社会保障を独自財源の中に押し込めることで、税制の逆進制緩和効果を弱めたのではないか。まさに社会保障目的税としての消費税という議論の元となるような話であろう。
Campaign against corruption
Morgenthau used his position as Treasury chief to investigate organized crime and government corruption.
Former head of IRS' criminal investigators Elmer Lincoln Irey, who had directed major investigations including the successful prosecution of Al Capone, assumed the position in 1937. Investigations of official corruption caused the fall of political boss Thomas "Big Tom" Pendergast of Kansas City. A Mafia-related shootout and massive official corruption led to successful investigations against Pendergast and the local Mafia head Charles Carrollo. Other officials — as well as gangsters, in a few rare cases — were convicted because of Morgenthau's investigations.
不動産業者の息子なので、自らもある程度のことはしているのだろうに、権力を握ったとたんそれを用いて不正摘発、というのは、お里が知れる、といった感じを受ける。
モーゲンソーは、その経歴から農業調整法には関わっただろうが、その他の政策、そしてモーゲンソープランのような国際問題への関与というのがどこから出たのか、というのはちょっとわかりにくい。
そこで、彼の父親である同じくヘンリー・モーゲンソーについてみてみたい。
ヘンリー・モーゲンソウ(Henry Morgenthau, 1856年4月26日 - 1946年11月25日)は、アメリカ合衆国の外交官、実業家。第一次世界大戦中にオスマン帝国のアメリカ合衆国大使を務めた。
生涯
ドイツのマンハイムにて、ユダヤ系ドイツ人のラザルス・モーゲンソウの息子として誕生した。1866年、モーゲンソウはアメリカ合衆国へ移住し、コロンビア大学法学大学院を卒業後、不動産取引で財産を築いた。
1912年、モーゲンソウはウッドロウ・ウィルソンの大統領選挙活動に協力し、同年に民主党の財務委員長を務めた。1913年から1916年まではオスマン帝国のアメリカ合衆国大使として活躍し、1916年に再び民主党の財務委員長を務めた。モーゲンソウは閣僚級ポストに就任することを望んでいたが、その願いは叶わなかった。
1919年、モーゲンソウはアルメニア大虐殺を描いた『Ambassador Morgenthau's Story(モーゲンソウ大使の実話)』を出版し、モーゲンソウが大使を務めた間のトルコを描いたスケッチを発表した。
マンハイムからの移民が、一代にしてニューヨークにて不動産取引で財を築いたとのこと。これは非常に示唆深い。ニューヨークは元々ニューアムステルダムと呼ばれており、つまりオランダとつながりが深い土地柄である。一方コロンビア大学というのは、イギリス国王の勅許により創立されたキングズ・カレッジが起源で、その憲章が憲法よりも先に出来ているのでそれは憲法よりも優先すると言われているほどの名門大学である。それが独立戦争に伴いコロンビア大学と名前が変わったこと、そして現在ではユダヤ人比率が非常に高く、ユダヤ人研究も盛んであるということがある。特にその比率が高まったのが第1次世界大戦の頃で、それはニューヨークにおけるユダヤ人比率を反映したものだとされる。
これは想像に過ぎないが、ニューヨークの先住者としてオランダ人を定義することで、イギリス系からオランダ系への土地の譲渡、特にコロンビア大学に関わるもののそれが行われた、ということがあり、それに関わったのがモーゲンソー(父)であったという事ではないだろうか。それは、プロテスタントにとっての聖典である旧約聖書になぞらえて、ヨーロッパからのエグゾダスを率いた神の預言者は誰なのか、というような話で文脈をリードして、何となく、いつの間にか、それが浸透して、土地を譲らざるを得なくなる、といった巧妙なやり方だったのではないか。
そして、その流れの中に、アルメニア大虐殺、という話も出てくるのではないかと考えられる。アルメニア正教というのは非常に古いキリスト教の教えを保っているとされ、プロテスタントに対する筋論の話になると強みを持っているのだと思われる。
一方で、アルメニアのバクー・コミューンというソヴィエト組織があり、その代表として ステパン・シャウミャンという人物がいた。ここで、1918年に、アルメニア人のバクー・コミューンとアゼルバイジャン人との間に紛争が起き、イギリス軍が仲裁しているが、そこでシャウミャンは強硬路線を取り、追放され、ロシアへ逃れる途中で処刑された、ということがあった。
そんなことがあった頃に、突然事実関係も余り明かではないアルメニア大虐殺の話がモーゲンソーによって出版されたわけだ。シャウミャンはアルメニア人の中でも全く主流派ではなく、むしろ異端派だったから追放されたのにもかかわらず、それを受難のアルメニア人という話の中に織り込み、それを行ったのがイギリス人である、という流れを作っていったのではないかと考えられるのだ。
その後、モーゲンソーはパリ講和会議にも出席し、そこからイギリス外務大臣のアーサー・バルフォアによるバルフォア宣言が大きな根拠となり、イスラエルの建国へとつながってゆく。
そんなモーゲンソーの息子、ヘンリー・モーゲンソーJr.が打ち出したのがモーゲンソー・プランであり、そこには
* ドイツは、2つの国家(北ドイツと南ドイツ)に分割される。
* ドイツの主要な鉱工業地帯であるザールラント、ルール地方、上シレジア(シュレジエン)は国際管理に置かれるか、近隣国家に割譲される。
* ドイツの重工業はすべて解体されるか破壊される。
と、国境地域の国際管理あるいは近隣国家への割譲が謳われており、そして西部ルール地方周辺についてはオランダがかなり広範囲に亘って合併を要求し、後に西ドイツ領に戻るものの、賠償から免れたはずのドイツから2.8億マルクの補償を得ることに成功している。
これがモーゲンソー・プランの実態であるが、これを見てもわかるように、ヘンリー・モーゲンソーJr.に関しては、経済についてまともな知見があるとは思えず、そこからブレトンウッズの構想が出てくるとは考えにくい。
モーゲンソーは結局のところ政治的権力を背景に突破力を期待される役割を果たしただけであり、その政策は別のブレーンによって出てきているということであろう
2021年8月13日追記
バクーについては、バクー油田という当時世界最大級の油田があり、それを巡っての争いがかなり激しかったということで、アルメニア人とアゼルバイジャン人の関係というのはそんなに簡単ではないのですが、そんな中でもステパン・シャウミャンという人物が特に争いを煽ったということは言えそうです。ここに書いたことだけでは表現できないことが多くあることは付け加えさせて頂きます。
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