【ニクソン・ショックを探る】反右派闘争
等身大の共産党
憲法公布から1週間後の54年9月27日、毛沢東は憲法に基づいて新たに設置された国家主席に就任した。なお、首相である国務院総理には周恩来が改めて就任し、全人代常務委員長に劉少奇、国家副主席には朱徳が任命された。また、国務院副総理10名すべてが共産党員であり、全人代副委員長や国務院の閣僚クラスにおける非共産党員の割合が大幅に減少するなど、国家の要職は中国共産党が独占した。もっとも、共同綱領を共産党代表として提出しているわけであり、そして反対勢力の南京政権を共産党の国民党討伐として葬っている以上、周恩来らも共産党であると名乗るよう腹を括っていたと考えられ、だから憲法案も全会一致で可決されたこととなるのだろう。そして、周恩来は実務を司る国務院を拠点とすることを決めたのではないか。役割分担としては、国家主席が大統領のような象徴的元首、国務院総理が実務を司る首相ということになるのだろう。前回まで、毛沢東の主体的クーデターのようなものをイメージして書いていたが、おそらくそうではなくて、お神輿のような存在として毛沢東がおり、その存在が時とともに次第に実権を伴うようになり、また、そのイメージを遡って適用してさまざまな話を作ったので、全体としてみると囲いろいろ歪んで見えるところがある、ということなのだと思う。毛沢東についてはまた後からまとめ直したい。
人民政治協商会議
さて、この時から、人民政治協商会議は、全国人民代表者会議と性格を分けるかのように、国家権力機関というよりも統一戦線組織の色合いを濃くしていった。全国政協は中国共産党・中国国民党革命委員会・中国民主同盟・中国民主建国会・中国民主促進会・中国農工民主党・中国致公党・九三学社・台湾民主自治同盟の民主党派・中国共産主義青年団・中華全国総工会・中華全国婦人連合会・中華全国青年連合会・中華全国工商業連合会・中国科学技術協会・中華全国台湾同胞聯誼会・中華全国帰国華僑連合会・無党派民主人士・文化芸術界・科学技術界・社会科学界・経済界・農業界・教育界・スポーツ界・マスコミ出版界・医薬衛生界・対外友好界・社会福祉界・少数民族界・宗教界・特邀香港人士・特邀澳門人士・特別招請人士で構成されており、全人代を衆議院とすれば、全国政協は参議院にあたるような役割分担だと言える。
謎の労働改造条例
国家主席に就任した毛沢東は、早速実権を握ろうとし始め、54年に「労働改造条例」を制定し、その第一条に、「すべての反革命犯(政治犯)とその他の刑事犯を懲罰するため、並びに犯人が労働を通じて自身を改造し、新しい人に生まれ変わるのを強制するために、本条例を制定する。」と明記されているように、労働改造は反革命犯及び刑事犯を懲罰、改造するための処遇措置であった。ただし、これについては成立日や原文を見つけることができず、憲法発布直後に出すようなものとも思えないので、本当に54年に制定されたものか、というのは疑問が残る。
百花斉放百家争鳴
1956年2月にソ連共産党第一書記フルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、まず、4月25日、中国共産党中央政治局拡大会議で「十大関係を論ず」とした講話を行い、その中で百花斉放百家争鳴の方針を打ち出した。ついで、5月2日最高国務会議で「共産党への批判を歓迎する」として、「多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争する」「百花斉放百家争鳴」を提唱した。憲法上の規定によると、最高国務会議は、国家主席を議長とし、国家副主席・全人代常務委員長・国務院総理(首相)およびその他の関係者が最高国務会議に参加し、国家主席が必要と認めたときに招集される。つまり、お神輿である毛沢東が実務に関わることができるのは、全人代以外にはこの最高国務会議しかなかった、ということがある。
続いて5月26日に共産党宣伝部長の陸定一が、「百花繚乱、百家争鳴」と題して知識人を前に演説を行い、
“我们所需要的,是为工农兵服务的文艺,为人民大众服务的文艺。”“提倡在文学艺术工作和科学研究工作中有独立思考的自由,有辩论的自由,有创作和批评的自由,有发表自己的意见、坚持自己的意见和保留自己的意见的自由。”
「我々に必要なのは、労働者、農民、兵士に奉仕する文芸、広く人民に奉仕する文芸である」 「文学芸術活動と科学研究活動において、独自に考える自由、討論する自由、創作や批評の自由、自分の意見を表明し、自分の意見を堅持し、自分の意見保留する自由を持つことを提唱する。」 と述べた。このスピーチは6月13日付の『人民日報』に掲載された。
一方で同年9月に開かれた中国共産党第八回党大会(中國共產黨第八次全國代表大會)で採択された綱領では、「毛沢東思想」という文言の削除と(毛沢東独裁でなく)党中央政治局による法の支配が明示された。「毛沢東思想」の言葉は、その前の45年に開かれた第7回党大会で規約に加えられたもので、その時点での共産党というものの存在感自体が怪しいものであり、周恩来らが加わった新生共産党でそれが削除されるのは当然のことだと言える。
おそらく、4月と5月に毛沢東が「百花斉放百家争鳴」を提唱したというのは、比較的新しいソースにしか出てこないということから、後から作られた話であろう。この時点では、毛は何の実権もないお飾りであったと考えられ、実際には、共産党宣伝部長陸定一の講演と『人民日報』の記事によって、この「百花斉放百家争鳴」が始まったのだと考えるべきだろう。
反右派闘争
その上で、ここから先のいわゆる反右派闘争と呼ばれるものの実態が、実は非常に興味深い。
中国語版维基百科「百花齐放、百家争鸣」からそのまま引用するが、
1957年6月8日,中共中央内部发出毛泽东起草的《组织力量反击右派分子的猖狂进攻的指示》[48],人民日报发表了社论《这是为什么?》[49],正式发动反右运动。6月16日《人民日报》发文指出:[50]
百家争鸣正是建立马克思列宁主义思想领导的最好途径。因为百家争鸣,必然有真理和歪理。真理和歪理大家取决于事实,最后必然得出一个与客观事实本性相符合的道理,而这就是实事求是的马克思列宁主义的道理。当然,百家争鸣不是没有时间、条件和地点的,马克思列宁主义是从具体情况出发的。……只要坚持事实,坚持说理,论辩和争鸣必然把我们引导到马克思列宁主义的真理上去。
6月16日,《人民日报》发表了毛泽东的《关于正确处理人民内部矛盾的问题》,这是根据他2月份最高国务会议第十一次(扩大)会议上的讲话整理而成,其中增加了辨别香花毒草的六条标准:
从广大人民群众的观点看来,究竟什么是我们今天辨别香花和毒草的标准呢?在我国人民的政治生活中,应当怎样来判断我们的言论和行动的是非呢?我们以为,根据我国的宪法的原则,根据我国最大多数人民的意志和我国各党派历次宣布的共同的政治主张,这种标准可以大致规定如下:(一)有利于团结全国各族人民,而不是分裂人民;(二)有利于社会主义改造和社会主义建设,而不是不利于社会主义改造和社会主义建设;(三)有利于巩固人民民主专政,而不是破坏或者削弱这个专政;(四)有利于巩固民主集中制,而不是破坏或者削弱这个制度;(五)有利于巩固共产党的领导,而不是摆脱或者削弱这种领导;(六)有利于社会主义的国际团结和全世界爱好和平人民的国际团结,而不是有损于这些团结。这六条标准中,最重要的是社会主义道路和党的领导两条。提出这些标准,是为了帮助人民发展对于各种问题的自由讨论,而不是为了妨碍这种讨论。不赞成这些标准的人们仍然可以提出自己的意见来辩论。但是大多数人有了明确的标准,就可以使批评和自我批评沿着正确的轨道前进,就可以用这些标准去鉴别人们的言论行动是否正确,究竟是香花还是毒草。这是一些政治标准。
6月22日《人民日报》发表社论指责资产阶级右派分子:[51]
要求共同领导,或者要求共产党在某些范围内退出领导。他们竭力把百花齐放、百家争鸣、长期共存、互相监督的口号解释得适合于他们的目的,并且积极地在民主党派,知识分子、工商业者和青年学生中收集他们的支持者。5月间,共产党开始整风,而且要求党外人士帮助党的整风。他们认为机会来了。他们在帮助党整风的名义之下,不但夸大党的工作中的缺点和错误,造成一种只许讲缺点错误、不许讲优点成绩的空气,而且把官僚主义说成是社会主义的产物和代名词,把宗派主义说成是无产阶级专政的产物和代名词,把主观主义教条主义说成是马克思主义的产物和代名词,向社会主义制度和党的领导展开了猖狂的进攻。
7月1日,毛泽东又为《人民日报》撰写社论《文汇报的资产阶级方向应当批判》[52]:
本报及一切党报,在五月八日至六月七日这个期间,执行了中共中央的指示,正是这样做的。......让资产阶级及资产阶级知识分子发动这一场战争,报纸在一个期间内,不登或少登正面意见,对资产阶级反动右派的猖狂进攻不予回击,一切整风的机关学校的党组织,对于这种猖狂进攻在一个时期内也一概不予回击,使群众看得清清楚楚,什么人的批评是善意的,什么人的所谓批评是恶意的,从而聚集力量,等待时机成熟,实行反击。有人说,这是阴谋。我们说,这是阳谋。因为事先告诉了敌人:牛鬼蛇神只有让它们出笼,才好歼灭它们,毒草只有让它们出土,才便于锄掉。
正確に訳す能力はないので、DeepLの翻訳をそのまま写すと、
1957年6月8日、中国共産党中央委員会は、毛沢東が起草した右派の横暴な攻撃に対抗するための部隊編成に関する内部指示を発表し[48]、人民日報は社説で「これはなぜか? [49]、反右翼運動を正式に開始した。[50]6月16日、『人民日報』は次のような記事を掲載した。
100の流派は、まさにマルクス・レーニン主義の思想的リーダーシップを確立するための最良の方法である。 100の流派が争えば、真実も歪曲もあるはずだからだ。 真実も歪曲もすべて事実に依存しており、最終的には客観的事実の本質に即した真実が必然的に到達するのであり、それが事実に即したマルクス・レーニン主義の真実である。 もちろん、百家争鳴は時と場合と場所を選ばないが、マルクス・レーニン主義は具体的な状況からである。 ...... 事実と道理に忠実である限り、議論や論争は必ずマルクス・レーニン主義の真理へと導いてくれます。
6月16日、人民日報は、2月の最高国務院第11回(拡大)会議での演説をもとに、香りの良い花と毒のある植物を見分ける6つの基準を加えた毛沢東の「人民の内部矛盾の正しい処理について」を掲載した。
一般の人から見て、今の私たちが香りの良い花と毒のある草を見分ける基準は一体何なのか。 国民の政治生活における自分の言動の善し悪しをどのように判断すべきか。 我々は、わが国の憲法の原則、国民の最大多数の意思、および長年にわたって我々の政党が宣言してきた共通の政治的命題によれば、そのような基準は大まかに次のように示すことができると考えている。 人民の民主的独裁体制の強化に資するのであって、この独裁体制を弱めたり、弱めたりするのではない。④民主的中央集権体制の強化に資するのであって、この体制を弱めたり、弱めたりするのではない。⑤共産党の指導部の強化に資するのであって、この指導部を排除したり、弱めたりするのではない。⑥社会主義の国際的連帯と全世界の平和を愛する人々の国際的連帯に資するのであって、これらの連帯を弱めるのではない。 この6つの基準のうち、最も重要なのは「社会主義の道」と「党の指導力」である。 これらの基準は、人々が問題について自由な議論を展開するのを助けるために提示されたものであり、そのような議論を妨げるものではありません。 これらの基準に同意しない人も、自分の意見を述べて議論することができます。 しかし、大多数の人に明確な基準があれば、批判や自己批判を正しい方向に導くことができ、その基準をもとに、人の言動が正しいかどうか、香り高い花なのか、毒のある植物なのかを見極めることができるのです。 これは政治的な基準でもあります。
6月22日、『人民日報』はブルジョア右派を非難する社説を掲載した[51]。
共通のリーダーシップを求め、あるいは一定の範囲内で共産党がリーダーシップから撤退することを求めた。彼らは百花繚乱、百家争鳴、長期共存、相互監視などのスローガンを自分たちの目的に合わせて解釈し、民主主義政党や知識人、実業家、若い学生などに積極的に支持者を集めた。5月に入ると、共産党は是正に乗り出し、党外の人々にも党の是正に協力を求めた。チャンスが来たと思ったのだ。 彼らは、党が状況を改善するのを助けるという名目で、党の仕事の欠点や間違いを誇張し、欠点や間違いだけを言及することが許され、長所や成果を言及することが許されない空気を作り出しただけでなく、官僚主義を社会主義の産物であり同義語とし、セクト主義をプロレタリアート独裁の産物であり同義語とし、主観主義的な教条主義をマルクス主義の産物であり同義語とし、社会主義体制とマルクス主義に対するキャンペーンを展開した。 党の幹部は、猛烈な攻撃を仕掛けてきた。
7月1日、毛沢東は『人民日報』にまた社説を書き、「文偉波のブルジョア的な方向性を批判すべきだ」と述べた[52]。
本紙およびすべての党機関紙は、5月8日から6月7日までの期間に、中国共産党中央委員会の指示を忠実に実行した。......。 ブルジョアジーとブルジョア知識人にこの戦争をさせ、一定期間、新聞は肯定的な意見を一切掲載せず、ブルジョアジーの反動的右翼の横暴な攻撃に反応せず、整流の機関や学校のすべての党組織は、一定期間、そのような横暴な攻撃に反応しないようにして、大衆がどのような批判が善意であり、どのようないわゆる批判が悪意であるかをはっきりと見るようにする。 そのため、力を蓄え、反撃のタイミングを待つことができるのです。 これは陰謀だと言う人もいます。 我々はそれを陰謀だと言う。 なぜなら、敵はあらかじめ、檻から出してこそ全滅できる、地面から出してこそ毒草が簡単に除草できると言われているからです。
これを見てみると、まず6月8日に中国共産党中央委員会が毛沢東の名前によって《组织力量反击右派分子的猖狂进攻的指示》という指示を出した。人民日報がそれに対して《这是为什么?》それは何だ?と、その指示に対して疑問を呈する社説を出した。そして16日に人民日報は毛沢東の意見として《关于正确处理人民内部矛盾的问题》という内容を掲載し、それに対する反論として百花斉放百家争鳴を擁護する記事を掲載した。つまり、議論による民主主義とはこういうものだ、という実例を人民日報が毛沢東を相手に示す、という何とも啓蒙的な手法をとっているのではないかと考えられるのだ。22日の記事は、百花斉放百家争鳴の動きと共産党の対応を追い、党の幹部が攻撃を仕掛けてきたことを報じている。
青島会議
その後、57年7月に青島会議というものが開かれたようだ。この辺りも元資料を読み解く力もないので、中国語版维基百科「反右运动」を勝手に解釈するだけとなるが、
1957年的青岛会议期间,毛泽东提出了处理右派的原则:一是“给他们一点事做,也不剥夺他们的公民权”;一是“要搞个劳动教养条例,除了少数知名人士外,把一些右派都搞去劳动教养”[38]。邓小平在7月23日书记处会议上提出,关于右派问题,“组织处理不忙,人大、政协、党团都不忙处理,等人大改选再说”,“但要积极做准备工作,统战、宣传、组织部赶快研究,12月必须拿出方案。政协、人大,包括省市,11月拿出方案,统战部负责”[39]。7月26日国务院全体会议通过了《关于劳动教养问题的决定》,并报请全国人大常委会审核批准[40]。8月4日《人民日报》公布了这个决定,同时发表社论解释:
“ 对于这些坏分子,一般地用说服教育的办法是无效的;采取简单的惩罚措施也不行;在机关、团体、企业内部也决不能继续留用;让他们另行就业又没人愿意收留他们。因此,对于这些人,就需要有一个既能改造他们,又能保障其生活出路的妥善办法。根据人民政府长期的研究和考虑,把他们收容起来,实行劳动教养,就是最适当的也是最好的办法[41]。
DeepLによる訳ではあまりよくわからないが、
1957年の青島会議で、毛沢東は右派に対処するための原則を提案した。1つは「彼らに何かすることを与え、市民権を奪わない」ことであり、もう1つは「労働による再教育に関する規定を作成し、少数の著名人を除いて、右派の一部は労働による再教育を受けるようにする」ことであった[38]。
鄧小平は7月23日の事務局会議で、右派問題について、「組織はあまり忙しく対処すべきではなく、NPC、CPPCC、党リーグはあまり忙しく対処すべきではなく、NPCが再選されるまで待つべきである」「しかし、積極的に準備を進め、統一戦線部、宣伝部、組織部は迅速に検討し、12月には計画を出さなければならない」と提案した。省や市を含めたCPPCやNPCが11月にプログラムを出し、統一戦線工作部がそれを担当する」[39]。7月26日、国務院本会議は「労働による再教育の問題に関する決定」を採択し、全国人民代表大会常務委員会に提出して審査・承認を求めた[40]。
この決定は、8月4日付の人民日報に、説明する社説とともに掲載されました。
「説得や教育といった通常の方法では効果がなく、単純な懲罰的措置では効果がなく、組織やグループ、企業内に留めておいてはならず、代替雇用を認めても誰も引き取ってくれない。 そのため、これらの人々をリハビリし、同時に彼らの生活を確保するための適切な方法が必要とされています。 人民政府の長年の研究と検討によると、最も適切で最良の解決策は、労働による再教育を受けさせることである[41]。
つまり、毛沢東が労働による再教育を主張し、それに対して鄧小平はあまり慌てることなく、改選されてから何らかの処分をすればよい、と言った様子。人民日報の再教育についての記事は、これだけだったのか、それともこれは毛沢東の主張だけを抜き出したもので、それとは別に社説で何らかのコメントをしているのかはわからない。いずれにしても、そんなにおかしなことが行われた様子はない。毛沢東に代表されるいわゆる共産党はかなりおかしな感じだが、人民日報を含め、中国社会は非常に常識的で、真っ当だったのではないかと思われる。
その後、右派とされた人々は、労働改造所などに送られたともされるが、その辺りもかなり曖昧で、実際にはそれほど大規模な処分は無かったのではないかと考えられる。また、毛沢東の実質的なデビューは、この反右派闘争における人民日報でのやりとりだったのではないかと考えられる。
ソ連での反党グループ事件
これは、ちょうどその時期に起こっていたソ連における反党グループの活動と同期していたのだと考えられる。反党グループ事件とは、1957年6月後半に、モトロフやカガノーヴィチが党の最高会議幹部会を急遽招集し、フルシチョフを解任する動議を提出し、幹部会員11名の内、7人(マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、ペルヴーヒン、サブーロフ)が賛成、4人(フルシチョフ、ミコヤン、スースロフ、キリチェンコ)が反対で動議は可決され、フルシチョフが失脚しそうになった事件だ。フルシチョフは、第一書記たる自分は中央委員会によって選出された以上、解任できるのも中央委員会のみであると主張し、その間に、ゲオルギー・ジューコフ国防相(幹部会員候補)とイワン・セーロフKGB議長の協力を取り付け、反フルシチョフ派の工作が及ぶ前に各地の中央委員を急ぎモスクワへと集め、中央委員会総会の開催が決定され、それによってフルシチョフの解任は、総会に持ち越されて危機を脱した。これは、それに先立つ2月にフルシチョフが中央省庁の多くの廃止と地域経済評議会の創設を発表し、それが5月10日にソヴィエトの最高会議幹部会で可決されたことに対するものだった。その2月には、フルシチョフがスターリン批判を行っており、大粛清に注目が集まっていた。実際のところ、大粛清がどの程度の規模だったのか、そしてそれにスターリンがどの程度関わっていたのか、というのはかなり不明確であり、あるいはモトロフらはその実態が明らかになると自分の責任が明らかになってしまうと感じて焦っていたのかもしれない。反右派闘争は、その大粛清の韻を踏んでいるようなものであり、その意味で、この反右派闘争が事実とはかけ離れているとしたら、大粛清もやはり大いに誇張されている可能性がある。だから、反右派闘争の捏造を行なったのは、大粛清の捏造を行なった勢力と繋がりがあると考えられ、 モロトフやカガノーヴィチと言ったソヴィエト共産党の一部が関わった可能性は大いにあり、そして特にモトロフは外務大臣として満州や国共内戦にも深く関わっていたので、その内容についての解釈を反右派闘争のような形で自らの都合の良いように整理したのではないかと推測される。
こんな国際的背景のもとで、反右派闘争というのは誇張された話ばかりがどんどん広がり、そしてのちになってその話を補強するように毛沢東の存在がどんどん大きく膨らんでいったのではないかと考えられる。実際には、この時期に、かなり自由に活発に国や社会についての議論がなされ、それが周恩来、そして鄧小平の下での安定した発展の基礎となったのではないか。ただし、この評価は文化大革命の実態次第ではどうなるかわからない。
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