広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(24)
備後吉備津神社
前回、『延喜式』で備後国一宮とされていると考えられている備後の素盞嗚神社について見たが、その『延喜式』には名前がないものの、一宮を称している備後の吉備津神社について見てみたい。
地元で「一宮さん(いっきゅうさん)」と通称されている、という部分で、少なからぬ揶揄のようなものを感じるのは私だけであろうか。つまり、地元ではやはり素盞嗚神社が一宮であり、こちらの吉備津神社はいっきゅうさんに過ぎない、ということなのだろうと私は受け止める。それは、隣の吉備色があまりに強いからであると考えられ、吉備国には、備後だけではなく備中にも吉備津神社が、そして備前には吉備津彦神社があり、あたかも強い一体感があったように感じさせている。しかしながら、備前吉備津彦神社と備中吉備津神社が山を挟んだ表裏にある、ほぼ一体の神社であることを考えると、一つだけ遠く離れた備後吉備津神社の異質さは際立っていると言える。
備前吉備津彦神社
それを確認するために、備前と備中の吉備津彦にかかわる神社をそれぞれ見てみたい。
まずは備前の吉備津彦神社
備中吉備津神社
続いて備中吉備津神社
となっている。
三社の比較
これを見る限りにおいては、備中、備前、備後の順に古そうに思われる。備中に関しては、承和年間から文献記録があり、天慶3(940)年に一品に昇格したことになっている。そしてこれによって備前吉備津彦神社も安仁神社から一宮の座を譲られることになったようだ。『延喜式』神名帳自体の年代比定にも問題はあるが、それにしても、とにかく吉備津三社の中で備中吉備津神社が唯一そこに記載されていることから、少なくとも現存の『延喜式』神名帳の編纂意図としては備中吉備津神社だけが存在するということだったということは明らかになっている。これに対して、備前吉備津彦神社に対しては
安仁神社、そして備後吉備津神社に対しては素戔嗚神社と大同元(806)年という年号が手がかりとして残されている。
三社の特徴をもう少し見てみると、備中吉備津神社と備前吉備津彦神社はすでに書いた通り兄弟社のようなもので、御神紋も共に桐(吉備津彦神社は菊も)を用いている。一方備後吉備津神社の御神紋は五瓜で、ここでも系統の違いが現れている。また、備後吉備津神社には神楽殿があり、そして祭りとしても夏越の大祓で茅の輪くぐりがあるが、備中、備前のものにはどちらもない。つまり、備後吉備津神社は、吉備系というよりも明らかに祇園系であり、社名だけを吉備津神社と名乗らされているという感じを否定できない。
備前安仁神社
ここで、備前吉備津神社からの手がかりとして残された安仁神社について見てみたい。
吉備津彦神社の前に備前国一宮だったとされる安仁神社だが、祭神も明治に定められ、それ以前のものが明らかではないこと、創建年代も不明であるということから、吉備津彦神社のライバル的存在としてあえて作られた神社ではないかと考えられる。夏越しの祭りで茅の輪くぐりが行われているというのも、吉備との違いを明らかにするためだとも言えそう。文献初見が『続日本後紀』の承和八(841)年で、『延喜式』神名帳に掲載されていることから、備中の吉備津神社と並んで書かれたものではないかと疑われる。備中吉備津神社と備前吉備津彦神社の距離の近さを考えると、本当にその間に国境があったのか、というのは疑うべき理由があり、元々一つの国で吉井川か旭川のあたりに国境があった可能性もありそう。天慶の乱の後に備前吉備津彦神社が創建されたようなので、その創建によって備前一宮を切り替えたのかもしれないが、元からあった国境線ならば、神聖な山の上にそれを引いた意味もわからないし、もし仮にこの時に無理やり国境線を西に動かしたのならば、わざわざ二つの吉備津彦に関わる神社の間に国境線を引く意味がわからない。藤原純友の乱との関わりが言われているが、伊予との距離のみならず、地理的にも海からは少し奥まっており、海と直接の関わりがあったかというのは少し疑わしく、その話もやはり少し信じ難い。
尾道艮神社
今度は備前吉備津神社の806年という年号を手がかりに、尾道にある806年創建の記録を持つ艮神社を見てみたい。
尾道はお寺が多いので、最古の神社とされていても、情報は限られているが、そこに出ている情報は、806年創建で、祭神の中に吉備津彦命が含まれているということがある。
三つの吉備津の神社を挟む両社から見えること
備中吉備津神社、そして備前安仁神社が藤原純友の乱と深い繋がりがあるということになっているが、吉備津神社はかなりの内陸、そして安仁神社も純友と結びつけるのには難があるということを示した。その点、尾道ならば、陸海の要衝で、伊予芸予諸島とも近接していることから、もしかしたらこれが吉備津神社であったのかもしれない。可能性としては、三原が備前、尾道が備中、そして福山が備後、と現在とは逆方向の国割りだったかもしれないことが指摘できそう。もしそうならば、『続日本後紀』の段階で備中吉備津神社に神階を与えたことで、仮に現在の場所にそれが存在していなくても、尾道に吉備津彦命が祀られていることで、そこをベースとしながらいつでもその場所を切り替えることができるようにし、その大きな手がかりとしたのかもしれない。なお、備中吉備津神社は『日本文徳天皇実録』で神階が品位に変わっているが、『日本文徳天皇実録』の元写本は、既に現存しない三条西実隆本だとされ、そうなると室町期の写本が辿れる中で一番古いということになる。そこまでのどこかで書き換えがなされたという可能性を否定することはできないだろう。そして、それはもしかしたら六国史後の天慶三年の神階付与が品位で記録されていたので、それをバックデートさせたということも考えられる。その可能性があるということは、備中吉備津神社に関しての情報は常にどこかで書き換えされている可能性を考慮する必要が出てくることになる。吉備津彦を祀った神社については、そういった可能性を常に念頭に、さまざまな要素を考えながらその実態に迫る必要が出てくるのかもしれない。
『続日本後紀』
そうなると、考えるべきなのは、なぜ『続日本後紀』において備中吉備津神社への神階授与が行われ、それが結局天慶三年の一品(出典を確認できていないのでどういう話の中でそれが出てきたのかが特定不能ではあるが)にまで至らざるを得なかったか、ということになりそう。ここで、『続日本後紀』であるが、
ということで、文徳天皇から清和天皇にかけての十五年間かけて一代十八年の史書を書くという、念入りというか、時間的にはかなり丁寧に作られたというべきなのだろうが、途中に文徳天皇の突然の死やその後継をめぐる惟喬親王と惟仁親王との関係、そして応天門の変を挟むということで、内容の落ち着きとは裏腹に、編纂過程自体はかなり政治的闘争に満ちたものであったと言えそう。そして天皇の後継争いには真言宗の僧真済と真雅が絡んでいたということで、仏教がかなり政治に深く干渉していた時代であったと言える。
尾道・真言宗・吉備津彦命
そんな中で、尾道という真言宗寺院が多くある地域に、吉備津彦命も祀った艮神社 が現れ『続日本後紀』にも出てきて、そしてその後に吉備津神社も出てくるということになる。つまり、艮神社の吉備津彦命が先にあり、それから吉備津神社が現れることになるのだ。そして吉備津神社の現存最古の建物は、南北朝時代の延文二(1357)年に再建された南随神門で、それ以前の建物の痕跡があるのか、というのは定かではない。つまり、吉備津神社自体神階が与えられた時にどこにあり、そしてその後いついかにして現在地に至ったのか、ということが明らかにはなっていない、ということがある。
それを考えると、吉備津神社というのは、真言宗の広がりと共に、吉備国におけるその存在を固めていった人々が祀ったものなのかもしれない。そしてそれは南北朝時代に深く絡んでいるのかもしれない。
吉備の謎を解くには、尾道にもう少し迫ってみる必要がありそうだ。