広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(20)
吉田の起源を追って ー 信仰心の広がりの行方
前回吉田と京都祇園社の関わりについてみて、津和野までは戻れなかったが、今回はそこを探ってみたい。
益田氏と吉見氏
津和野の北に位置する益田を拠点としていた益田氏が兼の字を通字としていたとされる。益田氏には、いくつかの系図が残されており、かなりの長期間にわたって兼の字を使い続けているが、支流がいくつかあったようで、益田氏自体が本家だったかどうかは定かではない。そして吉見氏とは、婚姻関係を結んだり、敵対したりして、単なる対立構図では読み解けないと複雑な関係にあったように感じるが、最終的には大内義隆が陶晴賢に討たれた大寧寺の変の後に、吉見正頼が当主だった吉見領に攻め込むなどして、益田氏と吉見氏とは友好関係とはいっていなかったとみられる。吉見氏は結局その子広頼の代に毛利氏の防長二国への国替に伴い津和野を離れることになり、その子広長の代に毛利輝元に討たれて滅びてしまった。この辺りの様子はさらに調べる必要がありそう。
南北朝期の益田氏
ここでは、益田氏に注目してみたいが、益田氏系図の研究││中世前期益田氏の実像を求めて を見ると、益田氏の系図は主として三系統に分けられるようだが、鎌倉中期くらいに系図の乱れが生じたようだ。そこで、主家をめぐっての争いがあったかのように見受けられ、結果として、南北朝期に発生した観応の擾乱で、足利直冬或いはその後に今川了俊という人物が現れ、山陰石見や九州を舞台に活躍するが、どうもそれらの人物はこの益田氏の家督争いを体現した形で描かれているように感じる。つまり、益田氏は最初直義側につき、その後大内氏とともに将軍側についたとされ、その後直冬は消息不明となり、そして今川了俊の動きは将軍側についた大内弘世の動きと重なることになる。益田氏はその時期には石見にいて、九州には関わっていないとみられるので、大内氏と将軍家との関係で、大内が北朝に降るまでは足利直冬として、そしてその後は大内を今川了俊として描くことで、自らの立場を正当化してきたのが、益田氏の系図に残る現在の嫡流の動きだったということではないか。この部分も広範なテーマとなるので、また機会があれば深く検討したい。
益田氏と吉田氏
さて、Wikipedia情報を完全に信じるのもどうかとは思うが、その後の益田氏について、そこに掲載された系図を見ると、その益田氏から吉田姓が出ていることになっている。その時期の様子をWikipediaから引用すると、
この兼理の弟として吉田兼家がいるとされる。それ以外に直接その人物について書かれている情報はないので、実際のつながりはよくわからないが、とにかく兼の通字と吉田がつながる事例がここに出てくる。その真偽はともかくとして、全く理由がなければそのような系図の繋げ方を許すとは思えず、それが公開情報の中に一時でも出てきた、という時点で益田氏と吉田氏との関わりにはなんらかの手がかりが隠されていると見ることができるのではないか。ここまでの歴史を見ると、吉田氏にはこの益田氏に絡んで、応永の乱に至る大内氏の混乱に食い込むことにメリットと見出しているようにも感じる。つまり、吉田氏がこの益田氏に系図をつなげたがっているということは、おそらく実際にはそこにはつながってはいないことを示唆しているのだろう。
そうなると、『棚守房顕覚書』以前に吉田氏が広島や津和野方面に進出していたか、となると、それは疑わしいのではないか、といえそう。ここで、前回見た貞観寺と京都祇園社の関わりについて、八坂神社のWikipediaに以下のような記載があった。
播磨、妙心寺、利貞尼
広峰神社に関する部分は非常に興味深いが、今回このまま追い続けるとまた話が散乱してしまうので、次回以降としたい。ここでは、その広峰神社がある播磨に注目したい。そこは、室町時代には赤松氏が勢力を持っていたとされるが、播磨出身で赤松氏ともつながる宗峰妙超という禅僧が、大徳寺を建て、そして弟子の関山慧玄が妙心寺の開山となっている。その妙心寺を中興したのが利貞尼と呼ばれる尼で、
と、ここで甘露寺親長と繋がってくる。親長に関しても展開させると大変なことになるので、要点だけ書くと、少し前回の評価から軌道修正しないといけないのだが、Wikipediaの内容を見る限りにおいては、親長はかなり真っ当な人物であるかのように見える。だから、その筆が信用できるのならば、書かれた内容は基本的には信頼度が高いように感じる。吉田の名の力の源泉は、この甘露寺親長の信用度に依っているのではないかと感じる。
勧修寺晴豊
この甘露寺家は親長の孫伊長の代で一旦血統が途絶え、下冷泉家から養子経元を迎え、その後勧修寺家から経遠を迎えることになるが、この経遠の父親勧修寺晴豊がその日記『晴豊公記』の中で信長や本能寺の変について記しているということで、日記の家に属する人物の日記ということもあり信頼度が高いとなってそれが既成事実化し、そこで大きく歴史が歪んだ可能性がある。この解釈についても様々な立場、様々な考え方ができると思うので、時間をかけてゆっくりと当時の状況が蘇ってくるのを待つ必要があるのかもしれない。
卜部兼右
とにかくこんな状況で、『棚守房顕覚書』の中に、天文十三年とみられる年に卜部兼右が来島したとの記述が出てくる。ここで注目したいのは、その姓は吉田とはなっておらず、卜部となっていることだ。なお、兼右は、吉田兼倶の三男である清原宣賢の次男で、そこから兼倶の孫にあたる兼満の養子となり、兼満の出奔後に吉田家の跡を継いだことになっている。しかしながら、既に兼満が出奔したあとのこの段階でもまだ卜部を名乗っており、それは兼右が兼倶の孫で、吉田神道をついでいる、という話は固まっていなかったことを示唆している。
京都祇園社記録の吉田庄との齟齬
ここで問題となるのは、すでにみた吉田庄という名が京都祇園社の史料にて南北朝時代から残っているということだ。しかしながら、これは三百石という石高表示となっており、一般的に貫高から石高に変わったのが太閤検地だとされることを考えると、時期的には不審だし、現在でも水が出やすく、獣害も多い郡山城下で三百石という石高を確保できたかについても疑問が残る。これに関しては、京都祇園社自体南北朝期に本当に京都にあったのか、ということも含めてさらに検討する必要がありそう。
吉田の初見はやはり『棚守房顕覚書』か?
さてここで、『棚守房顕覚書』に戻ると、すでに書いた通り、最初にそこに吉田の名が出てくるのは、天文九年のいわゆる郡山合戦と呼ばれる戦いの一節である。上で見た通り、京都祇園社の史料が当てにならないとすると、吉田の初見はこの記事ということになるのかもしれない。その翌年には大内氏と対立した厳島神社の神主家で、いずれも神主家の通字である親の字を持っていない興藤と廣就が討死し、神主家が滅亡している。その翌年には津和野の祇園社で鷺舞が山口から導入されているという。これは、山口というよりも、むしろ神主家が滅びてしまった厳島神社から、ということだったのかもしれない。
厳島神社と吉田神道の形成
そうだとすると、この神主家の滅亡というのは、厳島神社の伝統が途切れるという、重大な転機となった事件だったのかもしれない。それがあって、そこに吉田という名で新たな神道形態を導入すれば、吉田によってそれまでの厳島信仰をすべて上書きしてしまえる、という計画だったのかもしれない。これを考えると、そこまで見通していたかは別として、吉田の名は房顕が独自に元就と絡めて話を進めており、おそらくその話とどこかでつながる形で祇園社の吉田庄の記述がなされたのではないかと考えられる。そうなると、最初には、あったとしても保元元年の記述のみであり、石高表記のある延慶三年のものは太閤検地後、すなわち『棚守房顕覚書』が書き終えられた後に付け加えられたと考えられそうだ。そして、その記述を補強するために、吉田神道というものが次第に形成されていったと考えられるのではないだろうか。つまり、その形成は早くとも江戸時代以降ということになるのではないか。
その後の吉田神道の展開の見立て
それはその後かなり時間をかけて、明治維新によって大政が奉還されることで成立した天皇親政をいかに利用するかの鞘当ての中で、歴史的に見れば南北朝期の後醍醐天皇の親政の再現となるようなことが意識されながら、神道としての形態を整えていったのかもしれない。それは、甘露寺親長や大内氏にも関わる三条家を軸に据えて、同じく閑院流に属し、母系で中御門家につながる嫡流の三条家に対して、母系で勧修寺家につながる西園寺、徳大寺の両家が、勧修寺流吉田家の嫡流甘露寺家を同じ勧修寺流でも傍流にあたる勧修寺家の甘露寺家乗っ取りの例に合わせるような形で、卜部家流吉田家の地位固めを主導したものではないかと想像される。
京都の動きと津和野祇園社
吉田氏に関わるロングスパンの見立てはだいたいこんなところにしておき、祇園社の方に戻りたい。赤松氏の話までしたが、その赤松氏からの満祐は嘉吉の乱で将軍義教を殺害している。その将軍義教は、義持の没後跡継ぎが決まらなかったので、くじ引きで決まったという経緯がある。その義教の将軍位が決まる前の、将軍が空位であった時期が正長年間で、その時に遷座が行われたのが、津和野祇園社ということになる。
京都と関東の対立
正長年間は2年だけだが、その頃関東では関東公方の足利持氏が改元に反対し、永享と年号が改まってからも正長4年まで正長の年号を使い続けたという。この京都との対立構図が、その後永享の乱という関東戦乱のきっかけとなった乱につながってゆく。なお、持氏の父親は満兼で、ここに兼の字が出てくる。この辺りもまた機会があれば掘り下げたい。
みやこ、そして関東とは一体どこか?
さて、みやこ、というか、当時の歴史記述の中心地が西日本だったとすると、そこから今の関東というのはあまりに距離がありすぎる。ではいったい、関とはどこで、みやことはどこにあったのだろうか。まず関について考えると、西日本で関といえば、やはり下関の可能性が高いのではないだろうか。つまり、下関よりも東側が関東で、みやこはそれよりも西にあったのではないかと想像できそう。九州に関しては全く土地勘がないので、みやこについてもなかなか想像しづらいが、義満が日明貿易に力を入れ、そして後に寧波の乱で大内と細川の対立構図があり、大内は博多を抑えており、そしてその後応永の乱で堺に出兵していることから、堺が関、すなわち下関の対岸、今の北九州だと考えると、大内が筑後から筑前にかけてを勢力範囲としていた可能性がある。そうなると、将軍は今の肥前あたり、すなわち唐津か長崎か佐賀あたりを日明貿易の拠点としていたのかもしれない。
そして、それとは別に関東公方として山口か防府かあるいは長門あたりに鎌倉時代以来の武家の拠点があったと考えられるかもしれない。そして、もしかしたらこの頃までは、津和野の祇園社は山口県美袮町秋吉あたりにあり、この正長から永享にかけての混乱の結果として津和野に移らざるを得なくなった、という可能性はないだろうか。
関東管領と勧修寺流
関東公方を補佐する存在として、関東管領という職があり、代々上杉氏が勤めてきた。上杉氏は藤原氏の勧修寺流から出ている。勧修寺流は、紫式部を輩出したことで知られるが、元々は藤原良房の弟である良門からその息子の利基と高藤の二流に分かれ、そこから続いている家となる。利基流出身で高藤流に嫁いだ紫式部が『源氏物語』を著したこともあり、藤原氏の中で源氏を保護する存在としてはもっともそれらしいのかもしれない。そんなことから、関東管領という職を世襲するのが、その勧修寺流からの上杉氏ということになったのかもしれない。そして、この勧修寺流からは日記の家としての吉田家が出ており、『吉記』を著した吉田経房、そしてその子孫にあたる吉田定房らが出、そしてそこから分かれた甘露寺家からの親長が、それらの記録をまとめ、現在にまで伝わる形にした、ということになる。そこから先の見立ては先ほど書いた通り。
浦上四番崩れ
なんか非常に雑なまとめになってきたが、播磨の話に行ったところで宗峰妙超の話が少し出たが、その本姓は浦上氏だとされる。この辺り、宗教系の繋がりで考えると、また大きく展開してしまうのでざっくりとした話だけにしておくが、長崎のキリスト教会で知られているのは浦上の天主堂であり、そこを舞台にキリシタンの弾圧が四度にわたってなされたとされる。そのうちの幕末・維新期に行われた四度目のもので、弾圧されたキリシタンの一部が津和野に流罪となったとされる。それにつながるかもしれない文脈として、それに先立つこと二百三十年前の島原の乱で反乱側の指導者だった天草四郎は、本名益田四郎時貞だとされる。本来ならば、この辺りの文脈もしっかりと読み解いてゆくべきなのだろうが、そこまでやっているとキリがないので、ここでは指摘のみにとどめておきたい。ただ、私は個人的には、島原の乱の話が作られたのは明治以降のことではないか、という直感を持っている。具体的根拠は、今のところはまだ提示できるほどには固まっていない。
この辺りも本来はもう少し整理して書くべきなのだろうが、あまり深く立ち入ると広島、というところからどんどんずれてしまうし、サッと触れるだけでは何の話かわからない、という非常に難しいところ。それほどまでに広島から派生する文脈は幅広い、という部分だけでも伝われば、と思いながら、とりあえず今回はこの辺りまでにしておきたい。
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