フィクションとメタ構造

人がフィクションの中で生きている時に、他者のフィクションといかにして折り合いをつけるのか。今主流として行われているのは、他者の前提を固定した上で、いかに自分がそれよりもメタな位置に立ち、相手をその固定的前提に基づいたフィクションの上で、ガチガチに圧力をかけて走らせて、メタな立場の自分を有利な状態にするのか、という駆け引き的なゲームでフィクション同士の力比べをする、ということなのではないだろうか。

それは、フィクションの実現に対して無用な圧力がかかるという点でも、そして勝ったフィクションしか残らないという点でも、非常に無駄の多いやり方であり、それを、フィクションの両立ということを模索することで、お互いにとっての満足度も上がり、社会に残される遺産も大きなものになると考えられる。

このメタを使ったやり方というのがもはや限界に来ているのだと考えられる。というのは、他者の前提というものをしっかりと理解することもなく、とにかく表現されたことを前提だと決めつけ、それに縛りつけてそれを固守させることによって、ようやくメタはできるものであり、下の前提が崩れれば、それは全て砂上の楼閣となるのにも拘らず、金の力、組織の力、そして権力などによってそれを押さえつけて固定させる、という乱暴極まりないやり方をしているので、もはや最初の前提が守られているのかすらもわからないまま、ひたすらそのメタにメタを重ねるという形で走り続けており、そのメタに実態があるのかすらももはや怪しい状態にあると考えられるのだ。

その大元は、現代物理学の基礎理論となっている相対性理論であるといえる。相対性理論という、すべての物理原則を包括するというメタ理論は、光の速さを一定とする、というかなり大雑把な前提に基づいて構築されており、波長の違いのようなことは考慮されていない。物理学について詳しいわけではないのでわからないが、波長の違いによるその伝達情報の違いとか、そう言った性質は果たして考慮されているのだろうか。半導体がナノ単位の細さで作られている時に、そう言った波長の違いということを考慮せずに更なる微細化を安定的に成し遂げることはできるのだろうか。実際のところ、通信に関しては、そのような波長の違いによって帯域を分けているわけで、それはすでに相対性理論の枠外での実践であるといえる。現実がそこまで進んでいるのに、理論的にはあいも変わらず光の速さを基準にしてエネルギーを算定しているわけで、その速さは一体どの波長を基準にしているのか、ということでエネルギー量だって変わってくるのではないのか。そうする時に、その波長の違いから生じるエネルギーの差分も無視できないものなのではないかと考えられる。そうすると、その差分を利用したエネルギー生産の可能性も考えられるのかもしれず、それができれば、光が通るだけでその波長の違いから発電ができてしまう、などということも可能になるのではないのだろうか。この辺りは、素人の全くの夢想で、どのあたりまで現実性があるのかわからないが、現状の相対性理論からはおそらく出てこないことであり、その理論の再構築はまずもって求められるところなのだろう。

タイトルのフィクションとメタ構造から少し離れてしまったが、これを宇宙的に考える時に、フィクションというのがそれぞれの恒星が発する光だとして、宇宙空間では、別にそれが競合して発散するとかそういうことはないのではないか。単に発散とそれを受け止める、ということがあるだけであり、発散しているエネルギー源があり、そこにメタのように覆いかぶさって自分の発散エネルギーの推進力にする、とかそう言ったことは、物理的には、特に相対性理論に基けば、光は別の光を追い越すことはできないはずで、今のところ考えられそうもない。宇宙空間では、距離が違っても、また表面温度が違っても、それぞれ独立して私たちの目に届くわけであり、それは競争しているとか、駆け引きしているとか、そのようなことはないはず。そして、競争したから早く着く、とかそんなこともまたないはず。つまり、物理的にゲームということを定義するのは簡単ではない、ということがある。

一方で化学的に考えると、フィクションというのは、共有結合なのではないか、という気がした。お互いに電子を持っていると仮定して、それを共有することで分子が成り立つ、仮定の電子の共有によって成り立つ世界、というのが、フィクションであると考えられるのでは、ということ。つまり、フィクションをどんどん作り、共有結合を増やすことで、その共有分だけ電子が節約され、エネルギーが蓄積されるのでは。これについても、原子が制約的な場ではわからないが、基本的には競争や駆け引きが共有結合を促進するとかそういうことはないように感じる。そして、この辺りもよくわからないが、メタ構造である天然高分子が圧力によってできるということもないのではないだろうか。むしろ繊細な高分子は、圧力はともかく、少なくとも摩擦から生じるような熱に対しては脆弱なように感じる。

つまり、物理学的にも、化学的にも、競争や駆け引きと言った摩擦的要素、圧力によって構造が促進されるという要素はないわけであり、生物学的にはダーウィンなどはそう言った考えを持っているかもしれないが、それが客観的に正しいといえる要素もまたない。しかしながら、ダーウィン的進化論もそうであるが、それよりももっと経済学的なメタフィクションがあり、その中に現実社会を置く、というのが現代社会であり、それによってフィクションは常に競争にさらされることになっている。それは自然科学的に見れば不合理極まりないことであり、にも拘らず、そのメタフィクションの構造が、そこからの受益者によって強固に守られるので、個々のフィクションはそのメタフィクションによる強制的競争、そして搾取の圧力に常に晒されることになるのだ。

そんなやり方よりも、いかに自分のフィクションを自由に宇宙中に発散させるか、という物理学的アプローチ、そしていかにそのフィクションを多くの人と共有できるか、という化学的アプローチによって、世界中が、多様な、玉石混交でありながら色とりどりのさまざまなフィクションに溢れかえり、そんなことを笑いながら話し合う、という世の中になったら良いのでは、と想像してしまう。

*物理・化学・生物学等、全く素人の感覚で書いていますので、内容が正しいのかどうかもよくわかりません。私の自由なフィクションだと思って楽しんでいただければ、と思います。明らかにおかしいところがあればぜひご指摘ください。

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