不平等条約の改正
明治前半の海外との交流はお雇い外国人によってみてきたが、そこから大正時代に繋げるのには、日清日露の大きな戦争を二つ見なければならない。しかしながら、ここでそれを見るのは大きく主題から外れてしまうので、今回はそこは飛ばすことにして、大正時代に入る直前、対外的には明治天皇の最期の大仕事のようになった条約改正についてみてから大正時代を見ることにしたい。
改税約書
まず、私は個人的には幕末の日米和親条約や安政の五カ国条約というものが本当にあったのか、ということを疑っている立場である。とは言っても、維新後に何の条約もなかったとは考えにくく、おそらく改税約書のみが有効で、それによって貿易関係はできるようになっていたという状態だったのではないかと考えている。
これが締結されたことで貿易が長崎以外でも行われることとなり、経済に多少なりとも混乱が起きて、それがいわゆる討幕につながったと言えるのだろう。朝廷としては、それを朝廷自らが締結したものだとはしにくいために、幕府が無勅許で締結したのだ、と言う形式で明治前半はずっとやってきた、と言うことになるのではないか。
日墨修好通商条約
それが、明治27年以降に結ばれた諸条約によって正式な条約化し、それが明治末にいわゆる平等条約となっていったのではないだろうか。そこで、これらの満期を迎えるという諸条約のうち、最初期の日英と日米の条約について少し見てみたい。その前に、それに先立つ日墨修好通商条約について。
これは、欧米間で結ばれているような条件の条約を一つも持たない状態で欧米諸国との条約交渉に臨むと言うリスクを避けるために、まずは一つ平等条約を、と言うことで結ばれたものだろう。このうち、問題となるのは領事裁判権で、外国人に対する犯罪を国内法で裁くことによって生じるリスクについてどう考えるのかということについて国内世論を確かめたい、と言うこともあったのではないだろうか。清との間の条約では双方共領事裁判権を認め合うと言う形で、他国民への犯罪行為は裁かないと言うことにして個人間の紛争が国家間のものに拡大しないように配慮していたのだと言える。それに対して、全く価値観の違う西洋人に対する犯罪を国内法で裁けないと言うことは、国民の不満につながる一方でそれが容易く戦争に結びつくと言うことが認識されているのか、と言う危惧もあったのではないだろうか。
大津事件
そこで発生したのが明治24(1891)年の大津事件だと言えるのではないか。