市場と社会

前回の資本主義の限界の話を、市場と社会、という観点から角度を変えて見直してみたい。

市場と社会の特性と距離

市場とはスポット的な需給をマッチングする場であり、社会とは個別の文脈、筋、論理を擦り合わせる場であると言える。社会の範囲が限定的であれば、個別文脈は比較的社会内で共有されているので、その時点におけるスポット的需給の文脈というものが、市場においてもある程度共有されることになる。しかしながら、社会の範囲が人間の認識範囲を大きく超える規模で広がると、個別文脈を個別に把握することが難しくなり、そこで需給がトークン化され、それによって個別需給から文脈が切り離されて記号化され、価格によって表現されただけのコモディティの取引となる。

伝統的市場での作用

伝統的な市場においては、商品の質が明らかであったり、あるいは店と客とが顔馴染みでお互いの文脈をよく知っていたりで、需給の文脈マッチングがうまくいき、価格はその補助的な役割を果たしているにすぎない、という形であったと言える。

近代化による市場の変質

近代化とともに、大量生産の技術が発展し、量を作ることによって価格を下げることが可能になってきた。そうなると、文脈を込めた秘伝のタレよりも、大量生産を行い価格を下げることで市場での存在感を増す、という近代的商法が一般的となる。その最初期の状態を観察、記述したのがアダム・スミスの『国富論』であると言えるのかもしれない。スミスも、伝統的な文脈というものをどのように処理したら良いかという困難に直面したであろうことは想像に難くなく、そこで、共感という概念を用いてそれを理論化しようとしたのだと考えられるが、それが理論化に耐えうるようなものであるかというと、少なくとも近代経済学的な方向においてはそれはうまく作用していないと言えるのではないだろうか。

ヒューマン・キャピタル理論

近代経済学とは別の方向でそれを理論化しようとしたものの一つが人的資本、いわゆるヒューマン・キャピタルの理論ではないかと考えられる。ヒューマン・キャピタルは、キャピタルの名の通り、本来的には蓄積されてゆくべきものではないかと考えられるが、現実的には仮想ヒューマン・キャピタルが先行して積み上がり、時間に従って逓減してゆくそれをできるだけ早く現実のヒューマン・キャピタルに変えてゆくという形式になっているようで、さらにはヒューマン・キャピタルと言いながら、現実にはそれは信用であると言え、それを積み上げるということ自体、市場での評価から社会での評価に照準を切り替えるということになり、市場的な評価からは取り残され、スミス的共感とはうまく折り合っているとは言えないように感じる。これは、市場での評価があまりに早くうつろいやすく、一方で社会的評価を得るには時間と手間がかかるという大きなギャップがあるためであると言える。

ケイパビリティ理論と市場

それに対して、より個人の市場評価に焦点を当てたものとして、ケイパビリティの理論があるのではないかと感じる。セン自身はケイパビリティを市場の枠組みの中に強く位置付けているわけではなく、むしろ人間開発の観点から焦点を当てているが、本来的に市場というものは、ケイパビリティの欠けたる部分を補い、余す所を分け合うための仕組みであると言え、その意味で市場の観点からはケイパビリティ理論の統合というのは必要不可欠なことだと言える。

ケイパビリティとヒューマン・キャピタル

一方で、ケイパビリティが、市場ではなく、関係性すなわちヒューマン・キャピタルに依存する社会というのは、非常に封建的、つまり師匠ー弟子関係のようなものが重視される硬直的な社会であると言える。現代というのは、自立した個人が確立されることで発展してきたものであり、それを再び封建的な制度の中に部品として組み込み、硬直化させるというのは、社会の停滞を招くだけで百害あって一利なしだろう。ヒューマン・キャピタル理論の限界はこんなところにあり、資本主義的に考えれば、キャピタルを如何に効率的に蓄積するか、ということが重要なのにも関わらず、経済的資産の積み上げよりもはるかに難しいヒューマン・キャピタルの蓄積をベースにして資本主義を構築しようとするのは、その効率化に資するものなのか、という大きな問いを投げかけるだろう。むしろこれまでの研究展開のように、それを補助的なものと考え、ヒューマン・キャピタルが蓄積されれば結果的に経済にも好影響をもたらす、と考えるべきなのではないだろうか。

属人的ケイパビリティの可能性

それよりもむしろ、ケイパビリティを個人に属するものとし、その開発と資本蓄積との関連性を高めた方が、ある意味で啓蒙主義と資本主義の結合のような形(もっとも啓蒙思想自体上からの教育的発想なのである意味で師弟関係に直結しかねないというリスクを持つ。)となり、より近代的な建付になると言えそう。
ケイパビリティを個人に属するようにする、というのは、現代社会において、特に日本的雇用慣行の終身雇用制度におけるゼネラリスト的なスキル開発では、ラインに乗ってさまざまな技能を引き継いで身につけるということになり、自らの主体的意思によって得るものとは少し異なったものとなる。個別の個性に根ざした技能をケイパビリティであると考えると、会社組織に特化した技能をその中に含めることが可能なのか、ということは検討に値するだろう。ケイパビリティが個人に属するようになれば、同一技能についての競争的な争いではなく、同一技能の中でも異なった角度からのケイパビリティとなり、相補的関係が構築できるようになるのではないだろうか。そこで相補性が生じれば、その相互評価により、相互承認による資本蓄積への可能性が生じるのではないだろうか。それは、自己合理性との比較で、自分一人でやった時と、協力しておこおなった時の時間的節約を相互にクレジットとして計上するという手法が考えられ、それによって資本蓄積の仕組みと合理的に接合することができそうだ。

ケイパビリティを通じた市場と社会の接合

こうすることによって、ケイパビリティの開発と社会的信用の獲得を共存させることができるようになり、競争よりも強調によって需給の調整が社会的相互作用を通じてなされる市場が構築できるようになる。社会と市場が分断され、それ自体が対立構図になる、というのは決して望ましいことではない。それよりもその二つをうまく接合させて、お互いの良いところを引き出してゆく、ということが必要になるのではないだろうか。

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