デリバティブまとめ
サミットでのデリバティブ廃止の提言にもかかわらず、その意味するところもはっきりしていなかったので、いつものごとくWikipediaを参照しながらそれを考えてゆきたい。
デリバティブの目的としては、
逆のポジションを取ることでリスクをヘッジしたり緩和したりすること
特定の条件につながるオプションを作り出すこと
原資産の中で取引できない原資産リスクを把握すること(天候デリバティブなど)
原資産の価値の小さな動きがデリバティブの価値の大きな違いの原因となるようなレバレッジを提供すること
原資産が期待通りの動きをすれば利益が出るように投機をすること
移行管理の一部として原資産を歪めることなく異なった資産クラスの間で資産の配分を変えること
税の支払いを避けること
二つ以上の市場で同時に取引することでリスクなしの利益が出るよう裁定取引をすること
(超訳失礼しました)
とあり、上の二つか三つくらいはなんとか正当化できても、あとは金を動かすだけで濡れ手に粟の錬金術で、とてもではないが真っ当な経済行為としては認められない。上の三つにしても、それは商人が利益を出すために当然取るべきリスクであり、そのリスクの対価として商売の利益があるのに、それをデリバティブで解消していたら、いったい商人の利益の源泉はどこにあるのか、ということになる。要するに、デリバティブはその目的自体が経済を毀損する反経済的行為であるといえ、それが合理的に動けば動くほどに、経済、ひいては社会がどんどん侵食されることになるのだといえよう。
さらに悪いのは、三番目のものは典型的なのだが、金融用語というものに特殊な意味づけがなされることで、英語圏以外の人にとってはもちろん、英語圏であっても金融業界以外では通じないような言葉によって商品が定義され、意味がわからないままに取引が動いてゆく、ということがありうるということだ。underlyingは原資産のことだろう、と思って話をしていたら、いつの間にか自分自身の話に切り替わっており、自分の中の取引できないリスクを把握する、などということで、リスク要因を徹底的に暴かれる、ということを認める取引にサインしてしまう、というようなことがあるのではないか、ということだ。直接取引ならまだしも、全く関係のない部外者がいきなりunderlyingとして取引の一部に組み込まれ、その行動からリスク要因を排除するという第三者同士の取引の対象となって監視され、勝手にリスク要因とされたものを削られてゆく、などという不条理世界が突然降ってくるなどという不快なものは到底認められない。
さて、そのデリバティブの金融商品取引法上の分類をWikipediaから引用すると、
となっており、商品として一般化し市場で取引できるものと、金融機関を通した相対取引になるもの、そして外国の市場でのデリバティブ取引とにわけている。特に日本では、市場デリバティブ取引は株式、長期債券、一部の短期金利にほぼ限られているようで、デリバティブ取引の中心は金融機関を通した店頭でのものであると言えそう。先物と先渡の違いは商品が定型化されて市場で取引されているか否か、ということで、そうすると店頭指標オプション取引以外は内容的にはほぼ似通ったものが取引されているが、市場がそれほど大きくないのでほとんどが店頭取引になっていると言えるのだろう。
先物取引として、株価指数先物取引、個別株先物取引、国債先物取引、短期金利先物取引、外国為替先物取引、商品先物取引が挙げられている。
このうち、株価の先物は、株価の上下は直接的には株主にしか影響しないものであり、その先物とは株主の、株主による、株主のためのデリバティブで、社会的になんの意義も認められない。
国債に関しては、長期金利に影響するということで、だからこそスポット市場に限定しないと市場金利に余計なノイズを発生させることになる。つまり社会的には負の影響しか持たないデリバティブであると言える。
短期金利に関しては、理論的には短期の資金の過不足を時間軸で調整するということになるのだろうが、結局現在存在する資金の量というのはなんであれ定まっているのであり、時間軸調整とは幻想にすぎず、ただ余剰資金を持つものの選択肢を広げるだけで、これもむしろ理論とは逆に金融の逼迫効果しか持たないのではないだろうか。時間軸調整をするのならば、正の金利ではなく負の金利でないと必然的に資金供給は先延ばしされるのであって、それを先物でさらに加速するのはやはり愚策としか言えないだろう。
外国為替については確かに貿易取引のためには原価が為替レートの変化で大きく揺れ動くと商売にならないので、実務的には必要だと言えそうだが、その解決は為替先物ではなく、金本位よりも柔軟な、月単位、できれば年単位くらいの安定した為替相場を構築することでなされた方がはるかに低コストとなるだろう。変動相場のような仕組みに無駄なエネルギーを投入するのはあまりに社会的なロスが大きい。
商品先物については、食料については安定的な備蓄を行うこと、そのほかのものについては割り当て交渉にて決めた方が良いのではないかと感じる。生産量を年単位くらいで事前に定めて、それぞれの資源生産量を世界人口で割ってひとり頭のそれぞれの資源量を公平に割り当てた上で、国としてその割り当てをどのように他国との交渉で割合変化させてゆくか、という相対の交渉を中心として、争いではないやり方での資源配分を考えるべきではないだろうか。
となっている。現物資産についてのこのような契約なら生産者の立場を上げる可能性が出てくるが、金融資産は(コモディティを別とすれば)そうした生産者が存在しないものであり、そのような金融資産の意味のない取引はこれまたエネルギー資源の無駄遣いであり、社会的意義を見出しがたい。
とあり、典型的には金利スワップで長短の金利を交換する、ということがあるのだろうが、それも正の金利では常に資金を持っている方が有利となる取引で、部分的には金利交換の利益は出るようにはなるとは言え、全体像としての収奪の仕組みは変わらない。
例として、金利スワップ、通貨スワップ、クーポン・スワップ、為替スワップ、リカバリースワップ、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)、トータル・リターン・スワップ(TRSまたはTRORSなど)、エクイティースワップ、商品スワップ(コモディティ・スワップ)、長寿スワップ(Longevity swap)が挙げられている。
金利と為替は基本的には金利のスワップであり上記の仕組みの対象となる。為替関連については金利にプラスして為替リスクのスワップもあるのだろうが、これも為替を安定させれば必要なくなる。
クレジットがらみのスワップは、基本的には融資でリスクを取るというのは貸し手の利益の源泉であり、そこを外部化するというのは、金融機関の存在意義を問うものであるといえよう。それは、金融機関の経営基盤がしっかりしていればそのような無駄なリスクヘッジにコストをかける必要がないところ、BIS規制のような金融機関への”グローバルスタンダード”の導入によって無駄なコストを金融市場を通じて海外に流出させていることになるのだろう。これについては、金融の国際化というのがなぜ、どの程度必要なのかという議論をもっと深める必要があるのではないかと感じる。
エクイティスワップは株価変動リスクのスワップで、その無意味さも上に述べた通り。
商品スワップについてはそれをスワップと呼ぶのかどうかも定かではなく、現物のやり取りがある限りにおいては単に売り手が在庫と価格変動リスクをとって長期契約を取るという通常の商取引ではないかと考えられる。
長寿スワップについては、保険というものをどう考えるかという問題を提起するので、例外的に非常に難しい問題となる。つまり、将来受益者が金融機関や資本の出し手ではなく、消費者、支払側にあるということで、債権・債務関係が金利スワップとは逆になる、つまり正の金利でメリットを受けるのは消費者サイドにあるということになる。その意味で、正の金利において金融をビジネスとして正当に提供しているのは、保険、年金、預金といった将来資産の構築を行っている部分であると言える。これが負の金利となったときにどうなるのか、人は貯蓄をしなくなるのか、そして働かなくなるのか、という重要な問題を提起するので、ここはしっかりと考える必要がありそう。負の金利となった時の一つの可能性としては、預金、年金の機能は株式で運用しつつ、保険の機能についてはライフサポートコンサルティングのような形態となり、個別の人生の方向感のサポートをリスクの回避を中心として掛け金に応じて行ってゆくということになるのではないだろうか。方向感は具体的な夢の実現のようなものから、日々の安全な生活サポートのようなことまで多様な契約が可能となり、それを保険会社の組織がサポートというような形になるかもしれない。現状のサポートは競争的な要素を取り込みながら、というような印象を受けるが、それが相補的な協調的なものになってゆけばもっとそれぞれの人が充実した人生を送って行けるようになるのではないだろうか。
デリバティブというのは、このような人の叡智を絞るべき分野を全て金で解決(しようはずもないのだが)しようとする非常に愚かな商品であり、人間を退廃させる元凶となっているとすら言えるのではないだろうか。金で金を売買するようななんの生産性もないエネルギーの無駄遣いはやはりやめるべきではないか。
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