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【Lonely Wikipedia】アロー戦争

今度はアロー戦争についてみてみたい。英語では第二次アヘン戦争と呼ばれることが多いのだろうが、妙にイギリスびいきになってしまっているためか、その呼称に何となく納得できないこともあり、日本語で一般的なアロー戦争で記述する。

アロー戦争(アローせんそう、中: 第二次鴉片戰爭、英: Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。最終的に北京条約で終結した。戦争の理由の一つであった、中国人による多くの外国人排斥事件のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本ではアロー戦争と呼称される場合が多い。また、この戦争がアヘン戦争に続いて起きたために、第二次アヘン戦争(Second Opium War)と呼ぶこともある。

これも本来はかなり遡って考えないと見えない部分が多いのだが、特に清とイギリスの関係の大きなきっかけとなったアヘン戦争についてはもう一度見ておく必要がありそう。以前の記事でもそうだが、通説に比べてはるかにイギリス寄りの立場で書いているので、きちんと咀嚼して頂いた上で何らかの議論の土台になれば、と考えている。

まず、アジア貿易を担った大きな存在として、東インド会社というものがある。この会社は、1600年にイギリスにおいて東インド貿易の独占免許が交付され、その許可がない貿易については、船や積み荷を没収、王室と東インド会社でそれを折半した上で、投獄されるという内容になっていた。このざっくりとした免許は様々な問題をはらんでいたのだが、特にここで問題となるのは、許可の有無について、国籍はどうなるのか、という事があった。つまり、密貿易を外国籍を装ってやった時にはどうなるのか、という問題だ。おそらくそれが悪名高いイギリスの海賊となっていったのではないか、と考えられる。イギリスの私掠船には免許があったという事なので、それを東インド会社が出していたのでは、という想像をしている。

少し余談で、イギリスの海賊と言えば「パイレーツ・オブ・カリビアン」のようにカリブ海がイメージとして浮かぶが、東インド会社とカリブ海の関係というのはいったいどうだったのか、というのが気になる。全く個人の想像に過ぎないが、東インド会社というのは、そもそも最初にインドだと信じられた新大陸との取引を扱うための会社であり、東回りでのインド到達というのは視野に入っていなかった、あるいはあったとしても非常に限定的であった、と言うことではないのか、と考えられる。これに関しては、英語版Wikipediaに、東インド会社の管轄範囲が喜望峰の東からマゼラン海峡の西まで、と書いてあるなど、反証すべきことも山ほどあるので、すぐにどうこうとはならないが、東インド会社の交易の中心が新大陸であったから、海賊はカリブ海であるというイメージになっているのではないか、という妄想を筆者が持っている、という事を頭に入れながら、引き続きお読み頂けるとありがたい。

とにかくそんなことで、東インド会社での国籍というのが一つ大きな問題として考えられた。当時スペインと戦争中であったイギリスとしては、その東インド会社を隠れ蓑にして、スペイン船からの略奪ということをある程度黙認していたことが考えられる。一方で、アジア方面において、イギリスが本当に進出していたのならば、同じ理屈で、その東インド会社から許可を得なければ、そちら方面で強かったポルトガルやオランダからの略奪も正当化されてしまう。しかし、対スペインと言うことで考えれば、それらは、どちらも複雑な事情がありながら、とりあえず同盟国(?)という事になる。特に複雑だったのは、当時ポルトガルはスペインと同君連合となっており、海外のポルトガル領イコールスペイン領という事なので、スペイン船と戦うための錦の御旗として東インド会社の許可、というものが使われて、それによってスペイン船からの略奪を行った事が考えられる。近世的な意味で日本が西洋と邂逅したのはこのような時期であった、という事は頭に入れておく必要があるのかもしれない。

それはともかく、イギリス東インド会社に引き続いて、オランダ、デンマーク、ポルトガル、フランスなどの諸国が次々に東インド会社を、本当のインドの東側、つまりアジアにて作り始めた。これは、東インド会社の許可、というのを、イギリスからに限らず、自分たちでやってしまって、いざとなったら責任だけイギリス東インド会社に付け回ししようとして作られた可能性もある。イギリスは結局そこまでアジアに割ける手がなく、1623年のアンボイナ事件を最後にオランダとの争いの末にアジアからは撤退することになる。そしてアジアでは東インド会社という名前だけが残り、それが亡霊のようにどんどん膨らんでゆく事となった。その中でもオランダ東インド会社というのが存在感をもつことになる。

その後、18世紀の末になるまで、アジアの情勢は比較的安定していたが、フランス革命によって様子が変わってくる。オランダを併合したフランスが、バタビアのオランダ東インド会社を傘下に収めようとしたのだ。そこでおそらくオランダは、東インド会社の名前をうまく使ってイギリスを介入させた。イギリス東インド会社はこの時になってようやく東南アジア方面に進出を始めたのだと言える。そして、ベトナムの後黎朝から阮朝に至る混乱もこの時期と同期しており、そこで現地の記録が曲げられているのは、この混乱が影響している可能性が高い。おそらくベトナムが助けを求めたと言うよりも、オランダがベトナムに助けを求め、それをフランスが差し止めた、と言うことなのではないかと思われる。そんなときに対フランスの文脈で、イギリスもアジア情勢への介入を求められ、そこで東インド会社というものが再び脚光を浴びるようになったのだと言えそう。イギリスはナポレオン失脚後、占領した植民地を返還しており、アジアにそこまで強い介入、干渉の意志を持っていなかった。

そんな中で前回書いたように、フランスがインドシナへの介入を強め、そしてベトナムへのアヘン流入にも関与していた疑いが強い。そして1839年に清がアヘンの輸入禁止を徹底し、それを全部没収処分した。このあたり、記述が安定しておらず、なかなか確定的なことが書けないのだが、まず周辺状況から見ると、アヘンからモルヒネが精製されるようになったのが1805年だとされる。しかしながら、これはナポレオン戦争の真っ最中であり、事実関係は確実とは言えないような気がする。ただ、このナポレオン戦争中に、アヘン、またはモルヒネを兵士に与えて、痛みを麻痺させて戦争に参加させるという事が始まったのでは、と疑われる。それにはどうもプロイセンが関わっていたようなのだが、正確なところはよくわからない。この頃から清でのアヘンの吸引も問題化しているようで、わからないが、人体実験的に中国にアヘンの精製品を持ち込んで吸わせる、というような事が行われたのかも知れない。それを誰がやったのか、というのがまた複雑な問題で、まずオランダ東インド会社はオランダのフランスへの併合に伴い、フランスのものとなっていた。おそらくその所有関係の曖昧さからその名義で中国に流れたのでは、と想像されるが、それも想像に過ぎない。そんな話も流れていたから、イギリスはナポレオン戦争後にそれぞれの所領を元の持ち主に返したのではないかと考えられる。

モルヒネの精製が実用化していたのならば、その原料であるアヘンの価値はもっと上がっていても不思議ではなく、それを中国で安く売るというのはビジネス的には余り良い選択とは思えない。これも想像だが、仮にイギリス商人が絡んでいたとしたら、アヘンからモルヒネへの精製過程を比較的に技術もある中国にて行って、量をコンパクトにしてからヨーロッパに持ち帰る、というような加工貿易的なことをしていた可能性はあるのかもしれない。もっともそれをフランスやオランダがやっていなかったと考えるのも無理が出てくる。

そうなると、清を開国させるためにフランスやオランダがイギリスを狙い撃ちにするよう林則徐に何らかの形で働きかけたという可能性も出てくる。まあ、可能性の追求など、いくらやっても真実には近づかないのだが、とにかく現段階でのWikipedia情報によると、イギリス本国の指令を受けた艦隊は、アヘンの処理がなされた広東には見向きもせずに天津へ向かい、その結果川鼻条約が提案された。これは南京条約よりも緩やかな条件だったが、正式締結されず、結局翌年により厳しい南京条約の締結となる。おそらくイギリス側の開戦理由は、誓約書の提出が自由貿易に反する、と言うことだったのではないかと思われるが、それも確定的ではない。とにかく今の安定しない情報ではこれ以上のことはわかりそうもないが、個人的感覚ではイギリス側の非は言われているほどは大きくないと感じている。その後、清では太平天国の乱がおきるなど混乱が拡大した。

そして、その太平天国の乱の最中に1856年のアロー戦争に至る。この戦争に関しても、無許可(?)の船に対する臨検というのはともかくとして、国旗を降ろして侮辱する、というのは十分に戦争の理由となるべき事だろう。パーマストン卿というのは、国の誇りに関わることに関しては非常に敏感であり、そのパーマストン卿に対してそのようなことまでするというのは、無知である以上に、やはり共に参戦したフランスなどの示唆があったように感じられる。こうやれば戦争に引きずり出せる、というような見込みがあってそれを行わせているのではないかと疑われるのだ。というのは、それに先だってクリミアでも同じようにイギリスを戦争に巻き込み、そしてその間に自らはインドシナへの介入を強め、またスエズ運河計画を進め、そしてメキシコへも共同出兵を持ちかけるなど、イギリスを風よけのように使っての勢力拡大、そして悪名を全部イギリスに振り替える、というナポレオン3世の悪辣さが現われているように見えるからだ。

全体像を把握するというのはそれほど簡単なことではないが、とにかく、このあたりの清とイギリスの関係性というのは、そのまま日中戦争の時の中華民国と日本との関係性と相似をなしており、そのマネジメントの差が結果に大きく反映されたのだと言えそう。また、清の西欧諸国への対応というのが、アジアにおける西欧諸国の行動の規範となり、その為にアジア全域に不平等条約が広まったのだ、という側面も無視できないのだろう。その意味で、アヘン戦争、アロー戦争は、清・中国にとってだけの悲劇ではなく、アジア全域にとっての悲劇であった、という視点も忘れてはならないものだろう。そうでないと、朝鮮や満州国への日本の関与というものの評価は一面的になってしまう。戦争に至る道のりとは、かくも様々な要件に影響されるという良い例なのだろう。

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