続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来(1)
5月、6月に続き再度広島を訪問してきた。大きく目指す流れは、寛容と対話の地・広島をいかに構想しうるかということであるが、広島といっても広島市というのが広島県の全てを代表しうるわけではないということはすでに述べた。そこで、今回は、広島を舞台としながらも、原爆に代表されるような広島市を中心とした固定的イメージに囚われることなく、いかに多様な広島イメージの相互尊重と交流を図っていけるのか、ということを考えてみるために再度の訪問をした。この訪問を通じて感じたこと、考えたことをまとめることで、寛容と対話ということの実践を、広島の県内、その隣接地域との関係、さらには国、そして国内の他地域との関係、そしてその先に世界各地との関係で、いかに取り組んで行けるのか、ということを考察してみたい。
歴史を顧みる方では、今回は9月に中心的に訪問した備後地方と、広島ではないが、深い繋がりを持つ防長石の山口、秋吉台、津和野についてみてみることで、広島の更なる多様性、そして隣接地域との関わりの中で広島の歴史がいかに育まれてきたのか、ということを考えてみたい。
未来を臨む方では、寛容と対話のベースとなるような、地方分権のあり方、相互交流の活性化のためにできることといったことを考えてゆきたい。
広島県の成り立ち
それでは早速未来を臨む視点を整えるために、広島県の成り立ちを軽くみてゆきたい。明治維新後の地方自治制度の変遷というのは、自分の住んでいるところでも複雑怪奇で容易に理解できないのに、ましてや他県である広島のことについて、そこまで土地勘があるわけでもなく、地名が出てきてもサッとイメージと結びついたりもしない程度の理解しかないので、正確で緻密な地方自治制度の理解ができるとは到底思えないが、それでもそこをみておかないと、広島県というものの全体像の理解に大きな歪みが生じてしまうと感じるので、ここで、自分なりの整理のために、それをみてゆくことは重要なことなのではないかと考える。
多様な廃藩置県
地方自治という観点で見る限りにおいては、慶応4/明治元(1868)年の明治維新そのものよりも、明治4(1871)年の廃藩置県の方が重要な意味を持つ。とは言いながらも、これも全国一律的であったかというとそんなこともなく、全ての様相を追えるわけではないが、例えば現在の愛知県に当たる部分のうち、三河地域においては明治維新後に三河裁判所が置かれ、元の幕府領を管轄したが、すぐに廃止となって、廃藩置県前なのにも関わらず、旧幕領と旗本領は府藩県三治制に従って三河県、伊那県、そして額田県と推移した後に廃藩置県を迎えている。それに対して、広島においては、旧広島藩領については廃藩置県後にそのまま広島県へと衣替えしており、残りの備後6郡についても廃藩置県によって旧福山藩領を中心とした福山県となったが、その後複雑な経過を経て広島県に統合されてゆくことになる。
戸籍制度
この違いにはさまざまな要因があると考えられるが、大きなこととしては、三河地方には旧幕領や旗本領が多くあり、藩領とは違う扱いが必要になったことがある。また、藩領に関しては、廃藩前の明治4年4月4日に戸籍法が制定されていることから、この戸籍制度の導入のために旧領主の色彩が強い藩を廃止して新たに県を作るということの方がやりやすいという判断もあったのではないかと考えられる。しかしながら、この様相も、戸籍や地租改正が新政府肝煎の中央集権的手法で行われたことを考えると、地域ごとに細かく見てゆく必要がありそう。
この戸籍法は、翌明治5年2月に全国一斉に施行されたというが、この施行という意味は、行政区画として大小区制を導入したということなのではないかと考えられる。しかしながら、それがどの程度の実効性を持っていたのかはそれぞれの地域ごとに個別に確認する必要がありそう。今はこの事実関係(とされること)を確認するにとどめておきたい。
武一騒動
いずれにしても、広島においては、この混乱の中で旧藩主の引き留め闘争として武一騒動が発生している。これが旧藩主の引き留めだったのか、それとも新領主による戸籍制度の導入に対する反対だったのかについて考えてみたい。そのための補助線として一つ仮説を提示すると、おそらく明治維新から廃藩置県に至るまでに間が空いたのは、江戸時代全般を通じて藩と呼ばれるもので実態を伴っていたものが少なく、だから中央で管理していた話に乗って藩主であったという役を演ずるものを割り当て、藩の記憶をそれらに保たせるというステップを踏む必要があったからではないか。そして、藩の統治があったということを固めてからでないと、その藩の後継としての県による戸籍制度の導入ということがスムーズにいかないということ、逆に言えば、戸籍登録の際に藩の歴史について藩主の言い分を飲ませるということで江戸時代の支配実態というのが話の上で整えられたのではないか。なお、三河に旧幕領や旗本領が多いというのは、おそらく西国で先行して藩の話を作っていったので、西国では大きな藩で一気に支配していたという話を作れたが、その話を伝え聞いた東国に行けば行くほど大きな藩の独り占めということが難しくなり、小規模な旗本と、藩主や旗本といった諸侯による支配を潔しとしない人々が集団自治を行う御料所とが増えていったのではないかと考えられる。
備後福山地方
実際の例で何があったのか、ということを推測してみると、旧福山藩領であった福山県では、廃藩置県からわずか4ヶ月後の11月に深津県に名前が変わり、さらに翌5年5月3日には備後6郡と備中一円を管轄とした小田県が設立された。これは、もしかしたら、もともと今の広島県全体を広島藩領として一気に支配しようとしていたのが、どうにもうまくいかなかった、あるいは逆に中国地方山間部は全体的に一体感を持っていたのが、それを分断しようと細切れの県をいくつも作ろうとしたといった両方の可能性が考えられそうだ。福山城というのは、備後のものは近世になってから建てられたものだが、備中には南北朝以来の歴史を持つ同名の城があり、それを考えると福山県というのは実は現在では備中とされている地域を想定して作られたものであったかもしれない。つまり、福山県から深津県に変わったというよりも、備後備中を含んでいた福山県のうち備後部分を深津県とし、さらに半年後に備後6郡と備中一円に戻して小田県としたのかもしれない。これは、備後では武一一揆に合わせて一揆が発生しており、安芸との一体感が強かったので、備中と一緒にした地域区分ではどうにも収まらず、それでこのような領域変更が度々行われたのではないかと考えられる。結局、小田県は明治8(1875)年12月10日に廃県となり、岡山県に合併され、さらに翌明治9(1876)年4月18日には元の小田県のうち備後6郡が広島県へ移管され、一方で北条県が廃止されて岡山県へ合併され、これによって現在の広島岡山両県の領域がほぼ固まった。
揉めた県の領域確定の背景
この推移を考えると、少なくとも県の領域が確定するまでは戸籍制度が機能していたとは考えにくく、それはすなわち旧幕時代の歴史について住民と新支配者との間で全く合意には至っていなかったということが考えられる。それは、第二次長州征伐以来の幕府徳川と長州との争いという文脈で、関ヶ原にまで遡って毛利の正当性を主張するという動きがあり、それに対して在地系はそのようなお仕着せ大名の話はいらない、として意見が噛み合わず、結局関ヶ原で東軍の先鋒を務めた福島正則が広島に入ったということでなんとか話がまとまったということではないだろうか。福島正則は、西軍の先鋒で備前の大名であった宇喜多秀家と戦っており、それがこの備後での領域争いとして残っているのではないだろうか。宇喜多氏に絡んで、石州津和野の初代藩主が宇喜多氏の一族坂崎氏で、大坂の陣で家康の孫娘である千姫を救い出し、それを妻としようとしたが結局改易となっている。福山藩は第二次長州征伐で津和野を抜ける石見口に出兵したが、長州藩に敗れている。これは、福島と宇喜多との争いの一部、おそらく宗教絡みではないかと今のところ考えているが、その部分だけ福山藩として別の解釈にして分けたという可能性がありそう。というのは、津和野は弥栄神社、備後には吉備津神社と素盞嗚神社があり、弥栄神社と吉備津神社は木瓜の紋を共有しており、どれも外来神の雰囲気を持つ。信仰の対象を国内にするのか外来神にするのか、という部分での違いがあったと考えられる。これはまた津和野のところで改めて検討したい。
一揆の理由は? ー 歴史観形成の様相
いずれにしても、広島と岡山との間の地域をどうするのか、ということが大きな問題となっていたように感じられ、おそらくではあるが、この旧藩主の引き留めというのは、元々は征夷大将軍としての徳川があり、その下での旧藩主が誰なのか、ということがはっきりとは定まっていない中で、一旦福島でまとまったはずの話が、浅野氏が旧藩主であったという話になって、それが京都に帰る、ということになったので混乱が生じ、一揆に至ったのではないだろうか。
ただ、関ヶ原の話と大坂の陣の話が同時進行で進んでいたとは考えにくく、これには時間差があるのではないかと感じる。そして、浅野氏は関ヶ原というよりもむしろ大坂の陣での動きの方が重要であるように感じ、そして福島正則は大坂の陣の時にはまだ改易前だったが、大坂の陣には関わっていない。福島はその後信州川中島(津軽とも言われる)に移封されているが、川中島ではないが、三次の中心は川の合流点を元に川と山に囲まれた部分であり、そこには三次支藩の浅野氏の菩提寺を中心として街が広がっている。この辺り、いろいろな話を組み替えながら、浅野氏がたくみに広島の支配を固めていったと考えられるのかもしれない。
いずれにしても、200年以上前どうだったかについてさまざまな話が流れている中で、さらに藩主が京都に帰り新たな領主が来たら、またよくわからない話を持ち込まれるのではないか、という危惧から藩主引き留め闘争という形をとった一揆につながっていったと考えるのは、それほど無理がないのではないだろうか。
戸籍制度導入の実例
さてここで他の地域の様子と比べるために、再び愛知県について見てみると、明治9(1876)年8月21日に大小区が廃され十八区が置かれた。大区の中に小区を置いてもしかしたら村の仕組みを解体しようとしたのかもしれないが、これが頓挫したのかもしれない。愛知県では地租改正に手間取り、明治8年末に県令が交代しており、9年の2月には一旦地租改正の作業を差し止め、3月に再開し十八区が置かれた直前の8月15日に作業を終えたことになっている。それまでの難航ぶりをみると嘘のような進行ぶりで、これは実際の実地での改正作業を飛ばし、書類上だけで終えたということにした可能性もありそう。そこで区割りも変更し、そして権利関係が複雑化する山林原野を後回しにするということで、見た目上の作業終了を優先したのかもしれない。山林原野の地租改正は明治11年になってからで、その年には7月に三新法と呼ばれる『郡区町村編制法』、『府県会規則』、『地方税規則』が交付されている。つまり、強圧的な地租改正の勢いを止め、地方側の声が新政府に反映されるようになって三新法が制定されてようやく山林原野の地租改正に至ったことになる。『郡区町村編制法』によって、戸籍のために作られたとも言える区制が廃止され、代わりに郡区が置かれた。『府県会規則』にて選挙権に本籍と地租納付が定められたため、これによってようやく戸籍制度が定着したのではないかと考えられる。
地租改正の混乱に垣間見る維新期の実相
なお、明治8年に新たに愛知県令となった安場保和は元福島県令であったとされる。ここで、広島の毛利の後の支配者として福島正則がいたということを考えると、もしかしたら広島はこの時期は広島県ではなく福島県と呼ばれていた可能性もあるのではないか、という気がする。福島は、のちに福島事件が起きるなど、政治、社会的にも中心的な役割を演じるということで、それが今の広島のことであったと考えてもそれほど違和感はないと言えるかもしれない。時期的にも、小田県の廃止と安場の愛知県令就任は半月違いであり、備後6郡の広島への移管は地租改正が再開された一月ほど後になる。また、愛知県での地租改正などが本当にこの時期に行われたのか、ということについては、個人的にはまだ納得のいっていない部分があり、この愛知県での地租改正に関わる部分というのは、もしかしたら今の広島、特に備後地方に関わる話なのかもしれない、ということも考えている。ただ、地租改正についての特に結末部分についての記述は『広島県史』の方が遥かに詳細なので、愛知県の話は後の時期にそれを単に要約して、あたかも広島と同時期に地租改正がなされたと偽装しただけかもしれない。