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【Lonely Wikipedia】モーゲンソーを支えた人々

ではブレトンウッズ構想はどこから出てきたのか、ということを考えてみたい。

まず、ブレトンウッズ体制構築に主導的役割を果たしたホワイトだが、

ハリー・デクスター・ホワイト(Harry Dexter White、1892年10月9日 – 1948年8月16日)は、アメリカ合衆国官僚ソ連スパイフランクリン・ルーズベルト政権の財務長官であるヘンリー・モーゲンソーの下で財務次官補を務めた。
リトアニア系ユダヤ人移民の両親のもと、マサチューセッツ州ボストンで生まれた。1924年コロンビア大学に入学し経済学を学ぶ。その後スタンフォード大学を経てハーバード大学ローレンス大学で経済学の助手として勤務した後、ハーバード大学の大学院に入り、1935年に博士号を得ている。1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、その後ドイツとソ連が戦争状態に入ると、ソ連援助を目的とした武器貸与法の法案作成に参画し、これは1941年3月に成立している。
1941年11月17日に「日米間の緊張除去に関する提案」を財務長官ヘンリー・モーゲンソーに提出、モーゲンソーは翌18日にこれをフランクリン・ルーズヴェルト大統領とコーデル・ハル国務長官に提出した。これがハル・ノートの原案である「ホワイト試案」(または「ホワイト・モーゲンソー試案」)となり、大統領命令により、ハル国務長官の「ハル試案」と併行して国務省内で日米協定案とする作業が進む。25日に大統領の厳命により、ハル長官は「ハル試案」を断念、この「ホワイト試案」にそっていわゆる「ハル・ノート」(正式には:合衆国及日本国間協定ノ基礎概略/Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)が日本に提示される。
ブレトン・ウッズ協定及び国際通貨基金 (IMF) の発足にあたって、イギリスのケインズ案とアメリカのホワイト案が英米両国の間で討議されたが、IMFはホワイト案に近いものとなり、以後世界ではドルが基軸通貨となる。 1945年「対ソ100億ドル借款案」がモーゲンソー財務長官を経て、ルーズヴェルト大統領に渡っている。モーゲンソー・プランでは、ドイツからすべての産業を取り去り、戦争ができない農業国にするよう提言した。
He did not begin his university studies until age 30, first at Columbia University, then at Stanford University, where he earned his first degree in economics. Harvard University Press published his Ph.D. thesis in 1933, as The French International Accounts, 1880–1913. His PhD dissertation won the David A. Wells Prize granted annually by the Department of Economics, Harvard University. After completing a Ph.D. in economics at Harvard University at 38 years of age, White taught four years at Harvard and Lawrence University in Wisconsin.
Treasury Department
In 1934, Jacob Viner, an economist working at the Treasury Department, offered White a position at the Treasury, which he accepted (Viner would receive an honorary degree from Lawrence University, where White taught before joining the Treasury, in 1941). White became increasingly important in monetary matters, and was a top advisor to Secretary of the Treasury Henry Morgenthau, Jr., especially on international financial affairs dealing with China, Japan, Latin America and Britain.
Morgenthau Plan
According to Henry Morgenthau's son, White was the principal architect behind the Morgenthau Plan, designed to permanently weaken Germany's military capabilities.
Bretton Woods conference
White was the senior American official at the 1944 Bretton Woods conference, and reportedly dominated the conference and imposed his vision over the objections of John Maynard Keynes, the British representative. Numerous economic historians have concluded that White and the powerful U.S. delegation were wrong in dismissing Keynes's innovative proposal for a new international unit of currency (the "Bancor") made up of foreign exchange reserves held by central banks. After the war, White was closely involved with setting up what were called the Bretton Woods institutions—the International Monetary Fund (IMF) and the World Bank. These institutions were intended to prevent some of the economic problems that had occurred after World War I. As late as November 1945, White continued to argue for improved relations with the Soviet Union. White later became a director and U.S. representative of the IMF. On June 19, 1947, White abruptly resigned from the International Monetary Fund, vacating his office the same day.

ということで、ブレトンウッズ体制構築に際してケインズ案を退けてホワイト案が採用されたことから、大学者かと思いきや、大学で勉強し始めたのは30歳になってから。博士号は38歳で取得と言うこと。コロンビア大学、スタンフォード大学、そしてハーヴァード大学と華々しい名が並んでいるが、実はこの時期のハーヴァードというのが少しおかしい。総長のローレンス・ローウェルが、同性愛者を追放したり、アフリカ系の学生を新入生寮から締め出したりし、それと同時にユダヤ系の学生比率を22%から15%に下げたとされる。これは上述のコロンビア大学での比率制限と同期しており、これは個人的な見解だが、実は統計操作によって逆にまず比率を引き上げておいて、見かけ上それを下げることによってコロンビア大学でもその比率を採用するように、という圧力をかけたのではないかと疑われる。そして、まさにその時期に、ユダヤ人であるホワイトがそこに入学し、博士号を取得することになるのだ。
その論文の内容は、第1次世界大戦前のフランスの貿易赤字について、海外投資からの黒字で穴埋めがされたとされる一般的見解に対して、海外投資のマクロ経済効果は常に正になるとは限らず、だから海外投資の量と投資先は知的に管理される必要がある、というものだった。これは、ケインズの国際マクロ経済均衡の考え方と真っ向から対立するものであり、それもあってケインズと対立していたヴァイナーが財務省で働くよう声をかけ、そしてブレトンウッズでのケインズとの対決と言うことになるのだろう。もちろん、時期としてはケインズの一般理論はまだ世には出ていないが、一般的見解の代表格としてケインズがいただろうから、それと対決させる、という考えはあったのだろう。ホワイトには、どうもそれ以外には目立った学術的業績はないようだ。
こうしてみると、財務長官のモーゲンソーは主として国内向けの、そして財務次官補のホワイトは海外向けの、政治的武闘派として、おそらくシカゴ大のヴァイナーを理論的なバックボーンにして、最前線で戦うよう引き上げられたと考えられそうだ。

では、そのヴァイナーに就いてみてみたい。

ジェイコブ・ヴァイナー(Jacob Viner、1892年5月3日 - 1970年9月12日)は、カナダの経済学者。国際貿易理論と経済思想史が専門といえるが、そのほかに純粋理論の論文もある。各国間の貿易収支の不均衡を改善するために変動為替相場制の正しさを理論的に証明したことで知られる。
略歴
* 1892年 - カナダケベック州モントリオール出身、両親はルーマニアに移民したユダヤ人
* 同州マギル大学(マックギル大学)で学んだ。
* 1914年 - BAを取得して卒業。
* 1915年 - アメリカハーバード大学に入学。フランク・タウシッグの指導の下、博士号をめざす。
* 1916年 - シカゴ大学で教え始める。
* 1917年 - ワシントンの官庁に勤務。
* 1919年- シカゴ大学に復帰。
* 1923年 - 博士号を取得した。博士号取得論文である『ダンピング』は同年、出版される。
* 1919年 - 32歳でシカゴ大学の正教授となる(~1946年)。
* 1928年 - 『ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー』の編集者となり、18年間続けた。
* 1934年 - アメリカ財務省の特別補佐官をする(~1939年)。
* 1939年 - アメリカ経済学会の会長になる
Public service
Viner played a role in government, most notably as an advisor to Secretary of the Treasury Henry Morgenthau Jr. during the administration of Franklin Roosevelt. During World War II, he served as co-rapporteur to the economic and financial group of the Council on Foreign Relations' "War and Peace Studies" project, along with Harvard economist Alvin Hansen.
Work
Economics

Viner was a noted opponent of John Maynard Keynes during the Great Depression. While he agreed with the policies of government spending pushed by Keynes, Viner argued that Keynes's analysis was flawed and would not stand in the long run.
Known for his economic modeling of the firm, including the long- and the short-run cost curves, his work is still used today.
Viner is further known for having added the terms trade creation and trade diversion to the canon of economics in 1950. He also made important contributions to the theory of international trade and to the history of economic thought. While he was at Chicago, Viner co-edited the Journal of Political Economy with Frank Knight.
His work, Studies in the Theory of International Trade (1937), discusses the history of economic thought and is a historical source for the Bullionist controversy in 19th-century Britain.

とは言っても、Wikipediaからではたいした情報は出てこない。そして、ぱっと見でもルーマニアに移民ではなく、ルーマニアからの移民ではないかな、と感じるような、間違いらしきことが書いてあるが、それでも日本語版の経歴を裏取りもせずに信じると、第1次世界大戦中にハーヴァードに在学中ながらシカゴ大で教え始め、更に名前は出ていないが、官庁で働いたとなっている。当然経済系の官庁となるのだろうが、そこで気になるのが前回出てきたモーゲンソー(父)がその時期ウィルソン大統領の所属する民主党の財務委員長を務めていたということ。そしてその時期、第1次世界大戦に関わり、自由公債を発行して資金調達が行われている。それは4次まで発行されたが、1次から3次までは4次よりも条件が劣ったということで、4次に借り換えがされているとのこと。18年に発行されたその4次の条件というのが、元利ともに現在平価の金貨で支払う、というものであり、17年9月に兌換を一時停止していたアメリカにおいては、非常にギャンブル性の高い商品であったと言える。それを考えたのが、シカゴ大で教えていたというヴァイナーだったのではないだろうか。結局この自由公債は15年後の33年から償還が始まったが、翌34年にデフォルトしている。その34年にルーズヴェルト政権が誕生し、ヴァイナーは財務省の特別補佐官になっていると言うことになる。この被害額は2021年現在の価値で2500億ドルとも言われるが、それがどうなったのかは読解力不足でよく理解できなかった。第2次世界大戦の発生、そしてブレトンウッズ体制の成立に非常に大きな影響があったと思われるが、Lonely Wikipediaでは解き明かすことが出来なさそう。
ヴァイナーの変動相場制への確信は、このデフォルト、第4次の発行時と比べて償還時にはかなり金に対するドルの価値が下がっていたのだが、そこから得られた知見がありそう。つまり、金に替わって基軸通貨で貸付けを行えば、相手国通貨が切り下がればドル建ての価値が変わらなくてもより多くの外貨が手に入る、という事になるからだ。おそらく、その考えがあって、基軸通貨を握ることの重要性が意識され、ドルを国外に輸出するマーシャル・プランの考えにつながっていったのだろう。
なお、ヴァイナーは、戦後になって貿易理論について、trade creationとtrade diversionの概念を提示し、経済ブロック化の理論的正当化を行っている。だから、スムート=ホーリー法の理論付にも関わっていた可能性がある。

彼らからつながる人脈をもう少し見てみたい。

まず連銀総裁のマリナー・エクルズ

マリナー・エクルズ(Marriner Stodderd Eccles、1890年9月9日 - 1977年12月12日)は、アメリカ合衆国の実業家、銀行家。1934年から1948年まで連邦準備制度理事会(FRB)の議長を務めた。
ユタ州ローガンに生まれた。父親のデヴィッドはモルモン教の移民基金によってスコットランドグラスゴーからユタ州に移り住んだ移民で、マリナーが生まれたときは伐木事業などを経営していた。母親のエレンも移民の家系である。

ローガンは1859年にモルモン教徒によって開拓が始まった町ということで、父親は開拓移民となるために改宗したのかも知れない。エクルズという名前は余りスコットランド的ではないように感じ、地名としてのエクルズというのは、ギリシャ語の民主的市民集会を意味するという Ecclesiaから来ているともされ、もしかしたら移民をした時に改姓したのかも知れない。そうだとすると、アメリカに民主主義の夢を見ていたといえるのかも知れない。

1933年12月、ウィリアム・ウッディン財務長官が病気で辞任し、ヘンリー・モーゲンソウが財務長官となった。モーゲンソウはエクルズを呼び出し、意見交換をした結果、自分の補佐官になるよう告げた。エクルズはこれを引き受け、1934年2月から財務省に入り特別補佐官となった。
1934年6月、連邦準備制度理事会議長のユージン・ブラック(英語版)が辞任した。モーゲンソウはルーズベルト大統領に、後任議長としてエクルズを薦めた。大統領から呼び出されたエクルズはいくつかの条件付きでこの職を引き受けた。
エクルズが出した条件とは、今まで連邦準備銀行が行っていた公開市場操作をワシントンの連邦準備制度理事会で行うようにすること、各地区の連邦銀行の会長職を廃止してその権限を総裁が持つようにすることなどであった。要するにこれは、ワシントンの連邦準備局の力を強め、ニューヨークの連邦準備銀行の力を弱めることだったので、反対する意見も多かった。しかしエクルズは、経済学者のラフリン・カリーを助手につけ、自らの主張を押し進めた。1935年8月には、新しい銀行法(1935年銀行法)を成立させた。
太平洋戦争が起こると、戦費を調達する必要性が高まった。しかしその戦費調達方法を決めるにあたって、エクルズはモーゲンソウ財務長官と対立するようになった。
一方、1942年ごろからアメリカではインフレ傾向が明確になってきた。エクルズはこれに対処するため、購買力を抑制させ、歳入については国債の割合を減らし、税金の割合を増やすよう主張した(出口戦略)。しかしこれについても財務省は反発し、結果としてエクルズの意見はあまり取り入れられなかった。
またこの時期、エクルズはブレトン・ウッズ協定締結のための交渉に参加し、ケインズとも激しくやり合ったが、エクルズの自伝には全く記述が無く詳細は不明である。

エクルズ自身はモーゲンソーとは考え方が違う、というかモーゲンソーに理論的背景はないので、ヴァイナーとの考え方の違い、と言うことになろうが、初期段階においてはFDRが緊縮主義をとっていたので、その考えを変えさせるためにエクルズを重用し、それから国債を連銀が引き受けるか否かについての考え方の相違が表に出てきた、と考えられそう。財政拡張主義の責任を全部負わされそうなところ、踏ん張ったと言えるか。


ヴァイナーと共に"War and Peace Studies" projectに関わったアルヴィン・ハンセン。

アルヴィン・ハーヴィ・ハンセン(Alvin Harvey Hansen、1887年8月23日 - 1975年6月6日)は、アメリカ経済学者1937年からハーバード大学教授として活躍。専門はマクロ経済学。ケインズ革命をアメリカにもたらすことに尽力し、アメリカン・ケインジアンとも呼ばれたが、一方では、幅広い経済問題をも取り上げた。日本ではアーヴィン・ハンセンとも呼ばれる。

ヴァイナーがケインズと対立的であったために、その理論的防波堤として選ばれたと言えそう。とは言っても、ハンセンは、ケインズの弟子であったヒックスとともにIS-LM分析を導入したが、それはケインズ経済学を極度に単純化し、計量化しやすくしたものであり、まさにケインズ理論をアメリカナイズしたのだと言える。
ハンセンもデンマークからの移民2世であり、そしてモーゲンソー・プランではかつてデンマーク領であったこともあるホルシュタイン州が国際管理地域内に含まれることになっていた。

いずれにしても、モーゲンソー、というべきか、FDRの周辺には移民人脈ができており、第2次世界大戦というのは世界大戦であったのと同時にアメリカにおける第2次革命戦争であったとも言えそう。そのきっかけとして、モーゲンソー(父)によるニューヨーク周辺での土地革命的な動きがあったと言えるのかも知れない。そしてそれは、共産主義革命がパリ・コミューン的な帝政打倒の革命から、ロシア革命的な土地革命に切り替わるきっかけとなったのかも知れない。そうだとすると、ブレトンウッズ体制は、金本位制を変動相場制へ変えるという通貨革命という、革命の第三段階だったと考えられるのかも知れない。しかし、それは結局、神への従属という、中世への逆戻りを意味したのだと言えそうだ。

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